屍喰い蝶の島 三月二十二日⑤
夜須はどうしようもない恐怖と戦っているだけだ。先ほどまでの怯えが、自分のプライドと折衝する。首がないのなら、それは交野が片づけたのだ。しかし、それだと首を吊ったかも知れない交野を否定することになる。でも、もしもそれすら見せかけなら、交野はこの屋敷のどこか、もしくは島のどこかにいるだろう。大浦にいることも考えられる。しかし、それすらも憶測でしかない。
「あの……、大丈夫ですか」
ずっと黙っている夜須を心配して、バイトが声をかけた。
夜須はゆっくりと息をする。
「大丈夫だ。悪かった、驚いて取り乱しただけだよ」
ほっと息をつく声がした。夜須が暴れると思っていたようだが、さすがに夜須でも簡単に暴力は振るわない。
今から相当な勇気を出して、挑まねばならない。女子供のように怯えていられない。首がないのなら確認して、心の底から安心するしかない。超常現象を徹底的に否定できるのは今だけだろう。それにあのときは一人だった。バイトがいれば、あの変な声も聞こえないと思われた。
何度も深呼吸する。おかしいくらいに手が震える。大丈夫だ、今は一人じゃない。と、言い聞かせる。本音は走ってかんべに戻りたい。一人ならそうしただろう。明かりがなくても、倒れ込んでも、石段を駆け下りて、他の人間の気配のする場所に逃げ込みたい。
ふぅと息を吐いて、夜須はバイトに言った。
「俺も行くから二人で確認しよう」
最初からそうすればいいじゃないか、という目つきでバイトがチラリと夜須を見てきたが、今は我慢しておいた。
「じゃあ、行こうか」
入ろうとしても足が止まってしまう。ガクガクと膝が震えてきたが、ゴミを払うふりをして太腿を両手で強く叩いた。痛みで震えが鈍った隙に、夜須は門扉をくぐるのに成功した。
先行後行でも同じなので、バイトから懐中電灯を受け取り、先を進んだ。迷いなく井戸のある場所に向かう。
井戸は夜須が逃げた時のままの状態であった。竹の覆いが地面に無造作に落ちている。
締め殺しの木には何もぶら下がっていない。蝶の群れもいない。井戸はと言えば、バイトの言ったとおり何もなかった。井戸を覗くのは気が引けたが、思い切って小石を放り込むと、微かにカツンと言う軽い音がした。首どころか、水すら井戸には入っていなかった。
夜須はただ呆然として、これが現実だった、と受け入れた。最初から何も起こっていなかったのだ。もしくは、やはり交野は生きているのではないかという憶測が頭をよぎった。
あれは全て、きっと交野の渾身の演技だったのだ。そう思うことにした。
「ふふ」
夜須は自分がこれほどまでに交野に怯えてしまったことがおかしくて笑った。
「俺の勘違いだったみたいだな」
上手に引き下がっておかないと、自分がみっともない。しつこく自己主張しても仕方ない。夜須は、バイトを引き連れてかんべに戻った。
かんべに着いたのは二十時を過ぎた頃だった。あとは明日の朝一番の定期船に乗って帰るだけだ。結局、交野に振り回されてシジキチョウのことをよく調べることが出来なかった。
惣領屋敷でのことは、交野の自作自演だったのだという考えで落ち着いていた。生きていようが死んでいようが、もう二度と関わり合いたくないと思った。次回シジキチョウのために志々岐島を訪れても交野には知らせないつもりだ。
夕食を終え、寝支度を済ませた夜須は、布団の中でわだつ日記を開いた。クシャッとしわが寄った鍾乳洞の地図を手のひらで伸ばしながら傍らに置いて眺める。鍾乳洞の地図は海側の入り口までを書いた断面図だ。場所の特徴と名前が筆で書かれている。穴は徐々に低くなり、内部は狭まっていき、海側の入り口で突然広くなり天井が高くなる。これが碧の洞窟なのだろう。地図には推測通り、確かに碧の洞窟と書かれている。こうして見てみると、満潮の時、海抜の低い碧の洞窟と狭い部分は完全に水没してしまう。満潮時に潮流で死体が流されれば、自然と引き潮の時に碧の洞窟内に引き込まれてしまうだろう。だから、ひるこさんが碧の洞窟内に上がるのだ。
最初に祟り殺された惣領親子は、この仕組みを知っていて、女神——綿津見毘女命の祠をわざわざ碧の洞窟内に作ったのだろうか。
