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いつもの電車に疑問が湧いたら、それは、「駆け出し下車」の合図なのかもしれない

「ドアが閉まりまーす。ご注意ください」
このドアは、いったい何回閉まったんだろう。6時45分の総武線。同じ駅から、同じ電車に乗って、また同じ駅で降りる。服は4日間のローテーション。向かうのは同じビル。フロアは時々移動するけど、でも、私がやっていることは、毎日会社に行くということだ。
5時30分に目覚ましが鳴る。同じメーカーのコーヒーといつものパン屋さんの食パンの朝食。ランチはいつも、3つ隣のお弁当屋さん。金曜日は、一人で、自宅の一個前の駅のバーに寄って帰る。
とても、居心地がいい。

この生活ができるまでに、随分時間がかかった気がする。社会人になったばかり。毎日くたくたで、慣れないことばかりで、余計な時間がたくさんあった。ご飯を買うだけで無駄足をして、着て行く服に迷って、朝の勉強の時間を逃してしまう。
会社後の自分の時間を楽しもうと思うのに、お店に迷って、結局コンビニでビールを買って、だらだらとバラエティを見る日もあった。

私が社会人になってしたかった生活は、こんなんだっけ。

運のいいことに、私は第一志望の会社に入ることができた。洋書や海外雑貨の輸入会社だ。文学で英文学を専攻して、この会社に入れたことは、自分の実力とかじゃない。運がよかったんだ。そう思う。だから、頑張りたいと思った。もっと、頑張りたいと、思った。

この気持ちを忘れてしまわないように、引っ越してきた日。エントリーシートの志望動機を部屋に貼った。毎日海外のニュースをチェックして、雑誌を購読して、海外新聞に”書籍”を確認していた。古き良きものも、古いものを蘇らせた改訂版も、そして、現在進行形で生まれている、いつかの古典、になる作品。一つでも多く、日本にいる人たちに届けたかった。

届けたいと思っていた。

なのに、始まった社会人生活は、私の”頑張りたい”とは、程遠いものだった。

仕事のことや自分のことに時間を使いたいのに、余計なことばかりに使ってしまう。
頑張ったわけではなく、ただ慣れない、というそれだけのことに、疲れて、部屋に帰れば眠ってしまう。
それに、さらにそんな自分が、自分を疲れさせていた。

早く、リズムをつくりたかった。
早く、一番自分にとって居心地のいい、時間の流れ、をつくりたかった。

決まった時間に起きて、決まった時間に、決まったことをする。私が落ち着くものを、落ち着く順序で取揃える。オーダーメイド時間だ。
そして、第一志望の、入りたかった会社へ向かう。そこで、思いっきりしたい仕事をするんだ。

そう思うようになっていた。

研修をしながら半年、私はそんなふうにもがく日々を送っていた。もがく、というより、そうならざるを得なかったと言ってもいい。とにかく、何をしているかわからないほど、自分の意思で時間の流れをつくれていなかった。

半年後、配属が決った。経理部への配属だった。
入社した時の私なら絶対落ち込むはずだった。私のしたい仕事は、そうじゃない。認めてもらえなかったんだ。努力が、足りなかったんだ。そう思うはずだ。
でも、不思議なことに、上司の言葉が、ストン、と私の中に落ちていた。
私は、「やりたい」という範囲じゃないところにも、挑戦できるんだ。
どんな仕事も必要で、経理の方面から、輸入を支えられる。そう受け入れられるほど大人になれていたんだと、内心、ほっとしていた。

「ちょうどいい機会じゃん。カオリが悩んでたこと、変えてみたらいいじゃん」
大学時だから付き合っている彼が、そう言った。思い通りに頑張れないことを、いつもぐだぐだと嘆いていたのを、知っていた。
「入りたかった部署と違っちゃうんだろうけど、時間のリズムを整えて頑張るには、一番鍛えられる部署なんじゃない?」
確かにそうだ。どの仕事もきちんとしてなきゃできないけれど、やりたかったバイヤーや広報、書店向けの売り場担当は、どうしても勤務時間が不規則になる。今の自分には無理なことがバレバレだったのかもしれないけれど、そのための勉強はこれからも続けていけばいい。決まった時間に出勤して、“堅い”業務をきちんとできるようになりたい。もしかしたら、工夫次第で、一冊でも多く、書店へ並べられるかもしれない。

