立ち止まるのではなく


立ち止まるのではなく、かといって振り捨てていくのではなく、それだけでは進んでいけないと思ったことを一握りの課題として残しつつ、しかし語りすすみ、よきところで、その課題の1塊を拾いに行き、そのことによって今進んでいる方向が何を意味するのか考え、それらを繰り返すことによって、自分の考えると言う事の構造をあぶり出す、そしてそのことによって、人間と言う意識が生み出す、意識の複数社会と言うものを成り立ちの構造を暴いていこうと言う手法で、語り出していこうと思う。
端緒は、何でも良いのであるが、ここは1番語りたいと思うようなことから進めた方が弾みがつくと思う。
では、現在の日本における無教養のものも、ある程度、教養のあるものも、一斉に平和で喋り出し、慎ましさを忘れ、簡単に共振し、相手を罵ると言うことがなぜ行われているのかと言う事から語り出していこうと思う。
1つの結論から言ってしまえば、イデオロギー論と言うものが、それを考える上に置ける有効な手法の1つであるとは言えよう。その人が何を語っているのかと言う構造の中から見るより、ひとまずその人はどのような経歴、そして今何によって生存し得ているのか、彼の語り方、語る意味体系は、彼の語ることの中よりも、彼が今存在していること、彼が存在する上で恩義を受けてきたことをみた方が、彼がなぜそう語りたいのかを理解させてくれるのだ。
そもそも現代の対立的な言語状況は、ネット的言語から生じていることが多い。ネット言語の中で、活発に語る人間は、大半が、そのように過激に語ることで、ネット上で収入を得ることができるからである。
他者と共存したいとか、世界の真実を謙虚に知りたいとか言う以前に、金を設けたいのだ。儲けるには、目立ち、中毒的に引きつけなければならない語る内容などは、二の次で良い。それに責任を持つことも損をしなければ気にならない。
しかしそのようなことを許す、そのようなことに惹きつけられてしまうような精神状況の人々が多いと言う事は何かを考えねばならない。
また、そのような内容に責任を根本的に持たないようなものの、発言を拡散利用していくことが、結局、経済的に展開する素材となってしまうようなネット以外の社会のあり方と言うものも意識しておかねばならない。
ネット的な言説は驚くほど無知の断言に満ち溢れ、そりに感心している者の多さに呆れるほどである。にが真実なのかの検証能力や謙虚さも持たないものの掃き溜めである。
教養を持たないで昼か世間に断言してゆくことができるようになったのが現代である。
恥というものが成立しにくくなった。
俺は気に食わない。俺はそう思わない。だから大いに発言する。それだけで終わってしまう言説空間なのだ。
では、それだけ以外に何が必要なのか、それを思い出す知性がなくなってしまっているかのようである。
それは、理性とは何か、科学性とは何かををを一旦でも深く考えつっけた経験がないということの露呈であり、もう少し考え続ければ理解される歴史性とは何かということへの思考を経験したこともないという人間たちが言論しているような状況なのだ。
いや、そのような教養など、社会形成や民主主義には、必要ないという無手勝流で、それこそ、共存の歴史を一気に原始に遡る仕草なのだ。

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