てふを殺したのと同じやり方で、洞窟内に贄を放置して、女神に捧げていたのではないか。しかし、てふを殺したあと、惣領親子は贄を差し出すのをやめたわけではなさそうだ。日記にはてふが死んだあと、不漁になったとある。それは偶然ではないはずだ。女神は惣領親子の欲望ではなく、てふの願いを選んだのかも知れない。てふ自身の何かが女神の目的にかなったのかも知れない。では女神とは何者なのだろう。分からないが、何らかの意思を持った存在なのかも知れない。
三月二十二日はてふが殺された日なのか。インターネットで検索すると、三月二十二日は源平合戦が決着した日に近い。偶然、てふはその日を『贄の日』に選んだ。
けれど、そうなるとひるこさんが上がったから豊漁だ、と喜んでいた漁師たちの言動はおかしい。ひるこさんが上がると豊漁になるというロジックは、実は消極的贄を指す言い方なのかも知れない。事故で亡くなった場合でも、女神は贄判定すると言うことだ。ただの水死体と贄の区別はどこで判断するのだ。もしかすると、その判別はシジキチョウが現れることに関係していると考えられないか。漁師たちの言葉はそこに起因すると思われた。
シジキチョウが現れなければただの水死体で、現れたら豊漁の徴なのだろう。だから、あのとき漁師たちはシジキチョウの話をし、その本当の意味を知られたくなくて夜須を追い払ったのだ。
なかなか眠たくならず、夜須はわだつ日記を手にしたまま寝返りを打った。枕元に置いた腕時計を見て、一時間二時間と無為に時間が過ぎていくのを確認してしまう。
それにしても、島民を祟る目的で海に牽いている御先様は、結局、この島に富を齎していることになる。皮肉なことだ、と夜須はせせら笑った。なぜなら、もはや和田津集落に住む人たちは自分たちが贄にならないために、策を講じているのだから。
わだつ日記ではそこまでは言及はしていない。おそらく海で死んだ交野家の先祖たちが連綿と語り継いできた話を書き記しただけなのだ。交野家は確実にてふの願い通り根絶やしにされた。いや、まだ交野がいるかもしれないから根絶やしにはなっていないか、と夜須は独りごちた。
ただし、揚羽がてふの化身ならば、一緒にいた交野の存在は酷くあやふやになる。考えないようにしていたが、夜須は惣領屋敷の荒れ具合を思い出してしまう。交野は一年前にいなくなったという島民の言葉を信じるならば、院をやめてすぐに姿を消したことになる。いったんは島に帰ってきてから、消えたのだ。それを積極的に探さない島民になんとなく悪意を感じた。自分たちだけ助かればいいという考え方だ。夜須は島民たちを醜い人間だと断じた。
眠くなってきて思考が散漫になり、まとまりがなくなってくる。
女神とシジキチョウは結局どこから来たのだろう。鯨と一緒にやってきたと言い伝えられている。空ろ舟に乗ってやってきたとガイドが言っていた。鯨が空ろ舟だったのだろうか。その腹の中に、得体の知れないものがシジキチョウと一緒にいた。それが海の女神——綿津見毘女命と呼ばれる存在として祀られた。
夜須はとりとめなく考えながら、次第に重たくなる瞼を閉じる。
人々の信心が必要な神なのか、それとも贄を見境なく求めてむさぼり食っているだけなのか……。
夜須も、誰にもその真意が分からない————。
「おーい」
遠い場所から夜須を呼ぶ声がする。鼻先で潮の香りがする。冷たい海風が夜須の体を撫で、吹き付けてくる。呼ぶ声はくぐもっていて、深い海の底から聞こえてくるようだ。
夜須は呼ばれている場所へ行かねばならないと思っている。
気付くと、大浦へ行く道に立っていた。酒に酔っているようなふわふわした心持ちだ。外灯もない道路だが、案外明るい。空にはこぼれ落ちてきそうな程の星々がぎらぎらと瞬いている。その光が地上を照らしている。
「おーい」
夜須はこれは明晰夢だ、と思う。道路や海沿いの風景、目前に見える、碧の洞窟の断崖が、昼間見たとおりにそこにある。
さっきまでわだつ日記を眺めながら、布団の中にいた。寝間着代わりに持って来たジャージを着ている。手にわだつ日記はなかった。足裏が冷たい。体感が自棄に生々しい。
