フラッシュバッカー(あとがき)
あとがきです。
この話は「ハヤテ君が昔のことを不意に回想しつつも、今ある日常を愛していく」ということを書きたかったです。
前回の「ハヤテのごとくへ向けて」では、それぞれのキャラクターの一瞬を並列して並べたので、今回は一人のキャラクターに焦点を当てて横列(並列)ではなく、縦列(過去から現在)という時間軸を書きたかった。
基本的に僕が今している綾崎ハヤテという人間観察は、「ハヤテのごとくに向けて」の後書きに書いた通りです。
親に売られた、温かい家庭を知らない、いわゆる普通の高校生を送れなかった。
ナギと出会う前までは、ひたすら生きるために稼ぐしかないという、過酷な人生だったのではないでしょうか。
こういう生育歴がいわゆるアイデンティティ、人格に影響を及ぼさないとは考えにくい。
僕は認知行動療法の一分野である「スキーマ療法」というのが好みで、よく自分や他人をその物差しで観察します。
僕は医者でないから、診断名も出せないし、公式の場でカウンセリングもできないし、薬も処方できません。
まあ、医者になりたいという気持ちは全くないので、それでいいのです。
話を戻すと、だから、もし綾崎ハヤテという人間が25歳を過ぎたあたりなら、こういうことを考えそうだと思いました。
もちろん、半分ぐらいは僕のいつもしている思考がベースになっているかもしれません。
過去を意識的に振り返ること。それが苦しいことであると尚更苦しい。人は無意識にそういう記憶を抑圧しています。
だけど、ふとしたときにフラッシュバックする。
これが診断名がついてしまうレベルになると、自分だけにはどうしようもできないですが、ある程度の範疇においてこういうことは誰にでもあるんじゃないかと思います。
「あの時やっちゃったな」という感覚、いわゆる後悔という観念はふとした時にまとわりついてきます。
その印象が強烈すぎると体にも大きな影響を及ぼしてくる。涙が出たり、体が固まったり、呼吸が浅くなる。
尾崎豊の「風の迷路」という曲があるのですが、こんな歌詞があります。
『永遠という名のもとに 忘れてしまいたいよ
こんな胸の痛みは 背負いきれるものでもない
光りが眩しすぎる 誰のせいでもないのさ
ふっと迷い込んだ 風の行方の迷路』
僕もふとした時にどうしようもない過去を思い出すと、こんな気分になります。
しかし、それでも僕は過去ではないというのも、ひとつの事実にような気がします。
これはストア哲学の影響が大きいですが「過去の自分とは、自分にコントロールができない」ものなのではないでしょうか。
だから、放っておく。許しておく。好きにさせておく。そんな自分とうまく付き合っていく。
そんなことをよく考えます。
こんなことを考えながら、わずかばかりの設定と人間観察を元にして書き始めていく。
そういうことを考えていると、ハヤテ君が思い出すのは、親とクリスマスのことなんじゃないのかと思い、クリスマスの日の話ということにした。
ハヤテのごとく1話にあることをベースに回想しながら、進めていく。(細かい設定は三千院家奥義によって消滅しました)
自分にとって不運だったこと(不幸だったこととは表現しないこの言葉が好きだ)を、ふとした時に、何か目に入ったものから連想してしまう。
そうなると知らないうちにそのことばかりを考えている。
ちなみの親のへの独白はZガンダムのカミーユビダンのセリフをパロディしている。
でも、思考というのは、コントロールした方がいい。
自分は今考えているのか、それとも考えさせられているのか。そういうことの分別を持った方がいい。
だから、これは僕の話なんだけれど、思考を強制的に中断させる方法をいくつも持っている。
その一つの表現が「今日はクリスマスだ」という、現在の義務に対して戻っていくことだ。
綾崎ハヤテという人間がするのは、今日の、この今のクリスマスをどう過ごすために工夫するかだ。
だから、過去のことなんか考えている場合じゃないし、自分と戦っている場合じゃない。
そういう倫理観を持って、思考をあるべきところに戻していく。これは技術だ。
仏教を見れば、全てのものは移ろいていく。何事にも例外はない。
瞑想をして、呼吸と大地の感覚に。空の美しさと雲が流れる様をよく観察する。
今という瞬間に集中しようとすると、過去ではなく未来でもなく今を生きようとすると、こういういわゆるマインドフルネスに至る。
ふとした時に意識を自分ではなく、他人に向けてみる。
