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(小説)八月の少年(三十八)

(三十八)最終会議
 何という霧だ。まるでこの屋敷を覆い隠すようではないか。
 会議を待って彼はひとり屋敷の窓辺に佇んでいた。
 不思議だ。会議の夜は、どうしていつもこんなに霧が立ちこめるのだろう?まるで何かを覆い隠すように。
 ふと彼は窓のそばの木にいっぴきの蝉がとまっているのに気付いた。
 蝉か、珍しいな。なぜかこの屋敷では不思議に人間以外の生きものを見たことがない。鳥も蝉も、蚊やハエさえもだ。
「おーい」
 彼は窓を開け蝉を呼んだ。すると蝉は彼の声に答えるように木から離れ屋敷の中に飛び込んできた。
「おお!」
 驚いた彼は思わず声を上げた。蝉はすぐに近くの壁に留まった。鳴きもせず騒ぎもせず蝉はじっとしていた。
「何年も土の中にいてやっと羽化したと思ったら数日の生命か」
 彼が近付いても蝉は逃げなかった。
「なんてはかない生命だ。おい、鳴いてもいいぞ。誰も怒りはしない」
 けれど蝉は鳴かなかった。彼はじっと蝉を見つめた。
「何て悲しそうな目だろう。おまえは、鳴かないのか?」
 蝉は答えなかった。蝉の黒い瞳に彼の顔が映っていた。
「そうか」
 しばらく黙って彼は蝉を見ていた。沈黙の時が蝉と彼との間を流れた。まるで同じふたつの生命がただ過ぎ去る時を分かち合うように。そして時は過ぎ去った。


 ボーン、ボーン。
 屋敷の柱に掛けられた巨大な時計の鐘が鳴った。
「おお!」
 再び驚いた彼は声を上げた。
「零時か。1945年8月5日午前零時」
 彼は確かめるように日付と時刻をつぶやいた。彼は蝉に視線を戻し蝉に向かって話しかけた。
「今度生まれてくる時は鳴けるといいなぁ」
 彼はなぜかその蝉が彼の言葉をちゃんと聴いているような気がした。その蝉の黒いふたつの瞳がじっと彼を見ている気がしてならなかった。
「さあ、いよいよ大事な会議が始まる。この戦争を終わらせるためのね」
 彼は蝉に話しかけた。それが蝉への最後の言葉だった。蝉はけれどやっぱり何も答えなかった。
「今度生まれてくる時は」
 彼は蝉に向かって言った言葉を繰り返しつぶやいた。
 それから彼は蝉に背中を向け歩き出した。するとそれまでじっとしていた蝉は突然壁から離れ歩く彼の背中を追った。そして彼に追いつくと音もなく彼の背中に留まった。彼はそれに気付かなかった。彼は背中の蝉に気付くことなく歩き続け会議室の前に辿り着いた。会議室のドアには貼り紙があり、赤い文字でこう記されていた。

 『最終会議』

 彼は勢い良く会議室の扉を開けた。

「皆様、ご静粛に」
 議長の男の第一声で室内のざわめきが静まり、会議が始まった。
「それでは本題に入る前に、委員長より皆様への御挨拶が御座います。それでは委員長」
 皆、委員長と呼ばれた男のいる会議室の一番後方へと視線を移し言葉を待った。
「はい」
 委員長と呼ばれた男は議長の男の紹介を受け静かに第一声を発した。委員長と呼ばれた男は椅子から立ち上がらず座ったまま語り出した。静かで穏やかな口調だった。その姿はどこにもいる平凡な老人にしか見えなかった。
「わたしたちの悲願であります理想世界建設の、重要なる一歩と位置付けられたこの戦争も、いよいよ最終局面を迎えるに至りました。これも親愛なる同志、皆様方のおかげであります」
 一同拍手。
「されどわたしどもの計画、願いはこの戦争が終わりました後も続いてゆくのであります。いやむしろ人々が平和と錯覚している時代にこそ、わたしたちの本当の戦争は実行されるのであります。それは誰にも気付かれることなく静かに長年月をかけそして地球規模で」
 一同静まり聴いている。
「まずはこの戦争の成功へと、皆様方くれぐれも注意を怠ることなく努力精進をお願いいたします」
 そして拍手。
「委員長ありがとうございます」
 議長の男の声で拍手は収まり、皆視線を前に戻した。議長の男は言葉を続けた。
「それでは、わたくしたちの遠大なる計画実現、目標達成に向けまして、これから今夜のテーマであります本戦争の最終スケジュールの討議に移らせて」
 と議長の男が言いかけた時その言葉を遮るように声がした。
「きみ」
 それは委員長と呼ばれた男の声だった。委員長と呼ばれた男の顔を見た議長の男は何かを思い出したように慌てて言った。
「失礼いたしました」

