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【連載小説】No,11 新世界より

 それは不思議な縁でわたしが魔道具を扱う店の主を任されてから、三ヶ月ほど経ったある日のことだった。

「すみませーん、魔物を捕獲するための道具ってありますか?」
 村人Aみたいな服装の若い男性三人がやってきて、そう尋ねた。
「捕獲……ですか?」
「矢を射ても当たらないし、反撃されるし」
「罠を仕掛けても全然捕まえられないんだよ」
「この店にはめずらしい魔道具もあるって聞いたから、何かないかと思って……」
 村人ABCが口々に訴えてくる。
(ずいぶんお困りのご様子で。害獣の類かな)
 わたしはカタログを捲って該当しそうな品を探した。
「えーと……捕獲用だと武具か罠ですよね。魔力に反応して罠が発動するタイプの檻でしたら、何種類かサイズや形状の異なる物がございますが」
「そういうのも使ってみたんだがダメだった」
「左様ですか。でしたら、こちらの弓矢などはいかがでしょう。外れても少しの距離なら的にした獲物が放つ魔力を察知して軌道修正してくれます」
 魔力レーダー探知による自動追尾機能ってことね。しかも誤射防止のための対人用セーフティロック付きですって。異世界の武器、侮れないなぁ。
「これなら逃げられずに仕留められるのでは?」
 自信たっぷりにカタログのページを示しながら勧めてみたけど、残念ながらお客さんの反応は芳しくない。
「いや、これも落とされるんじゃないか?」
「だろうなぁ」
「無理だな」
 カタログを覗き込んだ三人が一様に肩を落とし、首を振る。
「避けられるんじゃなくて、落とされる……ですか?」
「ああ。我が国随一の弓の名手が射た矢もすべて撃ち落とされたからな」
(なるほど)
 単に避けられるだけじゃなくて魔力で迎撃されてしまうのか。
 実物を見ていないわたしはあまりピンとこないので、もうちょっと詳しいリサーチが必要だなと思った、そのとき。店のドアベルが軽やかに鳴って新たな客の来訪を告げた。
「いらっしゃいませ」
 挨拶しながら面を上げ、入り口付近に視線を移す。
 入ってきたのは厳つい銀の甲冑を身につけ、腰から大剣を下げた冒険者ふうの男性だった。手荷物はなく、一緒に入ってきた仲間もいない。商品棚には目もくれず、まっすぐカウンターに向かって歩いてくる。
 すると振り返った村人Aが男性の名を呼んだ。
「あ、シオンさん」
(知り合いだったのね。同じ村の人かな)
「どうだ? 何か見つかったか」
「いえ、それが……」
 どうやらこの人も害獣対策の一員らしい。
 近くで見るとなかなか長身だ。甲冑に覆われていても、身体全体の厚みや腕と脚の筋肉の付き方で、かなり鍛え抜かれた体格の持ち主だと推測できる。額に大きな傷まであるので歴戦の勇士といった風格だけど、顔を見たところきっとまだ壮年の域に違いない。三十代半ばから後半といったところか。
(しかもこの人だけ顔立ちがアジア系なんだよね。どういう繋がりなんだろう?)
 少し気になったけれど、あれこれ尋ねるわけにもいかない。
「えーと、まずはどんな魔物を捕まえたいのか、詳細をお聞かせ願えますか」
 わたしの言葉にA氏は、ああ、それもそうですねと改めてこちらに向き直り、説明を始めた。
「鼠なんですけど、かなりでかくて、猪ぐらいのサイズなんです」
「それは大きいですね」
(絶対遭遇したくないな)
「しかも最近なぜか国内で大量に繁殖しておりまして。田畑が荒らされるのでいろいろと罠を仕掛けてみたんですが、よほど用心深いのか、それともこちらの魔法が効きにくい種族なのか、ちっとも効果がないんです」
「なるほど」
「ほとほと困って国に駆除をお願いしたら、かえって被害が拡大する始末で」
「それはどういう状況で?」
「あちこちの田畑が焼失したんです。奴ら、攻撃されると周辺に電撃を落とすんですよ」
「電撃?」
「ええ、そりゃもうバリバリとでかい稲妻を」
(電撃……)
 それを聞いて、思わず口からポロリと一言。
「ピカチュウか」
 全国民にお馴染みのキャラクターが脳裏に浮かんで、つい口にしてしまった。でも異世界の人々には何のこっちゃ分からないはずなので、完全スルーされると思ったのに。
 どういうわけか、シオンという戦士が突然腕を伸ばしてきて、わたしの肩をガシッと勢いよく鷲づかみにしたのだ。鬼気迫る顔つきで。
「おまえもか?」
 痕がつくほどの強い力でつかみかかられ、がくがくと揺さぶられる。
「どっちだ! おまえはどっちなんだ?」
 何がとか、どうしてと尋ね返す余裕もない。
「いっ……痛! 痛いです、離して」
 痛みを訴えながら咄嗟に身を引こうとしたわたしの背後から、誰かがシオンの手首をつかんで、すばやく引き剝がしてくれた。
「お客様、店主への乱暴はお控えください」
 耳に馴染んだ声の主がわたしと戦士の間に割って入る。
「……クロ」
 助けに入ってくれたのは、人の姿へと変化したクロだった。
 何かあったらボクが琴音を守るよ。常々そう言っていたのは、どうやら嘘じゃなかったようだ。いつもより黒々とした瞳が冷たい光を放っている。
「店内での従業員及び他のお客様に対する暴力行為は禁止事項となっております。二度とこの店舗から出られなくなる可能性もございますので、お気をつけくださいませ」
 入れないではなく、二度と出られないとは、なんと背筋が凍る脅し文句だろう。わたしですらヒヤッとしたのだから、当然村人たちや戦士の顔色も変わった。
「……申し訳ない」
「い、いえ」
 素直に頭を下げられたので、大丈夫ですと返したのだが、村人たちはすっかり肝が冷えてしまったようで。
「また出直してきます。さっ、シオンさん、行きましょう」
 慌てて戦士を引っ張って店から出ていった。
(いったいなんだったんだろう?)
 ドアの向こうに消えていく後ろ姿を見送りながら、わたしはモヤモヤした胸のつかえを感じていた。

