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書散裸#3 「笑わせる」と「笑われる」

舞台に立っている間、その基本的なスタンスは「笑わせる」こと、これは当然だ。台本上にないミスが笑いを誘発したとしても、それは「笑わせる」ために作ったネタの延長戦でありそのスタンスは一貫している。ゆえにネタ中のミスは「笑われる」ではなく、「笑わせる」行為に該当すると思う。

予想していたよりウケない、または予想とは違う箇所で違うウケ方をしたからムスッとする、というのも舞台上ではすべきじゃない。「笑わせる」にはそういった姿は出さない方がその場のウケに繋がる。勿論後で反省する必要はあるが、ウケれば結果オーライだ。

「笑わせる」ことにフォーカスした今の自分の価値観はまた今度書いてみようと思う。

目下の問題は日常での「笑わせる」と「笑われる」の違いだ。私は日常でもできるだけ「笑わせる」を意識して生きている。そもそも人の笑顔が自分によって生まれることに喜びと快感を感じるような人間だからこそ、お笑いなんて正気の沙汰を逸脱した道化を演じているわけだ。

自分は言動で笑いを取るのが好きなようで、漫才同様あまり大きな動き、立ち回りをして笑いを取ることは少ない。嫌いではないのでたまに魔が差してやってしまうのだが。半分ウケて半分滑る。いや、7割くらい滑る。ガッテム。

話が逸れた。私が話したかったのは日常で「笑われる」ことについて。正確には「笑われる」奴について。人間、意図せず周囲の笑いを引き起こしてしまう行動を取ってしまうこともあるだろう。そこに介在する悪意の総量や羞恥心を周囲または自分に喚起する要因があるから、「笑われる」ことを人は避ける。晒し者に誰も好んで成りはしない。

こういったわかりやすい陰湿な笑い、嘲笑の類の対象になる場合はわかりやすい。回避行動をとる。問題はそういった悪意とは離れた、無自覚に誘発する「笑い」を取るやつがいること。そういう星の元に生まれた、要は「いじられキャラ」というやつだ。いじられキャラも何パターンかに分類できるのだろうが、基本的に「笑われる」存在であることに変わりはない。

「笑わせる」のは自分の意思で笑いを取る行為だ。「笑われる」のはそいつの意図した行動の結果ではなく、他者によって演出されたものの構成要素に過ぎない。しかし、その点をはき違えてるやつが多い。「笑われる」分際で「笑わせる」に並んでいる、ないしは自分のほうがおもしろい人間だと思っていることが会話から透けてくる。

というのも、やたらと私に対して「アオゾラお笑いやってるんだからさ~」と無茶ぶりを投げかけてくる。気の短い私なので衝動的にキレたくもなるのだが、そうなると「面白くない」。面白くないやつに面白くない行動を取らされてしまう。だから自制が働いているがストレスは溜まる。


「笑われる」やつが「笑わせる」やつに偉そうに話しかけてくるな。


私は何も、「笑わせる」ご立派な人間だと自身を主張したいわけじゃない。その見え透いた悪意が鬱陶しいだけだ。はき違えた自信で近寄ってくるのに嫌悪感を感じるのだ。


人を笑顔にすることはそんなに簡単じゃない。

そういう風に生きることには勇気と覚悟がいる。だから黙ってろ。

いや黙らせる。「笑わせる」ことで。そいつら含めて、自分とは面白さの次元が違うてわからせる。

三下と格の違いを見せてやる。


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