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資本主義の残念な構造 市場の不完全性がもたらすもの

需要供給の市場が資本主義には実は2つある。
一つは、一人ひとりの消費者と生産の場における市場バランス そして
もうひとつは、生産の場相互における市場。

従来 市場の中では需給バランスが合理的な価格設定をもたらすというイメージの説明がなされてきたが、
生産の場、もう少し簡単に言えば、企業間における需給バランスは合理的な価格形成をなしていると言えるのだろうか。
生産部材等に関してはそうかもしれない。

しかし、そうでないものが結構あり、それらは正しく現代において出現したもの、あえて言えば、社会正義的にいかがかと言う領域由来のものが多いように感じるのだ。

一言で言えば、BULLSHITジョブと言うやつは合理的な市場における価格を持っているのであろうか。つまり、国民の格差と言うのを生んでいるのはこの辺にあるのではないかと言いたいのである。

例えば、多少BULLSHIT くさい、1番わかりやすい例は、広告費と言うやつである。
消費者個人にとって商品情報そのものは必要であるが、つまり商品情報の需要はあるが、広告と言うものは、決してシンプルな商品情報ではない。欲望を喚起するための企業側の積極的なアクションである、と言うよりも、広告宣伝会社発議の積極的なアクションである。
企業側は、広告効果と言うそもそもがどこまで実態を表しているのか分かりにくい数値を見させながら、ほとんど思い込みで広告費をかけてゆく。そしてそれが商品自体の価格に乗ってくるわけだ。

これほどマッチングのための技術が向上しているデジタル社会において、消費者サイドの需要だけから言えば、広告業界などもういらないのかもしれない。その分、商品を安くしてくれれば良いのだ。

はっきりと言いたいのは、広告業界の人間の給料の高さは、どのような需給の合理性から導かれているのかということへの疑問 である。
社外取締役という人間たちの高給はどこで裏打ちされているのかということである。介護施設で働く人たちの給料と比べて。
市場原理の公平性というものは部分論理であり、現実は、市場が貫徹されていないのだといっていいのかもしれない。市場の公平性というイデオロギーに騙されてはならないということである。

多くの人間を食べさせていかねばならない、そのためにも資本主義はその空間を拡大していかねばならないというのなら、そもそも需要というものを生存のための最低限の必要物にのみ寄り添うべきものだと禁欲的に考えてはならないのかもしれない。需要が、不必要なものも含めて欲望そのものとなった現代、欲望は合理的である必要もなく幻想であっても良いのかもしれない。とすれば、広告と言う広大な領域を断罪する必要もないかもしれない。広告と言う広大な領域がなくなった時、食べていけなくなる人が出現するのをどうするという問題も出てこよう。ただ、あえて、今流行りの新自由主義的な発想にのっとれば、この広告と言う広大な領域で働いている人々をもっと合理的な生産の場、むしろ現代において真に必要な具体物やサービスを生み出す場に動いてもらったほうが良いということには意味があるのかもしれない。
現代が抱える実際的な幻想ではない、問題を解決する場に人を集め、そこで人を食わせていく、そう考えたとき広告と言う領域はデジタル化の進化とともに消滅していくのかもしれない。

補論的に言えば、広告は1つの表現である以上、広告消費がエンターテイメントそのものとなっていることは事実であろう。広告なき世界を人々は寂しく感じるかもしれない。しかし、その時、既存のエンターテイメント領域がさらに拡大するかもしれないし、今よりも、正当な賃金をそこが得られるようになるかもしれない。

なにより、市場の「正義」から言えば、広告、コンサル、大半の社外取締役と言うBULLSHIT的なものは、需要と供給のバランスの中でその費用が決められているものではないと言う「不正」が根本にあると言うことを人々は自覚しておく必要があるだろう。企業においてこのジャンルに対する支払いは、合理性や厳しい効果の吟味でなく、必要っぽいから、流行りでやらないと経営者としてカッコ悪いから、政治が決めて降ろしてきたことだからという市場原理とは異なる範疇でのゆるい決済となるのだ。今流行りのデジタル化領域というのも怪しい。本当に必要なことと不要なことの判別、コストの掛け方という真剣さが実は企業内にはないことが多いのだ。個人が家計を考えるレベルでの真剣さと細かさで、このようなジャンルの費用を企業は精査してなどいないと言うことである。
高給を取ると言うことの倫理的根拠が、需給バランスによる正当な能力評価に基づかないジャンルがあり、それが、不正な格差拡大をもたらしていることに人々は自覚的であらねばならないと思う。
知能労働だから労働単価が高いというほど知能を使っていない輩が多いのである。
それは整備された環境が知能的な発揮を支え、囲い込まれた情報の独占によって知能労働っぽく働けているにすぎない。例えば、知能労働者と気取るなら、その力で、稲一本をすぐ育ててみろ。できはしないのである。

民主主義的退廃もそこら辺に源泉があるような気がする。
権力の近く、あるいは、需給の場から漏れた場におけるお仲間空間では、そこにたまたまいられた者が大きな利益を得ることができる。そのようにお仲間たちは結束する。なんの権利もないのに。それを社会が許してしまっている。

わかりやすい例は、官有物払い下げ的な領域で成金が出現するという事実だ。昔も今も。日本の財閥の起源、田中角栄の新潟、金持ちが多く出てきた中国、ちょっと前のロシア。いまのミャンマーにおける軍部周辺がやっていること。
お仲間空間が企業人の間で、政治家との関係性で発達している現代日本。監視人、委員会設置などもっともらしいものの乱発。しかしそこに参画し金銭を得ることのできる人々は、どのような資格を持ちどのような公正さで選ばれたのか。お仲間身内である。政治がそれを促進させているのだ。
ひと昔、ロシアでも話題になったノーメンクラツーラというのもそうだ。
公平正義の逸脱は、民主主義を崩壊させていくのだ。

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