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分断の民主主義

民主主義は構造的に分断の危険をはらんでいる。

そして、今、世界各地で民主主義が分断の危機に見舞われている

なぜ今か? 
一言で言うならば、他人など構っていられないと切羽詰まった人間とそれでもなお他者との関係の中で共存の方法を見つけようという人間の考え方の対立である。
そこまで個々の人々は切迫詰まっていない日本でも、資本主義の最終段階に近い状況に突入する中で緩やかな分断が生まれている。この資本主義下では生産性競争が最大の問題となり、生産性に焦る者、あるいは生きる形を経済的活動の中でしか見出せない者は、政治が他の様々な価値の調整をすることは、目的への最短を妨げる障害にしか思えなくなっており、民主主義の手続きを破壊して行く、そしてそのことに対する自覚すら持てない。

民主主義を守るという面倒な過程に耐えられない者となんとか耐えようという者の間に分断が生じるのだ。

そもそも「現代民主主義」自体が、何故分断の可能性を孕んでいるのかについて押さえておきたい。
民主主義とは、まず、様々な価値ベクトルを持った複数の個人の意思を取りまとめていく手法であると言えよう

その際に必要な手法は以下の点にある。
①各個人における価値の表出
②表出された価値の照らし合わせ
③照らし合わせにおける広汎で深い洞察
④諸価値をまず融合し再結晶化する段階
⑤再結晶日の結果に対し納得できないものに対する説明そして必要ならば補償
⑥結果の検証
⑦決定者の変更
①へと再循環
⑧この循環過程の中で得られる知識を「歴史意識」つまり人類全体の共通の前提として循環の中で尊重していく態度

一方、民主主義とは、歴史上においては、王や貴族ではなく「全体」の利益、「全体」の価値を政治的に目指すということであり、その遂行は、一部の利益を代表するものが成すのではなく「全体」が遂行すべしと言うものであった。

しかしこのこと自体大きな矛盾をはらむ事は明らかである。全体とは何か?

そこで「全体の利益」を「公共善」として練り上げていく作法過程が必要となる、、また、「全体」が政治の遂行者となっていく手法が必要となってくる。
現代においては、前者が、公共空間を作りその中で価値調整を行っていくことであり、後者が例えば選挙なのである。

選挙はえてして制度として改良が意識されたりすることが多いが、公共空間をどう作るかと言うことについてはイメージを持たない人々が多い。
公共空間とは、ひとつには政治制度の側が市民を包摂していく公平な仕組みを作っていくということ、そして、民間に置いても直接利益とは異なる中間団体が発達していくということが必要になってくる。

きれい事のために政治の力が使われ、自分たちの生活は一向に向上しないと言う思いがアメリカのラストベルトのトランプ支持者の心情であろう。政策の長期的整合性を冷静に考えるより現在の政治に対する不信感から来る民主主義への破壊をよしとする人々と民主主義や歴史意識を信じることのできる余裕を持った人々、あるいは、民主主義でなければ己の存在すらも不安定となると感じる人々の分断が生まれている。

一方日本においては、余裕のなさはそこまでは進んではいない。ただ、生産性だけに目がくらみ、価値の調整を軽視する人間が増えたことは事実であろう。そのような人々には、今のシステムの中で今まで良い思いをしてきた人々が多い。そうした人々の塊の中に、まだ余裕はあるのに生産性に無自覚に巻き込まれていく人々が加わる。彼らは全て、また、歴史意識に縛られることを厭い、即物的な思考を主とする人々である。

次回は、資本主義の最終段階に近い状況に入ったことがなぜ生産性に目をくらませることになるのか、生産性とは何か、競争は何に対してなされるのかと言うような点から考えていきたい。

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