(小説)八月の少年(四十一)
(四十一)夜明け駅
突然「情景」が消え、わたしの脳裏には暗黒と静寂だけが残った。もしかしてあの蝉が死んだのか?それで「情景」が途絶えた?わたしはゆっくりと目を開いた。
「GOD」
わたしは一言つぶやいた。あたりはまだ深い霧が立ち込めていた。わたしの頬には涙の跡が残っていた。
「手紙、科学者。わたしとて、わたしに何がわかる?わたしとて、ただの被創造物」
蝉の抜け殻を握り締めていた指は汗ばんでいた。わたしは指の力を抜いた。
しかし、その時!
蝉の抜け殻がピクリと動いた。どういうことだ?あの蝉がまだ生きているというのか?わたしは再び抜け殻を強く握り締め目を閉じた。
暗黒と沈黙。まだ深い霧が立ち込めている。霧?待て、わたしは今目を閉じているのだぞ。
ん?誰かが立っている。誰だ?
彼!殺された彼だ。いや違う、確かに彼だが、彼の魂だ!今、倒れた自らの肉体、抜け殻をぼんやりと眺めている。どうするのだ、これから?
遠くから何かが聴こえて来た。何だ、何の音だ?わたしは耳を澄ました。それは。
汽笛だ!
汽笛の音が聴こえてくる。それから暗黒の中に一条の光が差した。光は段々と大きくなり汽笛の音とともに彼へと近付いて来る。
ん?いつのまにか彼の肉体は消え、彼、彼の魂だけがそこに立っていた。しかし、そこは何処だ?彼が立っている場所は?彼へと近付いて来る光が彼のいる場所を照らし出した。そこは。
駅!そこは確かに駅のプラットホームだった。彼はひとり駅のホームに立っていた。汽笛の音がホームに響き、光は彼を照らしながらホームへと入って来る。それは列車だった。
列車は速度を落とし、彼の目の前で止まった。わたしは列車の姿を見た。
おお、何と!
その列車は見覚えのある、あのマンハッタン急行ではないか!
何と言うことだ、一体何がどうなっているのだ?彼は、彼とは何者だ?
列車のドアが開く。中には誰もいない。さあ彼は恐る恐る足を一歩列車へと踏み入れた。その瞬間。
どうなった?え?何が起こったのだ?
それは一瞬の出来事だった。わたしには何が何だかわけがわからなかった。けれどそれは確かに起こったのだ。
列車に乗った瞬間、それまで大人だった彼の姿が突然縮んで小さくなったかと思うと、気付いた時、列車にはひとりの少年が立っていた。
少年。
その少年の顔。
ああ、きみは。
そうか、きみだったのか。
坊や。
少年の彼を乗せた列車は静かにドアを閉じ走り出した。そうか、これがわたしたちマンハッタン急行の旅の始まりだったのだね。
突然声が聴こえた。
「とめなければ」
ん?それは少年の彼がつぶやく声だった。
「あのばくだんとうかを、とめなければ」
その声は、まさしくあの夜明けの夢の少年の声だった。
「だれか。あのばくだんとうかをとめてくれるだれかを、さがさなければ」
何と、彼は死んだ後もまだ苦しみ続けなければならないのか?少年の姿に帰っても。何と哀れな。
「そうだ」
少年はつぶやいた。
「かがくしゃ」
え?
「あの、かがくしゃに、たのもう」
なに、科学者に頼む?その科学者とは?
少年がそうつぶやいた途端、列車は猛スピードで走り出した。
そう。その列車、マンハッタン急行は、あの駅を目指して。いくつもの銀河と闇を越え、列車はただひたすら走り続けた。
その駅のホームに着くと列車は静かに止まった。その駅の名は。
ホームの看板にはこう記されていた。
『夜明け駅』
列車のドアが開いた。少年は列車を降りた。少年がその駅のホームに一歩足を降ろした瞬間、なぜかわたしの胸に何とも言いようのないなつかしさがこみ上げてきた。
何だろう、これは?
なつかしい大地のにおい。風。そして夜明けの静けさ。何処からともなく聴こえ来る遠い海の波音。
ここは、何処だ?
いや、わたしは知っている。
そうだ、ここは、坊や?
そうだね?ここは。
確かに、8月5日。
わたしの、夜明けの夢の中だね?
少年は小さく何かをつぶやいた。まるでわたしの問いかけに答えるように。わたしはその声を聴こうと耳を澄ました。
それは、言葉ではなかった。それは、あの歌!あの夜明けの夢の中で聴こえてきた歌の調べだった。再びなつかしさがわたしの全身を包み込んだ。
なつかしい大地のにおい。風。
思わずわたしは、手から蝉の抜け殻を放した。その瞬間、「情景」は消えた。
わたしはゆっくりと目を開いた。足元には蝉の抜け殻が落ちていた。わたしは蝉の抜け殻を拾い上げようとしてしゃがみ込んだ。と、その時小さな音が。
ん?
深い霧と静寂の街に響く、その音は。
足音だ。
誰?
わたしは恐る恐る顔を上げた。足音はわたしへと近付いて来る。
誰だ?
叫ぼうとしたけれど声にならなかった。足音は、わたしの前で止まった。突然霧が晴れてゆく。わたしの目の前、そこには。
少年が立っていた。
少年は蝉の抜け殻を拾い上げた。そっとやさしく、まるで大切な宝物のように。わたしは立ち上がった。
「はい」
少年はわたしに蝉の抜け殻を差し出した。
「これ、きみのでしょ?」
きみ?わたしは不思議に思った。わたしに向かって「きみ」とは?
わたしは少年から蝉の抜け殻を受け取った。その時なぜかわたしの体中に激痛が走った。
何だ、この痛みは?蝉の抜け殻がまたわたしに何かを伝えようとして?けれど痛みはすぐに治まった。
「ありがとう。しかし、わたしのようなおじさんに向かって、きみ、とは何だね?」
わたしは少年に尋ねた。ところが何を思ったのか少年は大声で笑い出した。
「どうした?何がそんなにおかしいのだね?」
腹を立てながらわたしはまた尋ねた。けれど少年は笑い転げるばかり。笑いながら少年は答えた。
「きみ、おかしいねぇ。子どものくせに、自分のことをおじさんだなんて」
何?わたしが子ども?どういうことだ?
まさか、さっきの激痛?
わたしは恐る恐る自分の姿を見た。するとそこには何と、確かに少年の言葉通り、少年のわたしがいた。わたしは確かに少年だった。
「じゃ行こうか」
少年はわたしに手を差し伸べた。まるであの夜明けの夢の続きのように。わたしは、少年のわたしは、ためらうことなくその手を握り返した。
「うん。でも、どこへ?」
少年のわたしは恐る恐る尋ねた。
少年はゆっくりと答えた。
「尾瀬」
「Oze?」
わたしは眩暈のように目を閉じた。
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