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侵略が違法である?ことについて

Wikipediaを引くまでのなく、侵略(しんりゃく、(英: aggression)とは、直接武力をもって他国の領域に侵入(侵攻)したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する 。

これ自体で、即、アウトという前提でロシアが非難される。
どんなに状況に不満があっても、侵略でない形で、つまり、話し合いで解決せねばならない というのが現在の世界秩序である。
ただこの前提を2点から確認せねばならない。
一つ目は、侵略はいけないとどこに書かれているのか という点。
二つ目は、では、例えば、アメリカは、近年において侵略したことはないのかという点である。

二つ目のほうが答えはシンプルであろう。
例えば、イラクへの「侵攻」は侵略ではなかったのか?
形式から言えば、戦争を仕掛けたけれど、結果として領土を奪わなかったので侵略ではないといえるのか?
言えません。主権侵害も侵略と定義されているのだから。

西側世界の価値からすれば、市民弾圧をしている非民主政権ならば、例外的に、体制転覆をしてもよいということなのか?
あるいは、こちらに対し何かを企んでいるようなら先制して体制転覆をする権利がありというのか?
体制転覆だけが目的なら まずはの領土侵犯は してもよいのか?
つまり、アメリカのイラク「攻撃」は許されるのかという問題です。

では、侵略が許されないと決めたのは誰か、決めるのは誰か、侵略か否かの判定は誰がするのか?ということですが、
これに対する一応の答えは 不戦条約あたりから始まり、現代国際法が基準となる。その実態を握るのは、国連である。ということでしょう。

手を抜いてすみませんが ふたたびWIKI から


侵略の定義に関する決議、国連総会決議3314
はその第1条で侵略を「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう」と定義している。

とすれば イラク攻撃は 素直に考えれば、侵略であり、国際法上違法となるでしょう。
今、ロシアの肩を持つ気はさらさらありませんが、こうした違法を許容した国連、国際世界が、国際法の秩序の信用を崩していることは事実でしょう。

ならば、いっそのこと、侵略も国家のもつ権利であるという風にもっていったらどうなるでしょう。クラウゼビッツあたりの時代の思考のようですが。
予測のつかない相互猜疑で世界情勢は不安定化するのは明白でしょう。

数々の戦争と悲劇の歴史に学んで現代は、やっと戦争自体の犯罪化、特に、侵略の違法性にたどり着いたのです。このような思考が、歴史的思考であり、教養を持つ人々の一般思考です。
現代において、侵略は許されないという 約束は誰にとっても一応有用と思われます。
しかし、だれにとっても とは限らないかもしれません。

ひとつは、強権的国家の一指導者が、己の独善的思考のみでの判断をするとき。(今回のプーチンがいい例でしょう)侵略は許されないという思考は邪魔になるでしょう。
ふたつめは、侵略以外に自国存続の道はないと多くの国民が思ってしまったとき(それが正しいか否かは別です、思ってしまった、あるいは、指導層がそう思わせてしまった)(戦前の日本などがそうでしょう)窮鼠猫を噛むというやつです。

さて、あまりも当たり前のことを確認してきました。
国際法が違法を懲罰するには、国家より上位の暴力がなければなりません。
イメージしやすいのは、国連軍です。
長い道のりかもしれませんが、侵略を違法とするという約束にのっとり世界の国のすべてが国連軍に参加し、「単一の同盟に入る」ことは出来得る気もします。
ただ、国連が、公正な違法性ジャッジをし続けなければ、特に非西側の国々は猜疑心を抱きこの同盟に入る気は起らないでしょう。

また、もう一つ厄介なのは、核の問題です。
全世界的国連軍に対しても、核を持てば、抗することができる。他国侵略ができるかもしれないという軍事力バランスの問題があることです。まさしく今のウクライナに対するロシアの最終態度予告です。共滅してもよいと考える核を持つ国は、国連軍の軍事力に恐れおののいてその傘下に入るということは考えないかもしれません。

最後に、当たり前の結論になります。
相手を脅かすような事態を取り外してゆく作業を日々きちんと行う事、その中で、侵略を犯罪とする約束の下、全ての国を国連軍に吸収してゆくこと。国際法、戦争犯罪の概念をすべての国の市民に行き渡らせてゆくこと。不安定な情念で平和裏に暮らす人々に影響を与えることは許されないことであるという倫理を共有させてゆくこと。

カントが言うように民主国同士なら戦争は起きにくい、しかし、非民主国を性急に脅かさない多面的方法を考え抜いてゆくこと。

その上で、なお細かく見ると次の2点が出てきます。

現在「確定」している国境を確定したくない国はどうすればよいのか?
(日本における北方領土)
国内になお自立独立希望を掲げる一群の人々がいる場合どうするのか?

結論から言えば、前者に対しても、武力行使は、絶対に禁じられるということを明白化すべきでしょう。共同統治的な、経済面などでWIN WINになる新しい制度化に乗せてゆく工夫をすること。そうして国家という概念の変容の端緒を作ってゆくこと。それしかないであろうし、そこに夢をかけるべきでしょう。

後者に対してが一番難しい問題かもしれません。
民族自決を認めた歴史意識が残る中でどう価値づけるのかという苦しい問題構成があるからです。ただ、この時、民族とは何かという事も深く考えてみねばならない。
実は、民族とはそうした独立運動の中でこそ形成されるものであるという逆説に気付かねばなりません。ウクライナの戦いも、今、まさに、新しいウクライナという民族のアイデンテティを形成しつつある運動を伴っているのでです。

では、どうしたらよいか。
基本的方向は、自立権を自治州的分権においてのみ積極的に認めてゆくということになるのではないか。そのときに、資源等は、主張する領土内に在るという事だけで独立希望者(自治州)に帰属させてはならない。独立したいという精神をこそのみ、そしてそれを保証する自主決定領域の政治権のみ尊重するのである。外交権も結局は国連軍帰属となってゆくだろうと考えれば、実質的意味を持たなくなる。ひとつひとつの例ごとに細かな対応となろうが、大きなイメージとしては、ここでも、自治州とは、既存の国家枠でない、独立の関連形を形成してゆくということかもしれない。それならば、そうした自治州の存立を国連軍が当事国に対し、認めさせてゆくようにするという事となろうか。
今はやりの言葉でいえば、アソシエーションをどう作るかということになるかと思うのである。国連の機能向上とともに、国家主権の変容自体を発生させてゆく試みの方向が全体の指針となろう。


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