           ◆   ◆   ◆


 その日は客足があまり伸びず、夕方になっても暇だった。
 毎日のようにやって来る通りすがりの勇者パーティーも新米魔法使いも現れない。
「このまま夜も暇だったら夕飯早めにしようかなぁ」
 そんなことをつぶやきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夕暮れに染まる空の下、ガラス越しに目に映るのは陰っていく陽の中へと沈みゆく住宅街の街並みだ。わたしがいるこの店は日本国内のごく平凡な町の一角にある。
 と同時に、たくさんの異世界とつながっている地点に在るのだという。
 魔道具を扱うこの店自体が特殊なせいか、扉を開けて入ってくる客たちはさまざまな世界からここを訪れている。扉が開く度に、その向こう側に広がっている景色は違っていて、おどろおどろしい世界のときもあれば、黄金郷のように眩く美しい都市の場合もある。
 今日、村人たちと戦士が戻っていった扉の向こうの景色は、ヨーロッパ山間部の田舎町といった風情だった。
 わたしが足を踏み入れたことのない異世界――――
「ねぇクロ、もしわたしがお客さんと一緒にうっかり店から出ちゃったら、こことは別の世界に行っちゃうってことだよね?」
 ふと思いついたことを口に出して尋ねてみた。
「うっかり?」
 クロが怪訝な面持ちでこちらを振り返る。
 今はもう黒猫の姿に戻っているが、表情は案外分かるのだ。
「ああ、もちろんそんな機会はないと思うし、行くつもりは全っ然ないよ。でももし、こことは違う世界に出ちゃったとしたら……戻って来られなくなる?」
「いいや、キミは店主だからどこの世界からでもここに戻ってくることはできるよ。ただし行った先で迷子になったら分からないけどね」
 その言葉を聞いてほっと安堵すると同時に、不安と興味が半分ずつ混ざり合う。
「ってことは、やっぱ違う世界に行くことはできるんだ?」
「行きたいの?」
 結構大変だと思うよ。キミは魔法が使えないんだし、と辛辣なセリフが返ってきてグサリと胸に突き刺さった。
「……だよね」
(ええ、ええ、分かってますよ。異世界でチート能力使って無双するのなんてマンガや小説だけの話だもの。わたしは魔力ゼロの女だし。魔道コンロすら使えないんだから、家電が使えるこの現代社会じゃないと生きていけませんよね)
 そもそも店内ではなぜかどの世界の人とも言葉が通じるけど、使っている貨幣はバラバラだし、服装や髪型、町の風景、家の造りもそれぞれ違う。きっとその世界を形作っている社会構造も、日々を暮らしていくための社会通念もすべて異なるに違いない。
 いくらか魔法が使えたところでハードルが高いなんてもんじゃない。
「うん、無理」
(分かってたけど、ちょーっと残念かな)
 自嘲の笑みと共に漏らしたため息を店のドアベルの音が掻き消した。
 入ってきたのは、あのシオンという名の戦士だった。
「……いらっしゃいませ」
 ゆっくりとした足取りでカウンター前まで歩いてきた彼は、わたしと目を合わせると、改めて深々と頭を下げた。
「昼間はどうもすみませんでした」
 これをお詫びにと差し出されたのは、繊細な細工が施された半月型の木の櫛だった。
 きれいな品だ。ありがたいけど、さすがに受け取るわけにはいかない。
