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(小説)八月の少年(三十五)

(三十五)幻のテニアン駅
 とめてください。
 とめてくださ。
 とめてくだ。
 とめてく。
 とめて。
 とめ。
 と。
 少年の声が耳から離れなかった。何度も何度もわたしの耳に甦った。わたしは転がっていた車輌の床から立ち上がりシートに座った。何を動力としているのかわからなかったがひとり地上に取り残されたわたしの車輌はただ黙々と走り続けた。外はまだ真夜中で世界は暗黒のままだった。
「次はテニアン駅、終点でございます」
「くれぐれもお忘れ物のないよう、お気を付け願います」
 少年のいや車掌の最後のアナウンスを思い出した。テニアン駅、終点。お忘れ物。
 忘れ物?忘れ物とは何だ?わたしは一体何を忘れてきたというのだ?そしてそれを何処に?わたしは深いため息をついた。わたしは一体何を何処に忘れてきてしまったのだ?わたしは静かに目を閉じた。


 いくつもの星が流れた。いくつもの生命、生き変わり死に変わり。いくつもの時といくつもの生命の中をわたしは旅してきた。この銀河の中にわたしは何度も何度も生まれ変わり死に変わり、そうやって絶えずこの宇宙の中に存在していた気がする。いつもこの世界を観ていた気がする。何度も何度も生き変わり死に変わり。わたしは今何をしているのだ?今わたしは誰なのだ?今わたしは何処にいて、いや今とは何だ?そしてそもそもわたしとは何だ?何の必要があって、何のためにわたしはこうして時の流れと銀河の中を彷徨っているのだ?
 いくつもの夢が流れた。静かだった。夜明けの夢の遠い歌の調べさえ今はもう聴こえて来ない。

「おきゃくさん」
 ん?
 誰かがわたしの肩を叩いた。わたしは目を開けた。
 ここは何処だ?
 わたしは辺りを見回した。どうやら駅のようだ。どこかの駅のホーム。わたしは顔を上げ夜空を見上げた。そこには星が瞬いていた。星、満天の星だ。夏の夜空に、まるで天の川駅のような。もしかしてここは天の川駅か?それとも終点テニアン駅?
 けれどそこは、そのふたつの駅のどちらでもなかった。そこは・・・。そこは確かに見覚えのある駅のホームだった。
 ここは、まさか?
 まさか、どうしてわたしはこんな所に?
 テニアン駅は?わたしの乗った車輌は?
 夏の夜風が汗ばんだわたしの頬を撫でていった。わたしは夢が醒めてゆくのを感じた。
「大丈夫ですか?お客さん」
 背後から声がした。驚いて振り返るとそこにはひとりの駅員が立っていた。
「大丈夫ですか?」
 無言のわたしに駅員は再び問いかけた。
「ここは」
 独り言のようにようやくわたしは口を開いた。
「ここは、駅ですよ」
 駅員はやさしい声でわたしに語りかけた。
「駅?」
 その時初めてわたしは駅員の顔を見た。
「ええ駅のホームですよ。あなたは」
 けれどわたしは駅員の声を遮ってまたも独り言のようにつぶやいた。
「何処の駅?」
 駅員はやはりやさしく丁寧に答えた。
「ここは、プリンストン駅ですよ」
 やはりそうか。
 わたしは黙って夜空の星を見上げた。夜空の星は、星はなぜ、なぜ星だけはあんなに夢の続きのように美しく瞬いているのだろう?わたしはもうすっかり夢から醒めてしまったというのに。
「あなたは、このベンチで寝ていたのですよ」
「このベンチで?そうか」
 わたしは立ち上がりベンチを眺めた。
「終電はもう終わりましたよ」
 駅員が言った。
「何、終電が終わった?」
 駅員の言葉にわたしは何かを思い出したようにとっさに駅員に尋ねた。
「では今何時かね?」
 駅員に尋ねながらわたしは自分の懐中時計を取り出した。しかし待て、時計は止まっているはずだ。けれど。
 カチカチ、カチカチ。
 懐中時計は動いていた。8時15分で止まっていたはずの。時計の針の音が夜のしじまに響いた。時計の針は午前零時を差した。駅員は答えた。
「午前零時。たった今、日付が変わった所です」
「日付?」
 ふとわたしはまた何かを思い出した。思い出した気がした。

「いよいよ明日だね」
「将軍、明日ですか?」
「本当に明日、出発するのですか?」
「人類史に残る日だ」
「明日は、1945年8月6日」
 6th、そうか!
 この日付は印刷ミスなどではなかったのだ。
 すべては明日だったのだ。

