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(小説)八月の少年(三十一)

(三十一)海鳴り
 不意に海の音が聴こえた。遠く微かに、けれど確かに、それは少しずつ大きくなり、やがて海鳴りとなり。
 突然闇が消え列車はかすかな明るさの中に出た。辺りは濃い霧が立ち込めていた。霧の中にぼんやりと灯りが瞬いている。何の灯りだろう?そしてここは何処だろう?海鳴りは続いていた。海鳴りは少しずつ強さを増し、やがて海鳴りに混じって何かが聴こえて来た。
 ボォーー。
 汽笛?船の汽笛だ。そうか、もしかしてここは港?ではあの灯りはハーバーライトか?
 霧の中に浮かぶハーバーライト、海鳴り、カモメたちのざわめき、波が砕け散る。わたしの耳は波の音でいっぱいになる。砕け散る波、波のしぶき、押し寄せては引いてゆく、押し寄せては引いて、波が押し寄せては、波、波?
 なにい、波だ!
 足が冷たい。波がわたしの足元まで押し寄せている。立ち上がり逃げようとした瞬間、けれど。おおーー!
 巨大な波がハーバーライトに沿って走る列車を襲った。一瞬にして列車の床は海の一部と化しわたしはずぶ濡れになった。
 そのまま列車は止まった。
「ご無事でしたか?」
 遠くから車掌が息を切らしてやって来た。
「無事なものか、この有様」
 と今度は耳をつんざくような汽笛が鳴った。それは大地を揺るがせ嵐を呼び起こすかのようだった。わたしは耳を塞いだ。
「何だね、さっきから。一体どうなっているのかね?」
 汽笛が鳴り止んだ後わたしは尋ねた。車掌は静かに答えた。
「巡洋艦ですよ」
「じゅんようかん?」
 車掌が窓の外を指差した。見ると霧の中に巨大な黒い影が横たわっていた。
「あれかね?」
 車掌は無言で頷いた。霧が薄らぎ始めた。やがて霧が晴れ巡洋艦がその全容を目の前に現した。
「何という、何という巨大な船だ!」
 しばらくわたしはじっと巡洋艦を見つめていた。海も穏やかになりしおざいだけが耳に響いた。
「これから出航するのです」
「出航?この船が?何処にゆくのだ?戦場?」
 わたしは初めて巡洋艦から目を離し周りを見回した。列車は埠頭の外れに停車していた。
「ここは駅なのかね?」
 車掌に尋ねた。
「いいえ。先程の波のため、緊急停車いたしました」
「なるほど。緊急」
 何気なくわたしは埠頭に並べられた荷物を見た。山積みの荷物。
「すごい荷物だね」
「え?」
「ほら、あそこ。全部、あの船に載せるのかね?」
 車掌はわたしが指差す方角に目を向けた。その荷物を目にした途端なぜか急に車掌は震え出した。
「どうした?」
 わたしは心配になり車掌に声をかけた。その時突然何処からか無数の男たちが現れ、埠頭の荷物を運び始めた。荷物は次々に巡洋艦へと運び込まれた。男たちは黙々と荷物を運び続けた。そこには異様な緊張感が漂っていた。この張り詰めた空気。まるで線香花火駅のホームで子どもたちの間に漂っていた、あの線香花火に火を付ける前の緊張感と同じ。あの荷物は一体何なのだ、あれは?
「あれは」
 呻く様に車掌がつぶやいた。
「大丈夫かね、きみ?どうしてそんなに震えているのだ?寒いのか?さっきの波で風邪でも」
 けれど車掌はわたしの問いには答えず思いもかけない一言をつぶやいた。
「しょうねん」
 車掌はその言葉と同時によろめきわたしの腕に倒れ込んだ。
「おい、しっかりしろ」
 弱弱しく顔を上げた車掌は健気に言葉を続けた。
「ちいさい」
「ちいさい?もういいから、黙っていたまえ」
 けれど車掌はなおもつぶやいた。
「はちがつの、しょうねん」
 そして車掌は意識を失った。
「おい、きみーー!しっかりしたまえ」
 わたしは叫んだ。一体どうしたのだ?あの荷物を見ただけで。あれは、あの荷物は何なのだ?


 ボォーーーー。
 巡洋艦の汽笛が鳴った。車掌が意識を取り戻した。
「大丈夫かね?」
「ええ」
「それなら、よかった」
 荷物のことを尋ねたかったがわたしはただ黙って艦を見ていた。
「とうとう出航のようだ。これから戦場へと出てゆくのだね」
 ところが車掌は。
「戦場ではありません」
「何?それでは何処へ?」
 わたしは尋ねた。車掌は答えた。
「テニアン」
「え?」
 一瞬その言葉を思い出せなかった。
 テニアン?けれどわたしはすぐに思い出した。
 そうだ、終着駅!
 この列車の、そしてわたしのこの旅の終わりの駅、テニアン。
 そしてそれは島の名前。あれは確か夕映え駅に到着する前、わたしがひとりの兵士として戦死した島だ。
「それでは、わたしたちもテニアンへゆくのかね?」
 興奮を抑えながらわたしは尋ねた。けれど車掌はいつものように静かに答えた。
「その前にわたしたちはもうひと駅、立ち寄らなければなりません」
「もうひと駅?そうか」
 それきりわたしたちは黙った。そしてわたしたちは静かに巡洋艦を見送った。海鳴り、海の波が艦に絡まるように押し寄せては引いた。押し寄せては砕け散り、波は(海は)、まるで巡洋艦を引き止めるかのように何度も何度も艦へと押し寄せてはけれど砕け散った。巨大なあの艦を引き止めることなど誰にもできはしない。それは叶わぬ願いだった。波のうねりを振り払いやがて巡洋艦が水平線の彼方へと消えると、波たちは力尽きたように静まり後にはただ穏やかな潮騒だけが残された。

「そろそろ、発車の時刻でございます」
 列車もまた走り出した。列車はハーバーライトの波を駆け抜け、気付いたらもう潮騒の聴こえない場所まで来ていた。
「次は夜市駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」

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