「いえ、そんな! そこまでしていただかなくても」
 べつに殴られたわけじゃないし。
「多少びっくりしましたけど、どこも怪我してませんし」
 本当は多少どころではなくかなり驚いたし、たぶんつかまれた両肩はうっすら痣になっているんじゃないかと思うんだけど。そんなことよりもっと気になることがあった。
「あの……それよりシオンさんってひょっとして……日本人、ですか?」
 どう考えても、例の単語に異世界人が反応するなんて有り得ない。
 それに彼は「どっちだ?」と尋ねたのだ。「おまえはどっちだ」と。
 どっちとは――――召喚者か転生者ではないだろうか。
「ああ」
 シオンは眉尻を下げ、情けなさそうに頭を掻いた。
「やっぱりバレたか」
「あの単語に反応されたようなので」
 不意打ちすぎてつい過激に反応しちまったよ。彼は苦笑と共に吐露して、再度頭を下げた。
「俺の名は渡会志音≪わたらいしおん≫。志に音と書いてシオンって読むんだ。俺の父親が中学校の音楽教師でさ」
「そうですか。あ、わたしは夢乃屋の店主を務めている雫川琴音といいます」
「琴音さん……楽器のお琴に、音楽の音?」
「はい」
「へぇ、二人とも名前に音の字が付いてるなんて奇遇だね」
「そういえば、そうですね」
「でもあなたは召喚者ってわけじゃないよな?」
「ええ。誰かに召喚されたわけでも転生したわけでもありません。そもそもわたしがいるこの店は、今現在も日本の関東地方に在りますから」
 この一言はやはり彼にとって衝撃だったようだ。
「はっ!? てことは異世界で暮らしているわけじゃないのか? 俺がいる国で、今こうして会ってるのに?」
「はい。この店の扉が異世界とつながっているだけです」
「え……じゃあ……」
 彼の視線が泳ぐ。
 窓の外の景色を捉えて、固まった。
 ありふれた、ごく普通の町の夕景に。
「嘘だろ」
 小さく漏れた声は震えていた。
 彼は飛びつくようにして窓に駆け寄り、開けようと試みたが、すべて嵌め殺しのためどこにも把手はない。慌てて出入り口まで戻りドアを開けてみたが、その先にある景色は彼が現在暮らしている国のものだった。
 諦めてドアを閉め、ふらふらと再び窓に歩み寄っていく。
「ここを開けてくれ! 頼む、出してくれ!」
 開かない窓を男の拳が叩いた。二度、三度と強く。
 哀しみに歪んだ顔で、故郷の景色を見つめながら。
「ちょっとの間でいいんだ! 頼む!!!」
 やがて腰の大剣に手が伸びたところで、止めておきなさいとクロが声をかけた。
「昼間も言ったでしょう。窓を壊したところでここから出ることはできないし、それどころかどこへも帰ることができなくなりますよ」
「しかし……」
「召喚者が元の世界へと戻るには召喚した術者が死ぬか、解放の術を発動するかの二択。複数名の術者によって条件付きで召喚された場合は、その条件をクリアすれば戻ることができます。それ以外に方法はありません」
 厳然たる事実を突きつけられ、勇者の風貌を持つ屈強そうな男が膝からガクリと崩れ落ちた。
「……そうか……そうだよな」
 つぶやく声に絶望が滲む。
「目の前に元の世界があるのに」
 無理やり召喚されたのだとしたら戻りたくもなるだろう。懐かしい世界がガラス越しに見えているのに、戻れないとは残酷な話だ。
 そのとき、窓の向こうから微かに鳴り響くチャイムの音が聞こえてきた。