けれど夢だと思うのは、自分を呼ぶ声がするからだ。とても遠いところから聞こえてくるのに、風や波の音にもかき消されないほど鮮明だ。
空を見上げながら歩く。北極星が真上にあった。空に針で穴を開けて見る、子供が作った簡易なプラネタリウムのようだ。星以外に灯火はなく、下弦の月はずいぶん低い位置にある。
暗闇に慣れた目に、黒くそびえる断崖の影が映る。白地の案内板が見える。足下は暗くておぼつかないが、階段があるのは分かる。手すりを握る手に、芯まで冷える感覚が伝わってくる。ステンレスの手すりの、つるつるとした感触も自棄にリアルだ。
「おーい」
夜須はゆっくりと階段を上っていく。階段を取り囲むように木が枝を伸ばしている。空の星を映す海が見え隠れする。ねっとりとした海がチラチラと光を弾かせて輝く。ゆらゆらと波に光が揺れている。
断崖に叩きつけられる波濤のさざめきが耳に聞こえてくる。五感を刺激する夢は初めてだった。
「おーい、夜須」
声はだんだんと近づいてきた。いや、夜須が声に呼び寄せられて近づいているからなのか。名前を呼ぶ声に聞き覚えがある。澄んだ心地いい声音。自分に向けられていた声だ。自分が退けた声だ。
「おーい、夜須」
その声は交野だった。
交野、なんだ、生きていたのか……、と夜須は思う。どっちにしろ明日帰る自分に、交野の生死は関係ない。
交野の声がくぐもって聞こえる。まるで、海底から呼んでいるようだ。どこか狭い場所に閉じ込められているようにも取れる。
相変わらず空には、ぎらぎらと輝きを増して地上を照らす星々が散りばめられている。辛うじて星の光が、夜須が上っている階段と手すりの上に降り注いでいる。
「おーい、夜須」
何度も呼ぶ声はまるで壊れたアナログレコードのようだ。記録された音声を何度も流しているように聞こえる。肉声を電子的に記録してブツブツと歯抜けのように情報を抜き取ったから、鮮明ではなく、鈍く籠もった音声になっているのだ、と夜須はぼんやりと考えた。
階段を上りきった場所に音声再生機があって、そこから交野の声が再生されているだけかも知れない。
交野はつまらない人生を送ったな、親に死なれて、自分は院にまで行ったのに中途退学し、故郷に帰ってきて行方不明になった。散々だ。自分なら、そんな人生を我慢したりしないのに、と夜須は思った。
手すり越しに海を眺める。夢の中だと、薄暗い夜の海が美しく見える。空の宝石を映す鏡のようだ。ゆらゆらと海面が揺れて、宝石の輝きもキラキラと眩しく感じる。
自分はどこを歩いているんだろう、とふと思う。白い案内板があったから、微かに遊歩道のことを覚えていたのだろう。碧の洞窟の断崖に登ったのは二十日のことだ。そのときは交野と一緒に登って、胴塚を見せられた。確か、導線の外には穴があいているから気をつけてと言われて、穴におまえ落ちてみたら、シジキチョウが出るんじゃないか、と交野に言ったことを思い出す。満足かと言われて冗談だと答えたが、面白そうだと思ったことを伝え損なった。シジキチョウのほうが大事だから、それで蝶が見られるなら試しに落ちてみてほしい。あとで助けるから。そんなふうに思いながら遊歩道を登っていった。
交野は何を思っただろうか。そんなことないさ、とでも言われたかったのか。夜須はそんな交野が哀れに思えてクスクスと笑った。
足を踏み出したら段差がなくて、かくっと膝が折れた。手すりを握っていなかったら転んでいたかも知れない。体勢を整えると、辺りを見渡した。いつのまにか断崖の頂上に立っていた。
胴塚のある場所に人影がある。
「おーい、夜須」
人影がそう呼ばわっている。相変わらず、壊れた拡声器のような割れてくぐもった声だ。まるで魚眼レンズを通した歪んだ視界の中、声は遠くから聞こえてくるのに人影は思った以上に近い。
夜須はゆっくりと歩を進める。足場は悪く、でこぼこした岩場だ。よろけながら、交野らしき人影に近づいていく。
暗くてほぼ手探り状態なのに、空ばかり明るくて、地上は淀んだ闇に溶け込んで形も定かでない。おぼろげな断崖とわずかに視界に入る木の梢、星空をくり抜いたように浮かび上がる交野の形。
何もかもが美しい夢のようなのに、地表に凝る漆黒だけが夜須を呑み込もうとしているように感じる。少しだけ怯んで、夜須は足を止めた。
