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祖父のエッセイ


これから載せる祖父の書き遺した文章は
古いもので
その当時の純粋な気持ちだけで書かれたものであることを、どうか誤解なさらないでください。

左や右など思想のことではなく
当時の現実の中で精一杯考え生きた祖父の気持ちです。

現在の時代背景のこともあり
掲載することはずいぶん悩みましたが
祖母が存命のうちに伝えられることが少しでもあればと

また祖父の純粋な若い日の気持ちを
このまま無くしてしまうには
あまりに気持ちが遣る瀬無いので
掲載を決めました。

いろいろな見方や印象もあるかと存じますが
どうかそのような国際情勢や思想とは無関係に
当時の若者の記録としてお読み頂ければと思います。


祖母からは、開拓団引き上げの時には
丸刈りにして女性と気付かれないよう
死ぬ思いをして逃げ出してきたこと
また、開拓の地では現地の方に優しくして頂き、その地の単語を口にする時には嬉しそうであったこと。

祖父からは、引き上げの際には見殺しにするしかなかった仲間がいたこと
凄惨な現実があった事を
涙ながらに言葉少なに語った日があった事を

追記しておきます。


自分から話すことの少ない祖父から聞き出せたことは僅かで
伝令の馬を乗るのが得意だったこと
狩猟のこと
馬にブラシをかけると、日差しの中でとても美しくなったこと
初姫という馬を可愛がっていたこと
現地の大きな河を、たくさんの作物を摘んだ舟が行き交っていたこと
帰国してからは仕事を見つけて横浜に行き
馬に乗る機会に恵まれ
ずっと横浜にすてきな思い出のあるような顔をして
横浜の話を一言二言することがあったこと
戦時の歌の話をしている最中に
泣いてしまってそれ以上は話せなくなったこと


自分が聞けたことはそれくらいで
言葉少ない祖父が書き遺していた手記が
あまり完成されたものだったので
心から戦争がなくなること
平和への願いの上で
公開することをご容赦ください。



赤い夕日の満洲



大陸は招く、俺等少年時代の夢と希望にまだ
見ぬ天地に小さな胸をときめかしている夏の或る日、義勇軍の先輩が現地から帰り、小学校に現れた。

義勇軍生活、大満洲の建設など我々若い力で手を取り合って打立てようと、熱ある話を聞き、赤い血潮が体内にかけめぐり「よし征くぞ」と決心した。

心の通った者が六、七名。
親の承諾を得ようとしたが、若年一五才、単身満洲に渡ることは中々許しが出ない。

当時国が重要国策の一つとして満洲開拓事業に力を入れ、県町村に呼びかけていた矢先
分村計画も打ち出され、実現することになったのをきっかけに、ようやく両親の印が
朱もあざやかに願書に押された。

高等小学校 一六年度の卒業生から四名の同期生が青少年義勇軍に志願することになった。中村・松下・村上・そして俺だ。


われ等は若き義勇軍
祖国の為ぞ 鍬とりて
万里 涯なき野に立たむ
いま開拓の意気高し
いま開拓の意気高し

胸をゆさぶる「われ等は若き義勇軍」の歌である。

政府構想の一〇〇万戸移住計画が支那事変勃発で思うように進まず、それが農村の青少年に向けられ義勇軍が誕生したのだ。

当時、出征兵士を送るが如く我々四人も歓呼の旗の波に送られて、住みなれた故郷を後に一路車中の人となり、内原訓練所に向った。 春まだ浅い三月のことだ。

開拓の父、加藤先生のきびしい指導の下に三か月の内地訓練を受け、五月。

中隊長の指揮のもとに三五〇名のカーキ色の団服をつけた青少年たちは、日章旗を先頭に、わずか三か月の生活ではあったが
思い出多き日の丸兵舎、内原訓練所を出発した。


朝靄の中の沿道には日の丸の小旗を手にした附近の人々が並び、万才の声に、三か月前故郷を立った時の思い出が甦り、また新な勇気が湧き上った。

明治神宮、靖国神社参拝、そして二重橋前に整列して皇居を拝し、某会館で開かれる壮行会に向った。

名士たちの壮行の言葉に、「君たちは軍服こそ着ないが、国軍としての精神を持つ国士である誇りを持って移民の大業を達成されんことを祈る。」というような言葉が次々と聞かされた。

農村青少年たちの純朴な心に責任の重さが実感となってのしかかってきた。

下関港をブラスバンドに送られて渡満、黒河省の大額訓練所に入植、三か年間の義勇軍生活が始まった。




荒漠千里涯しなき北満の五月、そこ此処にまだ残雪があった。

これは大変な所にきてしまったと思う反面、よしすばらしい開拓団を建設して
早く父母を呼んでやろうと小さな胸に早くも夢多き構想を描き心に誓った。

此処で大額訓練所の地理・編成・生活等書いておく。

黒河省の中心、黒河の町は黒龍江のほとりにあり、ソ連のブラゴエチェンスクとは河をはさんで相対している。

最北端の国境の町である。

そこから約一五キロ西北の地点に大額訓練所の本部がある。
ソ満国境のすぐそばだ。
何しろ関東軍の最前線よりはるかに国境に近
い。 夜になるとソ連の町の灯がちらちらと光って見える。

先輩、同期生あわせて約五〇〇人ぐらいの義勇軍が本部附近に散在していた。

我々の中隊はその途中、町より五キロぐらいの地点に兵舎六棟、武道館 他六棟の舎があった。
これが五道溝中隊の訓練所である。

西北に小高い山脈が連なり、南東に荒涼たる原野が広がり、その中に村が点々と散在していた。

六月になるといたる所に色とりどりのお花畠が出現し足の踏み入れる余地のない程で、あざやかに咲き乱れ、書き現すことのできない美しさである。

だれいうとなく、
北満のお花畠と名付けられた。

夏は黒龍江に行き水泳、魚釣り、これまた大きい獲物が豊富に上りわれを忘れるのだった。

一〇月に入るともう雪が降り始め、来年の四月までは一面の銀世界となる。

北満では春秋の季節が短かく、寒暖の差が甚だしい。

夏は非常に暑く、冬は零下四〇度を記録する寒さである。

今日も朝の静けさを破って起床ラッパが鳴りひびく。集合五分前である。

飛び起きて洗面、作業服に身をかため中隊本部前広場に小隊毎に集合、一日が始まる。
午前中学課、午後は実習、その間に軍事教練があった。

母に甘えたい年ごろの少年たちの中からは当然落伍者が出た。

設備その他の不備がたたり病人も多く、はげしいホームシックから精神の平静を欠く者もあった。

仲間同志のけんかも烈しく、また指導者への反抗から作業をなまける者も出た。

然し多くの少年たちは、未来にかけた夢が、内地を出る時の「お国のため」という言葉と一つにとけ合って胸の中で純化された使命観となってこれを支えた。

農耕は主として馬に曳かせるプラウ、除草ハロー、播いた種は良く育ち、特に豆類・西瓜・南瓜・馬鈴薯・蔬菜等は当時内地では想像もつかない大きいものがごろごろとできた。

味も良く改めて満洲農業の有望性を信じさせた。



長かったきびしい三か年の訓練を終え、開拓団入植の日がついに来た。
我々四人は中隊に別れを告げて、なつかしの分村、開拓団の人々に迎えられて新な門出についた。二〇年五月であった。





これまでサポートくださった方、本当にありがとうございました!