『遠き山に日は落ちて』

 郷愁をそそる懐かしいメロディーだ。
 ここからだと死角になって見えないが、通りを少し南へ下ったところに小学校があるので、校庭で流しているのだろう。
(そういえばこの時間になると聞こえてくるな)
 しばらくの間、しんみりと沁みる音色に耳を傾けていて、ふと気づくとシオンが滂沱の涙を流していた。声もなく、ただ、はらはらと。
(……泣いてる)
 男の人が本気で泣く姿を間近で見るのは初めてで、さすがに慌てた。とにかく何かしなくてはと使命感に駆られ、急いで湯を沸かし、温かいお茶を淹れた。ハーブ入りだけど癖がなくて飲みやすい種類のお茶だ。それから椅子をカウンター横まで運んできて、どうぞと勧めた。
「まずはここに座って、お茶でも飲んで一旦落ち着きましょう」
「……気を遣わせてすまない。また恥ずかしいところを見せちまったな」
 シオンは剣蛸のある武骨な手で頬の涙を拭いながら、椅子に腰を下ろした。
「大の男がみっともないよな。もういい歳だってのに」
「そういえばシオンさんって歳はいくつなんですか?」
「もう三十超えたよ。今年で三十一だ」
(あ、思ったより若かったのね)
 そんな感想が表情に出てしまったようだ。
「なんだ、もっとオッサンだと思ったのかよ。ひでぇな」
 苦々しい表情だったけど、それでも笑ってくれた。
 温かいお茶を飲んで少し落ち着いたのか、彼は召喚されてからこれまでに起こった出来事を訥々と語り出した。
「俺、十五でこっちの世界に呼ばれたんだ。思春期だったし受験前でイライラしてて、母親と派手にケンカした次の日だった。学校から家に帰る途中で、ふっと目の前がぼやけて……気づいたら勇者として王宮に召喚されてた」
「やっぱり突然なんですね」
「うん、何の兆候もなくいきなり。世界を跨ぐのなんて一瞬だったよ。イエス・ノーぐらい訊いて欲しかったなぁ。まぁ最初はちょっとワクワクしたんだけど。すげぇ、俺、物語の主人公じゃんって。勇者様なんつって持ち上げられたし。けどさ、勇者だから魔王を倒してくれとか言われても知ったこっちゃないだろ。なんで知らない国の知らない人たちのために、俺が命がけで戦わなきゃいけないわけ? そんなのおかしいだろって思ってた」
「ごもっともです」
「でも帰り方なんて分かんないし、悩んでも腹立てても現状何にも変わんないしさ」
 結局やれることをやるしかなかったと肩をすくめた。
「魔王と戦ったんですか?」
「うん。勝ったよ、十年かけて」
「すごいですね」
「だろ? まさか本当に倒せるとは思わなかったよ。でもまだ完全じゃないみたいでさ、残党が結構いるし、魔王復活の兆しもあるんだ。そのせいかなぁ、帰れないのは」
 例の電気ネズミの異常繁殖もおそらくその兆候のひとつなのだろう。
 考えてみると、なかなか壮絶な人生ドラマだ。
 かける言葉が見つからなくて思わず押し黙ってしまったわたしを見て、彼は「でも悪いことばかりじゃないんだぜ」と付け足した。
「あのときからもう十六年だからさ、俺こっちの世界にいる方が長いんだ。昔好きだったアニメやゲームはないし超高層ビルもテーマパークもないけど、結構いい国なんだよ。慣れれば住みやすいし、一緒に戦ってくれる仲間も大勢できた。そのうちの一人がこの国の王女で、結婚もした。息子だっているんだぜ」
「え!? てことは次期国王陛下?」
「まぁ、そうなるかな」
 そのわりには村人たちとずいぶんフランクに接していたような。国民との距離感が近い開かれた王室なのか、それともこの人が召喚勇者だからか。
「でもさ……何も言わずに突然こっちに来ちゃったから、親はずいぶん心配して泣いただろうなと思って。特に母親は自分を責めたんじゃないかって、ずっと気になってたんだ。申し訳ないことをしたって」
 自分自身も親になったから、なおさら気になるのだと言う。そうして彼は首から外したペンダントを見せてくれた。飾りのある表側が蓋のようになっているロケットペンダントだ。開くと、中には小さな写真が貼られていた。
