ゴミかバイブルか

自宅療養48日目。6:00起床。起きがけに「アンメット」を観る。岡山天音はいい役者さんだとつくづく思う。杉咲花、若葉竜也の普段感も自然でいい。歳をとるにつれ、記憶することと記憶したものを引き出すことが苦手になってきた。薄れていく記憶がやがて思い出されなくなったとき、その記憶は残っていると言えるのだろうか。確認する術がない。

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アメリカの先住民では、落ち込みや悲しみを部族の仲間と分かち合ってるかぎりは正常なプロセスと捉えられ、気持ちを人に話せなくなり、一人で抱えるようになると病気と捉えられるそうです。
心は人々の間を回遊してるのが自然で、個人に閉じ込められると病気になる。それが人間の本質なのでしょう。そういう意味では、個人主義が徹底される現代は心にとって不自然な状態だと言えます。

「聞く技術 聞いてもらう技術」(東畑開人)より引用。

心が回遊するという言い回しが新鮮。確かに、同じ愚痴を人を変えて捲し立てている様は、愚痴が魚のように泳いでいるイメージが湧く。

心が様々な人の間を回遊しているうちは、人を介すたびに角がとれ、丸くなっていく。もういい足りた、言うのも疲れた、考えるのに飽きた、そういう考え方もあるかも。回遊の終わりは程度の差や質の違いはあれ、多少は心が軽くなるはずだ。

個人に閉じ込められていることは、狭い水槽を行ったり来たりするだけで発露が無い。頭の中で呪文のように繰り返される言葉は、呪詛を強化しながら間違った方向に進みがち。水槽の中の景色は変わらないので、やがては狂った言葉に突然変異する。

人の話を聞く
自分の話を聞いてもらう

ほとんどの人は、聞くことの方が難しいはず。耳だけでなく、心を傾けて聞くこと。そして自分の聞く体制をきちんと把握していること。細かく軌道修正しながら、心がストレスなく回遊できる通路の一旦を担えればいいと思う。

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今日は家から一歩も出ずにいた。無目的で何も考えないまま過ごす一日は、時間が溶けていくだけだ。これを命の無駄使いと思うか、治癒のために安静にして耐えていると思うかは、その時の気持ち次第だ。今日は無駄使いだと感じて自分を責めた。

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夜にYouTubeで古川日出男の動画をあさる。おすすめの海外作家を紹介してる動画があった。マルケス、ピンチョン、カミュ。この3人を勧めていた。カミュは意外だったな。明日外出なので代表作の「ペスト」でも買ってみようか。コロナ化に売れまくったそうだ。テーマの類似性から考えれば当然。海外でも同様の動きがあったのだろうか。

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意地悪が発動する時、その人の心の中はどうなっているのだろう。ざまあ、とか思ってるのか。大人になってからの意地悪は子供の頃と違って、好意を寄せている人に対してではなく、うっすらとでも嫌いもしくは好きではないのカテゴリーに入っている人に行われる。仕事場だと立場を栄養にして遂行されるだろう。意地悪な態度をとっている時、その人からは対象者に良く思われたいという感情が消えている。嫌われる方向へ自ら走り出している。なぜこんなバカで損な事をしでかすのか。人間は愚かだ。

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特に芸術性も感じない、ありきたりな言葉の連なり。それが音楽の歌詞として役割を与えられた瞬間、一気に感動が押し寄せる。例え物語性に乏しい「あなたに会いたい」というフレーズでも、音楽の高揚感とともに素晴らしい!というしか無い状況に引き上げられる。音楽と歌詞の関係は、孫にも衣装なのか、それとも幸福な科学変化であるのか。

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日中の光にグラデーションがあるように、深夜の闇にもグラデーションがあればいいのに。夜の長さが際立たないように。

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また本が読めなくなってきた。しかし買いたい欲求は変わらず常にある。ならば何のために買おうとするのか。溢れたら目障りになって処分することがわかっているのに。読むまでは全く想像もつかないそれが、読めばいつかのタイミングで、素晴らしい感動を与えてくれるのではないかという期待。その一点の理由のみでゴミかバイブルを買うという賭けに出ているのではないか。

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今日の日はさようなら。また会う日まで。





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