他人の中で生きていくわけではないんだけれど、こういう時間もまた幸せなのだと思う。
他人を恨んでいる、憎むことは他人の人生を生きている。
他人に感謝すること、他人を愛することは、自分の行為の中にある。
僕は愛するということは手心だと思う。
つまり、相手のためを思って、何かささやかな工夫をする。そして、与えていく。
この手心に、この私の創意工夫があると考えている。
そして、愛し合うっていうことは、キリスト的に言えば仕え合うことだし、与えていくことだ。
つまり、贈与。祝福というのが、この贈与のし合い、祝福のし合いというのが、愛することだと思う。
これは引用した「賢者の贈り物」を読んでいるとそう感じる。
僕は誰かのために料理を作る。だけど、それは他人に褒めて欲しいから、認めて欲しいからではない。
他人からの賞賛は、僕の人生ではない。なぜなら、他人からの評価は僕にはコントロールできないからだ。
だから、褒められること、悪口を言われること。その本質はどちらも同じだ。僕には関係のないことなんだ。
しかし、他人を受容する。寛容であること。これはこの僕の人生で、行為で、僕にコンロールができることだ。
祝福された、あのコート、あのマフラー。
そういうことひとつひとつが本当に些細なんだけれど、僕が一人で生きていないってことの証左なんだ。
だけど、そういうことってつい忘れてしまうんですよね…。
プルーストの「失われた時を求めて」にもあるそうなんだけど(引用部分しか知らないため)、匂いから記憶がフラッシュバックすることがあるそうだ。
脳科学を考えても、匂いというのは扁桃体にダイレクトに届く直感的な感覚だ。
クレヨンしんちゃんのオトナ帝国という映画の中でも、父親のひろしが自分の靴の匂いを嗅いで、自分の家庭を思い出すシーンがある。
匂いというのは、言語化できない、何かを引き出してくれるようだ。
そうして、仕事に、日常に、いつもの繰り返しに戻っていく。
繰り返す仕事っていうのは、たまに嫌になるんだけど、この繰り返していることが僕の人生の全てなんじゃないのかって思う。
つまり、表現を整えると、ルーティンとか習慣って言葉になるんだけど。
毎日優しく人に接している人、毎日慌ただしく生きている人、毎日何かに怒っている人、毎日自分と戦っている人。
仕方ないと呟いて、そんなことを繰り返している。
でも、しょうがなく、その繰り返しが、その人の人生なんだなって思う。
もし、反論したいんだったら、常に自分に問いかけて見ればいい。
「自分はこの思考を行動を10年後も続けていたいのかと。今日という日は、本当にあなたの人生だったのか」と。
NOという気がするなら、何かを変えてみるんだ。
人生を繰り返すというのは勇気だ。ニーチェが永劫回帰という表現でそれを示している。
そうして、いつものに戻っていく。
たわいのない会話をする。仕方ないやつだなと思いつつ、それを愛していく。
他人から見れば、何の変哲もない日常。だけれども、その日常は他の人では代替がきかないんだ。
仕事のポジションは誰がやってもなんとかなる。恋人だって、友達だって、去ってしまえば寂しいけれどなんとかなる。
それでも、この私が生きているということは否定できないんじゃないのか。
私は役割なのか、関係性なのか。きっとそうではないだろう。
デカルトは「我思う」とコギト論を展開した。
そういう、自己の存在というものは、こういう過去から未来へと至る、現在の連続性にあるような気がする。
ハイデガーが「死に至る存在」と名づけることで、人間の存在を語った。
サルトルが「嘔吐」という作品で記述したように、過去とはいったい何なのか。
それは僕にはよくわからない。でも、フラッシュバックしている。性懲りも無く。
だからこそ、今を丁寧に愛そうと生きていく。
確かなものなど何もないし、たどり着く場所なんてどこにもないんだけど、ただ生きていく。
これで十分なんじゃないかと心から思う。
ささやかな日々に祝福を与える。感謝を与える。祈りを続ける。
だから、ハッピーバースデイなんだ。これを誰に向けているのかは、僕はよくわからない。
ちなみに「フラッシュバッカー」というタイトルは、「ぼっち・ざ・ろっく!」の楽曲名から引用した。
なので、実質ぼざろの二次創作なのかもしれない(過言)。
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