「これ……プリクラのシール、ですか?」
 真ん中にいる小さな男の子を挟んで、両端にいる少し年上の派手目な女子がにこやかにピースサインをしている。
「一緒に写ってんのは双子の姉貴。双葉と美月。召喚される前の日に家族でショッピングモールに行ったとき、無理やり一緒に撮らされたやつ。いつの間にか学生カバンの裏側に貼りつけてあったんだ」
 何もかも失くした今、たった一枚残ったこの小さな写真だけが本当の自分を、彼が渡会志音という人間だということを証明してくれる物なのだろう。
 ちなみにペンダントの表面を飾っているのは王家の紋章らしい。
 もし――――もしも、この後、彼が魔王を完全に討ち果たしたら。この人はまた唐突に世界を跨いで、元の場所へと戻されるのだろうか。長い年月の間に生まれた仲間との絆を失い、愛する妻や子と引き離されて。
(いや、さすがにそこまで残酷な仕打ちは……)
 チラリとクロの方を伺うと、意味ありげな視線が返ってきた。
(ないとは言えないのね)
 時を遡って召喚された当時に戻るならともかく、世界を飛び越えるだけだとしたら完全に浦島太郎だ。そのとき彼が異世界の勇者シオンであった証となるのも、このペンダントひとつかもしれない。
「ま、今ではお守りみたいなもんかな」
 彼はペンダントを大事そうに懐にしまうと、おもむろに立ち上がった。
「長居しちまってすまない。詫びの品を届けにきただけなのにな」
「いえ、かえって申し訳なかったです。こちらの品もお持ち帰りください。お気持ちだけありがたく受け取っておきますので」
 さっき渡された櫛を返そうと差し出したのだが、シオンはそれは困ると言い張って受け取ろうとしない。
「エーレに……妻に怒られる」
「王女様がご用意くださったものなのですか?」
「ああ。あいつは俺と一緒に旅をしたから、この国の現状をよく理解しててさ。戦や魔物討伐で夫を失った寡婦にも仕事を与えたい、できれば国の特産品となるような物を作りたいって前から言ってたんだ。で、この国にたくさん生えてるリューベントの木に魔石を練り込めばいいんじゃないかって作らせたのが、この櫛なんだ」
 丈夫で木目が美しく、何より魔力の通りが非常によい素材なので、誰でもわずかな魔力でイメージ通りの髪型に仕上がるらしい。
「装飾が凝ってるから見た目も美しいし、使い勝手も悪くないと思うんだが」
「そうですね。素晴らしい品だと思います。でもわたしは……魔力がなくて」
「え!?」
「ゼロなんです、魔力が」
「魔道具店の店主なのに?」
「……はい」
(ですよねぇ。そこ引っかかるよね、普通)
 居心地の悪さに肩をすぼめていると、だからこそ店主としてスカウトしたんですよ、とクロが横から口を挟んできた。
「その櫛、受け取らないんだったら、いっそ店で売ってみたら?」
「いいの!? そういうの有り?」
 意外な提案だ。
「買い取りではなく預かりって形になるね」
「委託販売か」
「空いてる棚に置いてごらん」
 クロに勧められた通り空きスペースに櫛を置いてみると、見事、カタログに商品が追記されていた。
「ほんとだ。載ってる」
「売れたら手数料を差し引いて、支払ってあげればいいよ」
「誰に? シオンさんにまた来てもらうの?」
「カタログに国名と王宮の名を書き込んでおけば、自動的に送金されるはずだよ」
「それは助かる。だったら、これの他にも何個か預けておいて構わないかな?」
「もちろん構いませんよ。在庫としてお預かりします」
「ありがとう! できれば周辺諸国にも売り出したいと思ってたんだが、流通費用もバカにならないから、どうしようかと悩んでたんだ」
 カタログに記入だけ済ませると、じゃあさっそく明日にでも搬入させるからと告げて、次期国王の勇者は店を去っていった。彼を待つ人々がいる国へと戻っていったのだ。

