ベンチマーク

私たちはやわらかい傷つきやすい身体を都市に横たえる。毒にすぐやられてしまうような弱い身体を晒す。私たちは本来みなこのやわらかい身体をもっているはずなのに、鋼鉄の都市の中で、身体の内部から心をも鋼鉄化させてゆく。身の内に起こる熱をおびた叫び声は弱すぎて、やわらかすぎて、鋼鉄のなかには届かない、永遠に。

中村佑子「マザリング」


2024.8.22。自宅療養130日目。7:00起床。昨夜からようやく素足で寝る。怪我してから5カ月、靴下やサポーター、保護具などを必ず装着していた。くるぶし周りの皮膚はとても薄く、骨をつなぐ鉄板やボルトが浮き出ているから心配だったのだ。ちょっとした寝返りで足をぶつけて皮膚が裂けてしまわないか、寝てる間に無意識に掻いてしまい、手術痕の縫い目に沿って破れてしまわないかという不安があったから。起きてみれば問題はなかった。またこれで日常に近づいた。

終日本を読んだり書き物をする。仕事をしてる時なら、こんな時間は贅沢の何ものでもないが、時間はたっぷりあるので、その価値は下がる。好きな本をずっと読んでられるという喜びが、ただの暇つぶしにとって変わる。人の知覚というのは本当に曖昧で、真の意味で確実なものなど何も無い。

夕方買い物に出かける。面倒だから家の前のドラッグストアでいいかと手ぶらで出るが、すーっと吹いてきた風が少し冷んやりとしてて、何とも言えない気持ち良さだった。それに引き寄せられ、20分ほど歩いたところにある大型スーパーに変更する。綺麗な女性にいざなわれて、軒先から香る匂いに釣られて、うまい話に乗っかって、、、。一瞬だけ心が無防備になったその時に滑り込んでくるものが、良し悪しはあれど、人生においてのスパイスや推進力になることもある。この風は紛れもなく、次の季節を仄めかし、意識ではなく五感に直接作用し、足をかってに踏み出させた。

買い物途中におばあちゃん2人が信号待ちしていた。関係性はわからないが、まあよく喋る。お互いに自分のことを勝手に話しているだけなのだが、会話が成立している。言葉にもはや意味などなく、動物のグルーミングみたいだった。性犯罪ではなく毛づくろいのほう。

例えばドラえもんみたいに、何もないところから何か道具を出現させること、そろそろできないかと思う。2人のおばあちゃんは杖をついていた。信号が青になっても進まずに話続けていたので、ベンチの一つも出せたらなぁと思ったのだ。いま街中にベンチはどのくらいあるのだろう。ベンチもない、気軽に止められる自転車置き場もない、ということは、人が回遊することを歓迎しないということだ。秩序、規律、防衛。それは一般的な常識からはみ出た行為や存在を排除したいという無言の圧力だ。高齢化はどんどん進み、老人はまだまだ街に増え続ける。目的地を目指すだけの外出だけでは街の賑やかさは生まれない。徘徊し、迷い、ためらい、逡巡し、方向転換し、偶然に出会ったり、やっぱり違ったなと思い直したりしながら人が動いたり止まったりすることが、街の中に曲線を生み出す。それが小さなサークルとなり、小さな商売を引き寄せ、誰かにとっての新しい小さな拠点ができてくる。小さな拠点が点在すること。それが街の豊かさではないか。そのためにまずは、一旦停止できるベンチをどんどん用意することが大切だと思う。



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