これからの日々へ、期待が膨らむ。

案の定、仕事はとても大変で、正確に早くこなしながらも、自分の工夫を頭の隅に思い浮かべておく。なかなか身につけるには、時間がかかりそうだった。
でも、思いの外楽しく、選べなかった方を悔やむこともなく、まずはここで頑張りたいという気持ちになれていた。

この時から私は、少しずつ、いろいろなことを決めていくことにした。

一番頭のスッキリしている時間に、勉強をあてるようにした。当たり前のことだけど、疲れてても、寝るのを延ばさないようにしてみた。
一番ほっとして、午後頑張れるお昼ご飯も決めた。お昼の時間を短くしない距離にあって、美味しくて、お店のおばさんが可愛らしいお店のお弁当。種類も多いから、固定しても問題なし。服はお気に入りのスーツに、4着のブラウスをローテーション。一日は、好きな服を着ようと決めた。面倒臭い日は、ブラウスのローテション一日目に変えてもよし。
金曜日の夜、一人でほっとしたいときは、この前大学時代の先輩が連れて行ってくれたバーに寄ることにした。家に帰れば、23時にラベンダーのアロマ。オレンジの小さい電気で、また5時半まで、おやすみなさい。

そんな日々を作り上げていった。
配属が決まってから、1年も経ってしまったけれど、
そんな日々を、手に入れた。
余計なものを取り除いて、大切なことに時間を使う。そんな日々が出来上がった。

「カオリ、真面目だねえ」
そういうの、好き。友達はなんの嫌味もなく、純粋に言ってくれた。
「だって、私、無駄な動き多すぎて、やんなっちゃうもん。仕事にも、普段の癖って、出ちゃうからねえ」
私ができているかといえば、そんなこともないのだが、確かに、生活のリズムが決まってきてから、時間の流れの組み方がうまくなったような気がする。無駄な動きはしない。無駄に中断しない。無駄にページを変えない。無駄にメールを開かない。
特に、今まで余計だと思っていた事務作業がミスなく早く、捗るようになって、なんだかお得な気持ちになっていたところだった。

「最近、仕事、そつなくこなせるようになったねえ」
上司からも、言ってもらえた。

私は、ちょっとは、あのとき決めた自分に近づけているかもしれない。
そして、今日も同じ電車に乗って、会社に行く。同じ仕事をそつなくこなして、同じ電車で帰ろうとする。

そう思っていたときだった。
彼が、会おう、とメッセージが来ていた。
いつも、特に社会人になってからは、必ず前の日には約束の連絡を入れてくれていた。
当日、会いたい、なんて。
嬉しい。

勝手に解釈をして、彼の指定したカフェへ行く。
彼が場所を一人で決めるのも、初めてだった。

「ねえ、カオリ」
飲み物を頼むか、彼の言葉が先か。そのくらいのタイミングで、話を始めた。
「カオリ、僕たち、別れた方がいいと思うんだ」
ぼそぼそと話し始めた彼が、顔を上げて、私を見る。
「ううん、ごめん、言い直す。今のカオリといても、楽しくないんだよね。頑張ってると思うよ。頑張っていると思うけど、僕の好きだったカオリは、もっと不器用なんだけど、生き生きしてて、いつ会っても、いいなって、会うたびに好きになってた。でも……」
もう、そのあとの言葉は聞こえなかった。いや、聞けなかったんだ。これ以上聞いたら、きっと私は、立ち直れない気がする。私は、頑張ってきた。頑張って、変わったんだ。そう思うのに、彼の言葉が、いつまでも耳の奥で、転がっている。
さようならをして、カフェを出る。「今までありがとう」その言葉だけで、あっけのない、さようなら。大事なものを失ったはずなのに、それ以上に、何かがつかえて、涙もうまく流れない。

でも、大丈夫。悲しいことがあったって、私には、いつもの暮らし、が、待っている。頑張って作り上げた、私の暮らし。

振られた日にも、23時はやってくる。ラベンダーのアロマを焚いて、明日の朝ごはんのパンを楽しみに、ベッドに入る。

決まって朝はやってきて、6時45分の電車に乗って、会社へ向かう。
いつものようにデスクについて、パソコンを立ち上げる。業務をそつなくこなして、「助かったよ」の声をもらい、いつもの電車に乗って帰る。

よかった。
いつもの生活があってよかった。

よかった。
1週間も、乗り切った。
いい方法を見つけてよかった。
このまま、きっと、頑張れる。

頑張れる、

はずだった。

はずだったのに。
私は今日も、何かに思いっきり笑うことも、泣くこともなく、新しい”美味しい”を見つけることもなく、素敵な場所に出会う感動もなく、今日も無意識に、いつもの場所に立っている。
いつもの駅の、いつもの電車、6時45分の出発の合図を聴きながら、ぼんやりとしている自分がいた。いつもより人が少なくて、いつもよりトランクを持った人が多い駅。