           ◆   ◆   ◆


 チェコの作曲家ドボルザークが最後に書いた交響曲第9番は「新世界より」という副題で広く世に知られている。ヨーロッパからアメリカへと渡った晩年、現地の音楽に強い影響を受けて書き上げた作品だ。
 全体的にとても力強い曲調だが、第二楽章だけは穏やかで哀愁漂うやさしい旋律で始まる。後にその部分に歌詞を付け加えて編曲されたものが「家路」や「遠き山に日は落ちて」というタイトルで現在でも親しまれている。
「この曲を聞くと小学校の校庭を思い出すんだよね。友達と遊んでて、これが流れると帰る時間だって走り出してた記憶あるわ」
 閉店から四十分後、わたしは夕飯を平らげ、食後のコーヒーを飲みながらYouTubeで懐かしい曲に聞き入っていた。
 いつ聞いても少し心寂しくなる曲だ。
「にしても、男の人があんなふうに泣くなんて思わなくてびっくりしちゃった」
「十六年の歳月の積み重ねだもの。性別は関係ないよ。ついでに人種もね」
 クロはコーヒーよりココアが好きみたいで、ぬるめのココアを飲みながら穏やかな口調でわたしを諭した。
「……うん、そうだね」
 頷いたわたしは、ふと、懐かしい光景を思い出していた。
 三ヶ月前のある雨の日のことだ。

 その日、わたしは黒猫を拾った。アパートの階段下で冷たい雨に震えていた小さな仔猫を。賃貸住まいで、本当は動物を飼う余裕などない暮らしだったのに、思わず部屋に連れ帰ってしまった。ただ、そうせずにはいられなかったから。
 今になって振り返ってみると、もしかするとあの小さく弱々しい姿に当時の自分の状況を重ねていたのかもしれないと思う。
 わたし自身が世の中の冷たい雨でずぶ濡れだったから。