 日付?印刷ミス?
 わたしは吸い寄せられるようにズボンのポケットに手を入れた。わたしの指はそしてそれに触れた。確かに、夢じゃない。ほら確かに。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 皺くちゃになったその紙切れをポケットから取り出し、わたしはわたしへとそれを広げて見せた。
 ほら、切符だ。
「今日はいつだね?」
 わたしは大声で駅員に尋ねた。
「え?」
 わたしの挙動とわたしの声に驚いた駅員はわたしを見つめた。
「だから、今日は、1945年8月6日かね?」
「そうですが」
 わたしの言葉に圧倒されながら駅員は答えた。
 何かに急き立てられる思いがして、わたしはじっとしていられなくなった。
 急がなければ。

 わたしはプリンストン駅を出てひとり歩き出した。宛もなくただ宛もなく。
「坊やーーー」
 真夜中の街にわたしは叫んだ。坊や、何処にいるのだ?わたしは、どうすればいいのだね?
 すると何処からか微かにあの少年の声が聴こえてきた。いや聴こえてきた気がした。
「とめてください。あの、ばくだんをとめて」
 少年の声は何度もわたしの耳に押し寄せた。それはどんどん大きくなりやがて大音響となって。
 早くしなければ間に合はない。しかし何処へゆけばいいのだ?そして何をすればいいのだ?教えてくれ、坊や。
 汗だくになりながら夜の街を彷徨い歩いた。けれど行く宛などなかった。わたしは疲れ果て道に倒れこんだ。
 坊や、済まないね。テニアン駅には辿り着けなかった。わたしひとりの力ではどうにもならなかった。
 坊や、坊や?何か答えておくれ。

 遠く何処からか海の音が聴こえてきた。道に座りこんだわたしの耳に。何処からだ?遠いこの星の果てからか、それともテニアン?押し寄せる波音、波のしぶき。砕け散る波がわたしの足元に押し寄せてくる気がした。
 波、潮騒、海鳥の声。
 海?ちょっと待て。
 海って、ここはプリンストンだぞ。海の音など聴こえる筈がない。幻聴か?わたしは確かめるように目を閉じて耳を澄ませた。深い静けさの中にけれど確かに海の音は聴こえていた。
 なぜだ、この音は何処から聴こえてくるのだ?わからない。けれどもしかしてこの音を辿ってゆけば、海に辿り着けるかもしれない。そんな気がした。
 海。
 そうだね、坊や。
 せめて、せめて海へゆこう。そして海に辿り着いたら、海に向かって、海のまん中で祈ろう。そうだ、せめて祈ろう。それしか今のわたしに出来ることはない。そうだね、坊や。
 わたしは立ち上がり再び歩き出した。海へと向かって。ただ海の方角へと。ただ聴こえてくる波音だけを頼りに。ただ、せめて海で祈ろう、その願いだけを胸に抱いて。

 午前零時37分
 気象観測機がテニアン島を離陸。

 午前1時45分
 新型爆弾搭載機がテニアン島を離陸。

 午前1時47分
 放射線測定機が離陸。

 午前2時
 起爆装置の取り付け開始。

 午前2時15分
 起爆装置の取り付け完了。

 ふっと波の音が途絶えた。途絶えたかと思うとけれどすぐにそれは甦った。しかし今度の波音はなぜか近くに感じられた。まるでわたしのすぐ目の前に海が広がってでもいるかのように。見上げると空にはまだ満天の星が瞬いていた。わたしは星を見上げたまま歩き続けた。ふとわたしの足に何かが。
 おや?何だ、この感触。
 何かがわたしの足に絡みついてくる。
 ひんやりとして冷たい。
 まさか、これは?
 まさか!
 わたしは気を落ち着かせゆっくりと足元を見た。そこにはきらめく銀河の最後の瞬きを映し出す夜明け前の波が揺れていた。
 わたしは。神よ。
 わたしは、海に辿り着いていた。

 午前4時45分
 爆撃機合流。

 午前5時5分
 爆撃機硫黄島上空通過、本土へ向かう。

 午前6時41分
 第1目標の空は晴れていた。
 
 わたしは波打ち際に突っ立ったまま、押し寄せる波がわたしの足を濡らしてゆくのにまかせた。もう既に夜は明け、朝焼けが海を染めていた。ふっと眠気がわたしを襲った。一晩中歩き続けたのだから無理もない。わたしは抵抗するすべもなく眠りがわたしの意識を奪うのに身をまかせた。
 坊や。そしてわたしはまた夢を見るのかね?一体わたしは幾つの夢を見ればいいのだろう?
 そしてわたしは崩れ落ちるようにそのまま海に倒れた。

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