寺澤行忠の「西行」

桜の季節ということもあって、新聞の書評で見つけた「西行―歌と旅と人生―」を読んだ。アマゾン恐るべしで、朝ネットで注文したら、夕方にはポストに入っていた。辻邦夫の「西行花伝」(p.30)を1995年に読んでいたが、残念ながら記憶は薄い。本書は、西行の歌の研究者が、歌とともに西行を語るもので、かなり客観的な分析が元になっている。それでも、西行と言えば桜という基本は全編に流れている。
平安時代の武士が台頭し、平家から源氏に時代が変わるときに、平家により親近感をもち、源氏には心を許さないものがあったようである。それを出家した身ということで歌人としての人生を送り、自由に生きたという。
みちのくへの旅というのも、この連休は釜石の唐丹に滞在しており、都人と奥州の関係を想像してみたりした。もちろん、当時は、とてつもない遠隔地ということになるが。白河の関が登場し、松平定信が出てくる(p.56)が、ちょうど、荒庸子のラジオ番組で、渋沢栄一関連ということから、松平定信を祀っている南湖神社が語られたりして、妙なつながりを感じたりした。
「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ」(p.124)と詠んで、戦乱に地獄絵を見た西行と、同じ世界が、1000年後の今も、ウクライナやガザにある。何ができるかと思っても、すべての国が日本のような憲法をつくることだと思っても、現実に対しては、悲しむことしかできない。
僧としての西行については、あまり触れていないが、高野山で真言宗なはずだが、西行の名前は浄土宗由来だといい、「仏教の真言宗を中心とした雑修といってよい」(p.161)という。また、神道に対する思いも強く、伊勢にしばらく住んだり、歌集を奉納したりしている。唐丹には、片岸に天照御祖神社があり、また小白浜には伊勢神楽が伝統芸能として伝わっている。この4月28日に6年ぶりに開催された、釜石さくら祭りは、せいぜい江戸時代の流れとはいえ、神社の存在が日頃の生活と距離があるときに、桜を介して、西行の思いに、あるいは、それは天皇への思いかもしれないが、少しだけ近づけた気にもなった。
生涯の絶唱と挙げているのが「風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思いかな」(p.172)である。思いは恋かもしれないし、社会への思いかもしれない。旅をして、富士山を見て、過去や未来を感じたりするのは、日本人特有といえるだろう。
さらに慈円との交流が紹介される。最晩年になっての詠み交わしで、慈円の西行を詠んだ歌は「ほのぼのと近江の湖を漕ぐ舟の 跡なきかたに行く心かな」(p.179)。慈円も、平安末期に、政治から少し離れた世界とはいえ、表舞台の大僧侶であるが、西行と心の通じるものはあったのだろう。昨年やはり、ここ唐丹で、愚管抄を読んだことを思い出す。
「願わくは花の下に春死なむ その如月の望月のころ」(p.181)は、「はじめに」でも紹介され、何度も現れる。「西行といえば桜」のもとになった歌である。仏教の無常観に通じるところがあったりもする。我が家にも染井吉野が、毎年見事な花を付ける。2011年3月の震災の少しあと、長男と二人で花見をした。病を得ており、来年は見られないかもという思いもあったが、その通りとなって、翌年の2月に旅立った。桜の花見を楽しみつつも、人を思う心と重なるのである。

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