思ってたより、ちゃんとダメだった

二九 想像力を抹殺せよ。人形のようにあやつられるな。時を現在にかぎれ。君、または他人に起ってくる事柄を認識せよ。君の眼前にあるものを原因と素材に区別し分析せよ。最期の時を考えよ。人が過ちを犯したら、その過ちは、これを犯した人のもとに留めておくがよい。

マルクス・アウレリウス『自省録』七巻二九 神谷美恵子訳



僕がここ二年でできるようになったことと言えば、「どんな時でもひたすら冷静でいるスキル」と「必要なこと以外、考えなくするスキル」だ。
そして、それを実現するために、ひたすら反復行動をするという「習慣化するスキル」だ。

四月になった。
僕は正直に言うと、この四月まで生きている自信がなかった。
約半年前、七月ぐらい。

俺はアウレリウスが言うように「人生とは即ち主観である」ことや、エピクテトスが言うように「我々の力の及ばないことには注力すべきじゃない」ということを、忠実に守っていた。
とにかく、俺は『きっと、まだまともにやれるはずさ』と思いながら、今でもそうだけれど、人が持つ、ほんの最小限の認知的な自由を保持しつづけていた。

どうやら、僕は僕が思っているより、ちゃんとダメらしい。
それが最近よく分かった。

それはある種の進歩である。
数直線で考えてみれば、いつもー100であることが、当たり前になっていると、ー100とー50の差というのはあまり感じられない。

だけれども、その50の差が、不思議なことに、ー50と0の差であると、よくわかるらしい。
つまり、人の身体の感覚というのは、ある種の閾値があって、そこを超えるか超えていないかで、随分と違うらしいということだ。

僕はひたすら、ー100から0に戻すためには、どうすればいいかを考えていた。
そして、最近、「ああ、やっと0に近くなったなあ」と感じていたんだ。

ところが、何気ないことで、身体がー50になることがあるらしい。
僕は一体、何を失ったのか。いや、決して何も失ってはいないだろう。

つまり、その状態は、半年前からすれば、当たり前のことだった。

フランクルの『夜と霧』という本の中で、こんな一節があった気がする。

自由な引用をするが、ある人は「今度のクリスマスには解放されているはずだ」と、信じる。しかし、クリスマスが訪れても、解放の兆しはない。そういう人から、どんどんとドアが開いていった。

僕にとっては、4月というのは一種のわかりやすいクリスマスだった。
つまり、それは「4月になったら」なんてものに、何の根拠がないことがわかっているということだ。

だから、僕は根拠のない期限の四月が来て、それはそれである程度の進歩はあるものの、自分自身がちゃんとダメなんだ、ということを感じている。

その困難な要素は、自分をよく見ていると、複合的であると把握している。
成育歴、特性、身体疲労、トラウマ。

つまり、自分自身の困難な要素に、シワをつけることができるようになったからこそ、よりどうしようもないことが分かってきた。

そこもある程度、進歩の故であって、困難な要素を見つめることすらできない状態から、見つめることができるようになったからこそわかること、という差がある。

何にせよ、そういう要素があることは重々と承知しつつも、原因らしきものに名前を付けたところで、大して意味もないことも承知している。
また、自分自身に、一つの物語というか、単一的な説明で語ろうとすることも、何の意味もない。

複雑そうなものを、複雑そうなままにしておいて、放置も解決も急がず、ただ、わからないものをわからないままにしておくんだ。

「人は無意味な苦しみに耐えられない」みたいなことをニーチェが『道徳の系譜』あたりで言っていたか。
でも、苦しみが、本来悪いものだと知っているのに、それには価値がある、みたいなロジックを使って、苦しみが善いものだ、としようすると、ルサンチマンだよね、みたいなことを言っていたんだけっか。

七 すべてつぎのようなことを君に強いるものは、自分に有利なものとしてこれを大切にしてはならない。たとえば信をうらぎること、自己の節操を放棄すること、他人を憎むこと、疑うこと、呪うこと、偽善者になること、壁やカーテンを必要とするものを欲すること等。なぜならば自分自身の理性と、ダイモーンと、その徳に帰依することとを何よりもまず選びとった者は、悲劇のまねごとをせず、泣き声を出さず、荒野をも群衆をも必要としないであろう。なかんずく彼は何ものをも追いもせず避けもせずに生きるであろう。自分の魂が肉体に包まれている期間が長かろうが短かろうと、彼は少しもかまわない、なぜならば、もう今すぐにも去って行かなくてはならないとしても、慎みと秩序をもっておこないうるほかのことの場合と同じように、いさぎよく去って行くことであろう。一生を通じて彼の唯一の念願は、自分の思いがいかなる場合にも理性的な、市民的な存在としてふさわしくないことのないように、というこの一事なのである。

マルクス・アウレリウス『自省録』三巻七 神谷美恵子訳

一六 (略)さてもしすべて他のことは以上のものに共通だとすると、善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれうものをことごとく愛し歓迎することである。また自分の胸の中に座を占めているダイモーンをけがしたり、多くの想念でこれを混乱させたりせずに、これを清澄にたもち、秩序正しく神に従い、一言たりとも真理にもとることを口にせず、正義に反する行動を取らぬことである。そして自分が誠実に、謙虚に、善意をもって生活しているのをたとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。その目的に向かって純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせずに自ら自己の運命に適合して歩んで行かなくてはならないのである。

マルクス・アウレリウス『自省録』三巻一六 神谷美恵子訳

では、苦しみに対して、どのような態度を取るのか。

その一つのテクニックが、過去などのコントロールができないものには運命論的な考えを受け入れつつ、(ストア的な文脈の)意志などの自分がコントロールできることを保持することだ。
つまり、運命論と自由意志を両立させるということになる。

二ーバーの祈りをよく思い出す。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ああ、ストア派と筋トレに巡り合えて、本当によかった。
今日は腕と肩のトレーニングをしよう。


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