「おーい、夜須」
声が再び夜須を呼ばう。
胴塚の傍らで交野が待っている。何故待っていると分かるのだろうか。暗くて表情も分からないのに、交野が笑顔で待っている。綺麗な顔で、自分をまっすぐに見て、微笑んでいるように思った。
そう思うと一気に気味が悪くなる。何故、交野は夜須に笑いかけることが出来るのだ。自分に対して、いつまで経っても何をされても、何故笑顔を浮かべることが出来るのか。
そんな交野に呼びかけられても、気持ち悪さが込み上げてくるだけなのに。何故分からないのだ。何故理解できないのか。おまえは欠片も好かれていないのに、と夜須は思った。
思った途端、状況の異常さに気付く。これは悪夢だと悟った。背中に冷たい汗がにじむ。これは夢なのだから逃げるなら今だ、と喘ぐ。
交野の形をした影の縁が、ぞわぞわと蠢いている。あれは、何かが凝り固まって出来た交野の似姿だ。交野であって交野ではない何かだ。そう思い至った。膝が笑い出す。腰が抜けてしまいそうだ。恐怖がくるぶしを掴み、動くことが出来ない。
暗いはずの風景に赤く色が点る。赤い色は影の中心に集まってざわついている。徐々に赤い色が広がっていく。黒い縁を残して赤い色に染め上げられた闇が立っている。いつ形が崩れてもおかしくないほど、不安定な影だ。
その影がおぼつかない歩き方で、夜須に近寄ってきた。
夜須は、必死で足を動かして後退る。すり足でしか移動できない。でこぼこした足場に何度もよろめいた。
影の頭がいきなり大きくなった。二倍にも膨れ上がって、今にも夜須に覆い被さりそうだ。シジキチョウがひしめき合って群れているのがはっきり見えた。赤い群生が渦を作り、ぽっかりと暗い穴が顔の中心に空いた。黒い、へこんだがらんどうの奥底から這い上がるような交野の声で、「オーイ、ヤス……」と音が聞こえた。まるで半笑いのような声音。
穴の開いた顔が距離を無視して、ぐぐぐっと首だけ伸ばして目の前にまで迫った。夜須は声にならない声を上げた。
「オーイヤス……」
黒い穴から声が湧き出す。シジキチョウが隙間なく群れて、人の形になって、夜須の前に来た。
目を覚ませ! と夜須は願った。これは悪い夢だ、早く目を覚ませ! そんな夜須の願いも虚しく、シジキチョウの群れが夜須を包もうと広がり始めた。
後退る足をいきなり掴まれて、夜須はぐいと力強く引っ張られた。そのままうつ伏せに倒れ込み、岩場に顔面を強打する。
「ぎゃ」
鼻が折れ、前歯が弾け飛んだ。夜須の口から血が噴き出た。目が開かない。真っ暗だ。夜須はパニックになって叫んだ。鋭い岩の欠片が、夜須の目に瞼を貫いて刺さっている。掴まれた足が穴に引きずり込まれる。
夜須は必死で手元を探って、爪を立てて抵抗した。ガリガリガリと爪が岩に引っかかって剥がれていく。
必死で叫びながら手足をばたつかせて抗うけれど、足場に空いた狭い穴に少しずつ落ちていく。
「ヤス……」
耳元で低い男の声が聞こえた。恐怖に駆られて叫ぼうとするが、喉が引き攣れて声が出ない。腰に腕が絡まり、すでに穴の中に腰まで引きずり込まれている。
「モウハナサナイ……」
雑音の混じる、夜須にしか分からない音が耳元で聞こえた。
夜須は何度も絶叫する。穴は狭すぎて、引きずり込まれる度に鈍い音がした。
腰に巻き付く腕だけでなく、首にも腕が回されて、耳元で嬉しそうな女の声が囁く。
「ホンガンカノウタ」
グイッと夜須の首が掴まれ、そのまま穴へと沈んでいく。岩に押し潰されて、体中の骨が砕けていく。
「ぎゃあ!」
絶え間なく勝手に喉から絶叫が漏れる。痛みと混乱で夜須は意識を失い、痛みで気付いては、また激痛に叫んで失神する、を繰り返す。
赤いシジキチョウが形作る人型が解け、宙に散ると、片手で岩の縁にしがみついている夜須に群がった。シジキチョウの口吻が容赦なく夜須の皮膚に突き立てられる。関節が白くなるほど岩を掴んでいた力が抜けて、そのままシジキチョウと一緒に夜須は穴の奥へ消えた。穴から、ひとしきり悲鳴が聞こえていたが、やがて静かになった。
ひらひらと風に揉まれるように小さな赤い蝶が、穴から舞い飛んで消えた。