「討議に入る前に、皆様にひとつ御報告しておかねばならないことが御座います。すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが」
 議長の男は言った。
 報告?何だ?
 彼は不安を抱いた。悪い予感がした。議長の男は会議室全体を見渡した。皆言葉を待って静まった。議長の男は叫ぶように言った。
「それは、明日決行されます」
 すると。
「おうーー」
 人々の間から声が漏れた。それは喚声ともため息ともつかない。けれど彼には議長の男が言った言葉の意味がわからなかった。
 何だ、何と言ったのだ?
 それ?それとは何だ?
 彼は思わず声を上げた。
「議長、失礼ですが」
「ん、何だね?」
 議長の男は彼に答えた。彼は立ち上がり尋ねた。
「議長。それとは何ですか?」
 ざわめきが起こった。一斉に人々が彼に視線を移した。彼は緊張した。
「それとは一体?明日何が決行されるというのですか?」
 すると議長の男は言った。
「何、きみは知らなかったのかね?いや、知らされなかったということだね?」
 さらにざわめきは高まった。
「どういう意味ですか?皆さんはご存知なのですか?」
 彼は不安げに周囲を見回した。しかし冷たい視線が彼を取り囲んでいた。その時会議室の後方から声がした。
「それは」
 彼を含めすべての人間が一斉に振り返った。その声は委員長と呼ばれた男の声だった。委員長と呼ばれた男は静かに答えた。
「新型爆弾」
「え?」
 彼は呻くように言った。そして沈黙がすべての空間を覆った。

「新型爆弾?」
「そうです」
 彼の声に委員長と呼ばれた男は答えた。
「新型爆弾をどうすると?」
 彼は尋ねた。けれど委員長と呼ばれた男の答えはなかった。
「まさか」
 彼はつぶやいた。
「まさか、とは?」
 今度は逆に委員長と呼ばれた男が彼に問いかけた。彼と委員長と呼ばれた男との緊張したやりとりに周りの者たちはただ黙ってふたりを見つめているしかなかった。
 彼は恐る恐る委員長と呼ばれた男に答えた。
「新型爆弾を、明日、投下すると?」
「その通り」
 委員長と呼ばれた男は答えた。
「しかし」
 彼は委員長と呼ばれた男の顔をじっと見つめた。沈黙が流れた。幾度となく汗が彼の額から目へ目から頬へと伝いそして床へと流れ落ちた。ふと彼は蝉のことを思い出した。さっき会議室に入る前に見たあの鳴かない蝉。蝉の黒い瞳を思い出した。そこに映っていた彼自身の顔を。
 今度生まれてくる時は。
 そう心の中でつぶやくと彼は決心したように委員長と呼ばれた男へと言葉を向けた。
「何処に?」
 委員長と呼ばれた男は待っていたように答えた。いつものように冷静な口調で。
「勿論、あなたの国ですよ」

「なぜ?」
 彼は尋ねた。彼の目にはもはや委員長と呼ばれた男しか見えなかった。けれど答えはなかった。
「なぜ?」
 再び彼は尋ねた。けれどやはり委員長と呼ばれた男から答えはなかった。その代わり。
「戦争を終わらせるためですよ」
 議長の男が答えた。
「戦争を終わらせるため?」
 委員長と呼ばれた男を見つめながら彼は尋ねた。
「戦争を終わらせるためなら、他にも方法があるはずでしょう?」
 すると議長の男は答えた。
「あの国を降伏させるためですよ」
「あの国を降伏させるため?」
 彼は委員長と呼ばれた男から目を逸らし議長の男を見た。
「しかし、もはやあの国は降伏寸前。新型爆弾の投下など必要」
 そう言いかけた時けれど何者かが背後から彼を襲った。

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