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愛すべき些細な日常に向けて(ミニコラム)

今、私は文章を書きたいという欲求を体の内に覚えている。
自分を満足させ幸せにさせるコツは、自分の内面とその変化をよく観察して、必要な時に必要なものを与えてあげることだ。
文章を書く欲求というのは、おなかが減ったら食欲がわき、体が疲れたら睡眠を欲するかのように、何かの欠乏から生じているのだろうか。
しかし、欲求の原因を深掘りするのは、どんな時でも得策とは言えない。
大切なのは、目的を満たしてあげることだ。

今日は朝の通勤と暮れの通勤で、知り合いに会った。
朝は大学の友人だ。僕の家の近所に引っ越してくれた、大学時代を共にした友人だ。
友人は散髪をして、ワクチンの接種をする予定らしい。
僕は道を歩いている友人を見かけると、ひょうきんな顔をして近づいて、存在をアピールした。

暮れはいつもお世話になっている散髪屋の店主だ。
店主は40代後半ぐらいの年齢なのだと思うが、とにかく飄々として軽くて自由な人だ。とても好みだ。
ふと、近場のスーパーにいると、普段は見かけない私服姿で出会った。
少し疲れた顔押していたが、私が会釈をすると話しかけてくれた。
そのいつもの明るさの裏には、彼の日常を感じさせた。

僕たちは誰かと出会うとき、それが一二か月に一度ぐらいだと、日常の点を擦り合わせるに過ぎない。
そんな貴重な点の合致に、僕たちは誠意や親しみを持って、よい時間にし合おうと接し合う。
しかし、日常というのは、毎日の点を積み重ねるものだ。
意欲に溢れる日もあれば、けだるさを覚える日もある。
僕たちは他人に色々な顔をしながら接するが、人の深みを感じるとは普段とは違う顔を見るときなのだろうか。

今日出会った二人は僕が精神を壊して、茫然としたときにも変わらず接してくれた人だ。
友人と出会えば、たわいのない話をしたし、髪を切りに行けば、飄々と会話を振ってくれた。
しかし、彼らにもまた日常があり、その裏には表には出せないものもきっとある。
つまり、彼らは僕に最大限の配慮をしてくれたのである。
その配慮は与えるものであり、受け取るものである。それは贈与であり、恵みである。

昼頃には、大学の恩師からメールの返信が届いた。
こんな平日の大学の業務もあるというのに、返信を送ってくれるその気遣いに、畏敬と感謝を覚えた。
しかも、その内容が取り急ぎ送りますね、本題はあとでしっかり書いて返信しますよ、と、
唐突に送られてきたメールの内容に、誠意をもって対応していただけるようだ、恐れ多い。
こんな若造の戯れた、教育論に付き合ってくれるのだから、とてもありがたいとしかいいようがない。

私が文章を残すということは、自分の思考を後に残したいという思惑がある。
以前まではそれをツイッターでしていたのだが、僕の文章量では140文字はあまりに少なすぎる。
かといって、NOTEにするのも僕としては違うし、日記帳やワードに残すのも何かが違う。
私ごとな出来事を、SNS上に書くとは、どんな意味があるのか。
僕が一番しっくりくるのは、「僕はこんな人間ですよ」という周囲への告白だという感覚だ。
僕たちは誰もいない虚空に叫んでも空しいが、たとえ叫びが伝わろうとも伝わらなくても、相手がいるというだけで叫びの意味を大きく変えることができる。

僕はふとしたときに尾崎豊の楽曲が頭の中に流れてしまうほど、尾崎豊ジャンキーなのだが、
今日はこんな歌詞を思い出した。
『何も悲しまないと 暮らしを彩れば きっと答えは 育むものだと気付く』
これは尾崎豊の『優しい陽射し』という歌詞の一節だ。
生きていると、生きている意味や、何かを手に入れなくてはいけない焦りと義務感、そんなものをすぐに手に入れたくなって、近道をしてしまいたくなる。
『意味のないものばかり集め積み重ねて』しまうと、本当に大切にしたかったものを見失ってしまうのかもしれない。

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