 大学卒業後に入社した会社では、希望した部署に配属されたこともあってものすごく頑張っていたのに、社内のパワハラセクハラに振り回された。間違っていると思うことに対して、間違っていると声を上げたら干され、罵倒された。正義の人を気取ったわけではなく、わたしの普通を主張しただけなのに、おまえは普通じゃないと揶揄された。おとなしく長いものに巻かれるのが普通、その中で上手くやるのが賢い人だよと諭された。
 本当は戦いたかったけれど、折悪しく母が病で倒れ、亡くなった。
 それもすらも自分のせいだとしか思えなくなった。
 ああ、わたしが不甲斐ないからだ。よけいな心配をかけたからだ。
 全部、全部、全部。上手くいかないのは、わたしのせい。
 負のスパイラルに陥っているときというのは、そんなふうに考えてしまうものなのだろう。わたしは会社を辞め、アルバイトで食いつなぐようになった。もともと母子家庭で母親と二人きりだったから貯金はあまり多くなかった。母の保険金は葬儀と埋葬、一人暮らしのための引っ越しと、学費の返済などで儚い泡のように消えていった。
 それでも生きていかなくちゃならない。
 何もしないでうずくまっていたかったけれど、生活にはお金がかかる。仕方なく、いろいろなところでバイトをした。ホームセンターでは元気のいいパートのおばさまたちに、若いんだからもっと食べなさいとお菓子や果物をよくもらった。みんないつも声が大きくて明るく笑っていたけれど、少しずつ話を聞いていると子供の受験のためにと必死で稼いでいたり、長年親の介護をしていたり、見た目では分からない病を抱えている人たちだった。
 短期のバイトで清掃に入ったこともある。わたしの親どころか祖母のような年齢の人が、腰が痛い、足が痛いと言いながら早朝から夕方まで立ちっぱなしで働いていた。考えていたよりきつい仕事だった。自営業の店を畳んで、夫婦の年金だけでは足りないからと働く人、早くに夫を亡くした人、離婚して女手一つで子供を育てて今は一人暮らしの老後を迎えている人。
 会社勤めをしていたとき、同じようにトイレや廊下の清掃をしている人がいることは認識していたけれど、気にしたことはなかった。「しんどい」が口癖なのに、それでも「食べていかなきゃならんからね」と毎日ガサガサの手で便器を拭いたり給湯室のゴミを集める人たちを、自分と同じに考えたことは一度もなかった。
 書店やスーパーでのバイトは意外と力仕事が多かった。ホームセンターのときと同じで、品出しのカートは重たいし、買い物中のお客さんの邪魔をしないよう注意しながらすばやく商品を並べるため、中腰で作業することも多い。逆にレジはまっすぐ立ちっぱなし。そしてお客さんのクレームも多い。
 クレームの多さではドラッグストアもなかなかだ。商品の数も多いから配置だけでも覚えるのが大変だった。
 ダブルワークでカフェのバイトをやったとき、掃除がとても丁寧で上手いと店長に褒められたことがある。若い子はトイレ掃除を嫌がるけれど、あなたは店の前の道路も床もキッチンもトイレも全部手を抜かずにきれいにしてくれるから、とても助かると。
 ああ、見ていてくれてるのか、と嬉しくなった。
 以前、掃除のプロに教わったんです、とわたしは答えた。あの清掃会社の女性たちに心の中でお礼を述べた。
 そんな日々をしばらく続けたあと、わたしは派遣登録をした会社を通じて貿易関係の事務の仕事に就いた。会社で使用されるソフトやアプリは問題なく使いこなせたし、とりたてて難しい業務でもなかったので自分なりに工夫をして効率化を図ったり、改善できることは提案して働きかけた。おかげで課全体の残業時間が減ったと直属の上司にとても感謝された。そして契約更新の時期に、業務が減ったので人を減らすことにしたと告げられて、更新されずに会社を去った。
「やってらんねぇ」
 正直そう思った。
 世の中に等しく雨は降り注ぐ。
 でも力のない弱い者は、冷たい雫を避ける傘を持たない。
 わたしはずぶ濡れだった。弱かった。
「それでも生きていかなきゃならないもんね」
 これまで出会ってきた人たちの声が耳の奥で響いた。
 本当にそうだうろか、こんな思いで生きていくことにどんな意味があるんだろうと思ったりもしたけれど、母が残した最期の言葉が「ありがとう」だったから、わたしは自分を投げ出すわけにはいかなかった。
 俯かず、しっかり前を向いて生きてやる。
 ずぶ濡れだろうと構うものか。
 そう決意した直後に――――あの雨の中、クロと出会った。

 まさか人語を解する猫とは露知らず。
 魔道具などという不思議なものを売る店の主になるなんて、思いもせずに。

 クロに導かれてあの店の扉を開けた瞬間が、新しい世界へと踏み出す一歩になった。暮らしているのは今も昔も変わらぬ同じ町の一角だけど、日々の中で目にする世界は一変した。
 わたしの場合は押しつけられたわけではなく、自ら選び取って踏み出した一歩だ。
 だからなおさら、この新しい世界をきちんと楽しもうと思う。
 精一杯、自分にできるだけのことをして。

「ねぇクロ、あの電気ネズミを捕まえる罠だけどさ。こういうのは作れないかな」
 わたしは思いついたことをクロに話してみた。イメージを伝えるのが難しかったけれど、どうにか分かってもらえたようでオーダーを出してみようということになった。
 夢乃屋では魔道具の受注製造販売も行っているのだ。