そうか、今日は、土曜日だった。

休みの日にまで、同じ電車を待っていた。
なんて、バカなんだろう。

「電車が入りまーす」
風が吹く。電車が一緒に、感情をホームに運んできたみたいに、私の目から、涙が流れる。泣いたのなんて、いつぶりだろう。

大切なものって、なんだったんだっけ。

風に吹かれて、我に返る。

いつからだろう。毎日にときめかなくなったのは。退屈に蓋をして、ごまかして過ごしていたのは、いつからだろう。仕事に行く、を、会社に行く、と言い始めたのは、いつからだっけ。

今の私は、居心地がいいという言葉にごまかされて、
余計を削ぐということが目的化して、
本当の意味で求めていたものを、見失っていた。

ううん、余計を削いでなんか、いなかった。余計なことを、していたんだ。
余計なことをして、可能性が見つかるはずの、無駄みたいなもがくことから逃げて、
私は、毎日の楽しさや、明日に進んで行くやりがいを、失っていたんだ。

本当は、悔しかった。希望配属が、叶わなかったこと。入社が決まった、引越しの日、部屋に貼った志望動機。私は、本を届けたかったんだ。もがく先に、もがかなくちゃ届かないものを見つけたかったんだ。上司に、そつなくこなすね、と言われたこと。面白い売り場を作りたかったら、そんな言葉、かけてもらってるようじゃ、ダメなんだ。
それに、私は、もらった仕事だって、ずっとゼロのラインでやり続けていた気がする。
入社したばかりのころ、うまく時間が使えないと思っていた時。あの時は、時間からはみ出して、私からもはみ出すくらい、できるようになりたいことが、多かったのだ。

「楽しくない」
彼の寂しそうな顔が、ふっと浮かぶ。その通りだ。だって、私は、前に進もうと、ちょっとでも何かを掴もうと、一生懸命な彼が好きだったんだから。
私から見ても、今の私は、楽しくない。

確かに、初めは本気だった。本当に、自分の時間をオーダーメイドにしたかった。整って、居心地が良くて、自分が一番大切なものを頑張れる時間に。

でも、いつのまにか、「居心地がいい」から、私と時間の馴れ合い、に変わっていた。

もう、あの日の志望動機は、外れていなくちゃいけなかった。新しい目標ができて、居心地も、時間の流れも、行きたい場所も、どんどん今の自分に合わせていかなくちゃ、本当は居心地が悪くなるはずなのだ。

なのに、私は、それに気がつくことができなかった。
ただ、時間が止まっていただけだ。

それなら、この土曜日を、思いっきり寝坊したり、トランクを持って旅行に行ったり、土曜日という日にぴったりの過ごし方をしている方が、ずっと素敵で、なりたい自分になるのなら、そういう時間の作り方をしていなくちゃいけなかったのだ。

それなのに私は、
休みの日にまで、同じ電車を待っている。
なんて、バカなんだろう。

6時45分の総武線。人に流されて、私はいつものように、電車のいつもの車両に立っている。ベルが、なる。これが、合図だ。今までを振り切って、顔を上げる。
「ドアが閉まりまーす。ご注意ください」
そうだ、この電車に乗っていいか、私たちは、注意しなくっちゃいけないんだ。
私には、いま、何が必要なのか。どこへ行ったらいいのか。
いつも、決めるのは、この今、ここに立っている自分でなくっちゃいけないんだ。
6時45分の1秒前。私はドアの外へ飛び出した。駆け出し下車だ。そうだ、私は、まだまだ駆け出しなんだ。
だから、もっと、迷っていい。もっと、もがいていい。いや、そうじゃなくっちゃ、いけないんだ。
もっと、もがこう。もっと、回り道をしよう。「決める」ところは、思いっきり冒険をするための、体力づくりのところで使おう。
いつもの駅。だけど、いつもと反対に進む足。反対側のホームに、反対方向の電車が着いた。楽しい気配の匂いがする。今日は、いつもと同じ電車には、乗らなくてもいい。いや、乗ったらいけない。スキップの足で、新しいドアに飛び込んでみる。
また新しい私が、今日も始まる。
そうだ、いつだって、私たちは、始められるんだ。

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