「心理学が描くリスクの世界Advanced」を読む

 増田真也、広田すみれ、坂上貴之の編著である。昨年の3月22日に療養中の坂上氏が逝去されたことが、冒頭に記されている。氏とは、2009年ニュージーランドのカンタベリー大学滞在中に、ビールを飲みながら親しく実験心理学について話を聴いたことを思い出す。弟子筋にあたる広田すみれ氏より、10月に献本いただいた。3人で、築地で食事をしたこともある。追悼の気持ちで読ませてもらった。
 教科書として書かれた、やはり3人による共編著の「心理学が描くリスクの世界―行動的意思決定入門」の続編であり、以前読んでいたとはいえ、入門の内容はほとんど頭から消えており、なかなか読みづらかった。この領域の論文の紹介になっているという印象でもあり、また、その引用、参照論文の数も海外文献が過半を占めて1000編を超えている。学生にとっては、かっこうの参考図書と言えるだろう。リスク評価に興味あるとは言え、工学の人間にとっては、面白そうなところをメモしておくことくらいが関の山である。
 心理が生理とつながっていることは想像に難くないが、瞳孔径の変化は不確実性、サプライズ、予測誤差の指標とされる(p.88)というのは、面白い。ステロイドホルモンのテストステロンやコルチゾールがリスク選好や回避の傾向に有意な差をもたらす(p.96-102)となると、工学的な意思決定の議論を設計に用いることを研究テーマとしていた者にとっては、なにやら恐ろしい気もするのである。
 シグナリングも特殊な用語だ。情報を持つ側が持たない側に、自分しか知りえない情報を伝達することとされる。(p.117)どうやって相手を信頼するかという問題にからむ。日本は、アメリカの市場経済をお手本にしているようなところがあるが、個人レベルでの一般的信頼という判断においては、社会環境としての違いがかなり大きいように思う。既存建築の市場形成されない状況に、このあたりのことが関係しているのかもしれない。
 心理学における「行動経済学」が解説されている。リスクにかかわる意思決定ということになると、当然かかわってくるところである。行動経済学と実験経済学の間の論争が心理学者と経済学者の論争という見方に対して、心理学の中で認知系と行動系の議論とも重なると指摘されたりしている。(p.134)
 感染症のリスクを避ける行動システムとして「行動免疫系」という言葉が用いられる。病気になることを防ぐ生理的な体内システムとしての免疫系ということである(p.150)が、過度な対応は心理的作用に他ならない。こうなってくると、心理は般若心経の世界のようでもある。
 化粧が心理的効果として精神的健康度に影響するというのも、確かにわかる気がするし、さらに進めると、行動健康経済学(p.158)という分野になっていく。物質嗜好や行動嗜好、飲酒、肥満、ギャンブル、買い物など、市場形成における心理学の効用は、一方で意思決定行動とのかかわりを学として扱えているようである。
 不確実状況における意思決定(p.208)は、本来の建物の目標耐震安全性においては、基本的な行為であるはずが、わが国では、法律を遵守するという形で思考停止、心理学の介入余地もないという状態にある。遺伝子や文化を論ずることも意味があるかもしれないが、心理学の幅の広さにおののいてしまう。
 心理学の中でも本書は応用部門であるとされてはいるものの、実用化ということとは切り離して研究は実施されている。ただ、それも、工学における応用部門となるとすぐに実用化につながるわけで、学問の性質の違いが現れているのかもしれない。もっとも、現実社会は、工学的に地震により建物が壊れたことが説明できても、建設時点で、どのような建物を建てるかとの判断にあっては、工学的合理性だけから決まるわけでも、経済学的合理性だけから決まるわけでも無いので、心理学的影響がどの程度であるかは、興味深いところである。そのあたりを定量化して一体的に論ずるには、本書はあくまで課題の存在の紹介と捉えるべきで、すぐにヒントを得るというようなものではない。ただ、人がリスク(耐震危険度)をどのように意識した上で行動(建築)するのかということを考えると、心理学の要素は随所にあり、社会制度としてどうあるべきかということに対しては、配慮すべき知見である。

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