 そして翌日。
 約束通り、村人A氏(ハンスさんという名前らしい)が櫛の搬入にやってきた。
「シオンさんに言われて持ってきたのですが、本当によろしいのでしょうか?」
「ええ。その代わり、いつ、どのくらい売れるかは保証できませんよ。お客様次第ですから」
「もちろん構いません。また近いうちにようすを見に伺いますので」
「そうしてください。それから……これを一度試してみてくださいませんか?」
 わたしは今朝出来上がったばかりの試作品を取り出し、ハンスさんに手渡した。
 ちょうど手のひらに収まる球状の物体を。
「……ボールですか?」
 はい、まさに硬式野球のボールくらいのサイズですが。
「魔道具です。昨夜思いついて、急遽作製してみました」
「はぁ。いったいどういう使い道が……?」
「例の電気ネズミに向かって投げてください。当たらなくても、近くまで届いていれば相手が発する魔力に引かれて的のところまで飛んでいきます。そして的に当たると、このボールが割れて、中から網状の罠が飛び出す仕掛けになっています。猪サイズなら一瞬で覆って捕獲できます」
「いや、しかし、電撃が」
「大丈夫。網はもちろん、ボール自体も電撃魔法の影響を受けません。耐電撃魔法に特化した商品です。網の中に捕らえてしまえば、魔物は電撃を外に放つことはできません」
「お、おおおおっ!」
 ハンスさんの表情がパッと輝いた。
「素晴らしい! これで村が……いえ、国中の農民が助かります!」
「一度実際に試していただいて効果が確認できましたら、またお越しください。必要な数だけご注文を承ります」
「はい、そうさせていただきます。本当にありがとう!」
 ハンスさんは大喜びで村に戻っていった。
 わたし特性の電撃モンスターボールを持って。

「しかし、よく思いついたね、あんなの」
 クロに感心されて、わたしはわずかに胸を反らした。
「昨日シオンがわたしにつかみかかったでしょ。そのとき口にした名前は子供のころ見たアニメに出てきたやつなの。だからそれを参考にしたのよ」
 店主として、せめて彼らの役に立ちたい。
「わたしができるのは、それぐらいだから…………ん? あれ!?」
 今、唐突に思いついたけど。
「あのさ、例えばシオンさんが店内にいるときでも、わたしが店のドアを開けたらこっちの世界につながるのかな?」
「……そうだね」
「じゃあ、そのタイミングでわたしと一緒にシオンさんが外に出たら?」
「出られるかもね」
 ってことは一時的にでも戻れるじゃん、元の世界に!と思ったんだけど。
「まぁ、どんな代償を求められるか分からないけど」
「あー……やっぱ、そうなるのか」
「試した奴はいないからボクもはっきりとは断言できない。でも世界を跨いで移動するのはそんなに簡単なことじゃないんだ。魂にかかる負荷も莫大なものだし。特別な修業を積んだ最高位の神官でもない限り、耐えられない技だよ」
(ん? 最高位の神官? それ、どこかで聞いたことがあるような)
「あ、あの笛を買っていった人みたいな?」
 頷きが返ってきて納得した。
 そういえば以前、人や魔物を自在に操る不思議な笛を購入していった神官のお客さんは、最初ドアの外に立って開店を待っていた。あのときは特に疑問に思わなかったけれど、きっと何か特別な技でこちらの世界へと渡ってきて、いち早く笛を手に入れようとしていたのだろう。他の誰かに、例えば元の持ち主などに買われてしまう前に。
(未来を見通せる眼があるって言ってたしなぁ)
 でもシオンにはできないんだ。たとえ勇者でも。
「じゃあやっぱり彼にしてあげられることは何もないね」
「この捕獲ボールと櫛の委託販売だけでも充分だと思うけど」
「そうかな?」
「そうだよ」
 それにね、とクロが付け足した。
「今後、彼が魔王を完全に討伐したとしても、それまでにあのお守りを手放していたら。元の世界への執着を完全に捨てて、今の世界だけで満たされていたとしたら――――そのまま残れるかもしれないよ。保証はないけど」
 それはなかなか希望に満ちた未来予想図だ。
「本当に、そうなるといいね」

 勇者の呼び名にふさわしい彼の努力と勇気に満ちた日々が、いつか正しく報われますように。そう祈りつつ、わたしは在庫の整理を始めた。

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