思ってたより、ちゃんとダメだった
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僕がここ二年でできるようになったことと言えば、「どんな時でもひたすら冷静でいるスキル」と「必要なこと以外、考えなくするスキル」だ。
そして、それを実現するために、ひたすら反復行動をするという「習慣化するスキル」だ。
四月になった。
僕は正直に言うと、この四月まで生きている自信がなかった。
約半年前、七月ぐらい。
俺はアウレリウスが言うように「人生とは即ち主観である」ことや、エピクテトスが言うように「我々の力の及ばないことには注力すべきじゃない」ということを、忠実に守っていた。
とにかく、俺は『きっと、まだまともにやれるはずさ』と思いながら、今でもそうだけれど、人が持つ、ほんの最小限の認知的な自由を保持しつづけていた。
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どうやら、僕は僕が思っているより、ちゃんとダメらしい。
それが最近よく分かった。
それはある種の進歩である。
数直線で考えてみれば、いつもー100であることが、当たり前になっていると、ー100とー50の差というのはあまり感じられない。
だけれども、その50の差が、不思議なことに、ー50と0の差であると、よくわかるらしい。
つまり、人の身体の感覚というのは、ある種の閾値があって、そこを超えるか超えていないかで、随分と違うらしいということだ。
僕はひたすら、ー100から0に戻すためには、どうすればいいかを考えていた。
そして、最近、「ああ、やっと0に近くなったなあ」と感じていたんだ。
ところが、何気ないことで、身体がー50になることがあるらしい。
僕は一体、何を失ったのか。いや、決して何も失ってはいないだろう。
つまり、その状態は、半年前からすれば、当たり前のことだった。
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フランクルの『夜と霧』という本の中で、こんな一節があった気がする。
自由な引用をするが、ある人は「今度のクリスマスには解放されているはずだ」と、信じる。しかし、クリスマスが訪れても、解放の兆しはない。そういう人から、どんどんとドアが開いていった。
僕にとっては、4月というのは一種のわかりやすいクリスマスだった。
つまり、それは「4月になったら」なんてものに、何の根拠がないことがわかっているということだ。
だから、僕は根拠のない期限の四月が来て、それはそれである程度の進歩はあるものの、自分自身がちゃんとダメなんだ、ということを感じている。
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その困難な要素は、自分をよく見ていると、複合的であると把握している。
成育歴、特性、身体疲労、トラウマ。
つまり、自分自身の困難な要素に、シワをつけることができるようになったからこそ、よりどうしようもないことが分かってきた。
そこもある程度、進歩の故であって、困難な要素を見つめることすらできない状態から、見つめることができるようになったからこそわかること、という差がある。
何にせよ、そういう要素があることは重々と承知しつつも、原因らしきものに名前を付けたところで、大して意味もないことも承知している。
また、自分自身に、一つの物語というか、単一的な説明で語ろうとすることも、何の意味もない。
複雑そうなものを、複雑そうなままにしておいて、放置も解決も急がず、ただ、わからないものをわからないままにしておくんだ。
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「人は無意味な苦しみに耐えられない」みたいなことをニーチェが『道徳の系譜』あたりで言っていたか。
でも、苦しみが、本来悪いものだと知っているのに、それには価値がある、みたいなロジックを使って、苦しみが善いものだ、としようすると、ルサンチマンだよね、みたいなことを言っていたんだけっか。
では、苦しみに対して、どのような態度を取るのか。
その一つのテクニックが、過去などのコントロールができないものには運命論的な考えを受け入れつつ、(ストア的な文脈の)意志などの自分がコントロールできることを保持することだ。
つまり、運命論と自由意志を両立させるということになる。
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二ーバーの祈りをよく思い出す。
ああ、ストア派と筋トレに巡り合えて、本当によかった。
今日は腕と肩のトレーニングをしよう。
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