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(小説)八月の少年(一)

(一)夜明けの夢
 1945年8月5日。
 夜明けに夢の中で歌を聴いた。それは一度も耳にしたことのない何処の国のものとも知らない遠い夢の彼方より響いてくる心地良い調べ。気が付くと歌は止み、目の前にひとりの少年が立っていた。この子が歌っていたのだろうか?少年はわたしを見つめていた。わたしはどうして良いかわからず、黙って少年を見つめ返した。沈黙が続いた。それは永い永い静けさだった。
 突然涙が少年の頬をこぼれ落ちた。それは銀河の瞬きの中からひとつの星がこぼれ落ちるかのように。驚いたわたしは少年に声をかけた。
「どうした坊や?」
 けれど返事はなかった。
「なぜ泣いているのだ?」
 少年はけれど何も答えず、相変わらずただ黙ってわたしを見ていた。仕方なくわたしも再び口を閉ざし少年を見つめ返した。どれ位時が経ったろうか。不意に少年がつぶやいた。その声は震えていた。
「いたい」
「何?」
 驚いて問い返した。
「いたい」
「何処が?」
「あした」
「明日?」
 沈黙。
「明日がどうしたというのだ?」
 けれど、沈黙。
「明日が痛いとはどういうことだね、きみ?」
 もどかしさの余りついわたしは大声で叫んだ。夢だというのに。しかも涙をこぼし怯える少年に向かって。
「泣いてばかりいちゃわからんだろう?ちゃんと説明してごらん」
 けれど少年は泣くばかりだった。またしばらくして少年はつぶやいた。
「よる」
「夜?」
「よるがあけたら」
「夜が明けたら?」
 少年の声はけれどまた途絶えた。それからしばらく少年は泣き続けた。ぼろぼろ、ぼろぼろ。空を見上げると幾千の星が銀河の中に瞬いていた。夜明け前の銀河だ。
「一体どうしたというのだ坊や?さっきからどうしてそんなに泣いているのだ?まるで地球上の海がすべて枯れ果てるほど。何がそんなに悲しいのだね?」
 わたしはしゃがみ込み少年の涙をハンカチで拭ってあげた。
「困ったねぇ。どうすればいいのだ?」
 と突然少年が叫んだ。
「マンハッタン」
「え?」
 それは何かの呪文のように。
「マンハッタンきゅうこうテニアンゆき」
「なに?何だね、それは?」
 気付いたら少年はわたしへと手を差し伸べていた。
「ん?」
 少年はじっとわたしを見ている。
「どういう意味だね、坊や?」
 けれど少年は答えなかった。
「もしかして、わたしを何処かへ連れていきたいのかね?」
 すると少年はうれしそうに頷いた。初めて見る少年の笑顔だった。その微笑みに吸い込まれるようにわたしは思わず手を伸ばした。まだ汚れを知らない少年のその白い手へと。何処からか再びあの歌の調べが流れ出し、わたしの手が少年の手に触れようとした瞬間。


 不意に目が覚めた。
 ああ夢か。
 何という悲しい夢。何て悲しい目をした少年だったろう。わたしは少年を夢の中に一人置き去りにしてきた気がしてならなかった。少年はじっとわたしを見ている、今もあの夢の中でひとり。遠い街の海の潮騒が聴こえて来そうな程静かな夜明けだった。耳にはあの歌の調べが残っていた。今にも消えてしまいそうなはかない調べ。
 もうすでに朝の陽が差していた。暑い夏の一日の始まり。額の汗を拭いながら、少年の最後の言葉を思い出しわたしはつぶやいた。

 マンハッタン急行テニアン行き。

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