「いま社会は建築に何を期待しているのか」(細田雅春著)読後メモ

2021年1月から2023年11月までの細田氏の建築にかかわる思いをまとめたものである。コロナウィルス感染、ロシアのウクライナ侵攻、そして何よりも大きな気候変動問題が思考の根幹にある。グローバル資本主義の市場経済の行き過ぎの認識も、そしてDXとAIの時代をどう受け入れるかも深くかかわっている。
問題の所在の多くは共有できるが、どうしたらよいかを読み取ろうとすると、見えてくることと、気になるところが混在するようにも感じられた。最新の論考から時間を遡るように並べられているのだが、時間とともに思考が展開したというように読むものではないというねらいなのだろうか。
「都市は経済的利益のための存在ではない」(p.50)ということは、逆に建築が経済的利益のために使われていることへの問題提起であり、倫理を説くだけで解決できない市場経済の歪みは、行政が歪みを是正する役割をもつとの指摘もある。建築基準法が建築の権利を私有財産権として保証しているところを、基本から見直すことが求められているというべきではなかろうか。「格差の是正」という言葉が何度も登場するが、都市や建築には公共的な役割があるとは、建築が私有財産というよりは社会財産であるということである。
「地球環境の破壊が進む中、・・・経済的合理性の追求や効率一辺倒の世界から離れて考えることで、精神的豊かさを求める機運が高まり始めた」(p.105)と言うが、現実はとてもそのようになりえていないと思う。「快適で便利な生活を続ければ、エネルギーは浪費される一方だろう。そうした放蕩的な生活を見直すことが、現代文明を再考する」(p.146)という分析とのずれを感じる。
「生態的環境の維持が重要」(p.194)は、これからの建築のあらゆる状況において、我々が実践しなければいけない行き方である。「都市や建築の半分を自然に返すことではないだろうか」(p.197)は、全くその通りであり、長年、建築設計を引っ張って来た立場での発言として、極めて歓迎したい。そうなると、一つひとつの建築に対して、市民の声が反映されなくてはならないし、行政はそのためのお手伝いの役割をもつという形に、建築制度を考え直すことが求められるのではないか。
「限りない欲望が監視を強化、問われる人間のエゴと知性」(p.236)は、ロシアのウクライナ侵攻にも関わるテーマであり、また、逆に、それが建築に現れるという建築家としての警告と理解した。
「脱炭素に違和感」(p.240)は同感である。植物のCO2吸収を上回る形で、人工的にCO2を排出することが問題なのであって、炭素を除くわけではない。標語として政策に反映するということがあるとしても、言葉は、もっと民主的に作られなくてはいけない。ゼロ・カーボンなども、無くすというよりは、循環を表現した方がしっくりする。
「日本では、次々とビルが新築されるのに対し、ドイツではその多くが再生建築だ」(p.290)は、ドイツの政策としての社会のあり方。建築基準法は、新築しやすいための政策としての法律として、1950年から1970年くらいまでは、十分に機能したと言えるが、土地があるからと言って、カネの力だけで簡単に壊したり、新築したりしない社会こそが、もとめられている。そのためには、自治体がそのような行政を実施することである。そのために建築家は、単に設計業務を請け負うという形だけでなく、自治体に協力すべきである。そこまでの発信であると解したい。まさに、建築の理念と建築主の責務を謳う法律が求められていると考えるが、いかがであろうか。「人工化への邁進のツケ」(p.302)をなんとかするためにも「現代の都市を少しでも地球環境に調和させる手段を考えることが、いまできる建築界の最大の課題であろう。」(p.303)ということだ。
解決の糸口に「エシカルな社会の確立」(p.331)を提起されているが、それは、利潤資本主義、市場経済に「倫理」を唱えることが無理だと言っていたはずなのにと思えてならない。言葉だけで実践が伴わないというになるのではなかろうか。また、コロナ感染の真っただ中だったとはいえ、「24時間都市の再起動をいち早く期待したい」(p.341)とあるが、利便性追求、経済合理性、効率一辺倒を批判的に言っていたことと矛盾するように読めてしまう。その意味では、「エシカル」という言葉より、クリスティアン・フェルバーの「公共善エコノミー」が、利潤資本主義、過度な市場経済でない、新しいあり方としてしっくりくる。ドイツ、オーストリアを始め実際に経済を回す仕組みとして機能し始めており、日本でもこれから動き出すことが期待される。
素晴らしい建築の紹介もあったが、細田氏の設計者としてかかわった建築が、問題提起に対してどのような答えになっているかを、語ってもらうと建築家への投げかけにもなるだろうにと思った。DXやAIが、そんなに簡単に社会を変えることになるとは思われないし、国同士の戦争が簡単になくならないことへの思いも語られるが、では何をすればよいかはわからない。建築に関しては、当然ながら建築主こそが、建築に何を期待するのかが先だから、建築家よりは、建築主へのメッセージとして読むべきなのかもしれない。本の表題が、「社会が何を期待しているのか」であることからすると、個々の建築における設計意図というよりは、建築主群としての社会が、建築に「かくあるべし」ということを論考したものだとして、実に示唆に富むと読ませてもらった。効率的な建築のための法律でなく、ちゃんとした建築を作らせるための法律が必要だ。
 

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