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どのような生き方が楽しいのか?

青年は何を求め悩むのか。あるいはそのような青年が歳を経て老人となった時その心境はどのようなものになっているのか。

問題の立て方が難しいのである。
青年が悩むのは、社会に対する批判性と有り得べき社会像とその中における自己の活躍の形への関心であろう。
もし自己の活躍の形などの要因を差っぴいて良いならば、もう少し話は単純となる。つまり、理想社会とは何かへの考察となり、もっと単純化するとその社会像の中には、一人ひとりのルサンチマン等は含まなくてよいのである。
しかし、現実レベルでは、若者はその社会改造の中の枢要なポジションを自分が占めないと閉塞を感じるのだ。しかし極限で言えばそれはその人個人のエゴであるに過ぎないと言ってしまう事もできる。
ただそのことも救ってやるとすれば、考えるべき理想的な社会像は以下のような社会でなければならないだろう。
つまり、できれば社会の変革の運動の中に、あるいは最低でも社会の運営の中で、だれしもが充実した気持ちを持って参加できることが保障される社会でなければならないということである。
経済や福祉やその他諸々の政策におけることは、ニ番目に考えることであろう。
言い換えれば、人間一人ひとりの 尊厳 と言うものがどう具体的に準備されるのかと言うことを考えねばならない。そして、そのような仕組みを持った社会の中に、すぐに生き始めねばならない。そうでなければ、結局は一人ひとりの心は満たされず、結局は、思想の闘争を繰り返し、年をとってゆくと言う不幸を招くばかりになってしまうでろう。
尊厳を守る社会 とは、まずは、不愉快な命令に対しては離脱することが具体的に保障されていると言うことである。広い意味での様々な生産の単位があり、そこへの出入りが流動性高く保障されている社会である。そのような流動的な動きに対し最低の生存の条件の付与が保障されていなければならない。
分配、財の所得に番人が得心できねばならないが、それは、道徳基準の練り直しと共有化を経ねばならず時間がかかる。されば、最低でも、離脱と再参加の自由と安定的な生活基盤が無条件で保障されていなければならないというわけである。
幸福の権利は以上で全て出尽くしているのかもしれない。後はそのような社会はどのような経済的な体制の中で補償されるか、デジタルによるマッチング技術がどかまで生産体制への流動的人間配置を可能にできるのか、新しい生産単位はいかなるルールで作られうるのか、あるいは、現代の日本の生産量からの生存資源の配分は、どうなるのかという計算実務の問題を解くということになる。

さて、現在においては、歳をとった男の心情はどんなものであろうか。社会に批判的な夢を抱いたものは現代において満たされる事は無買ったであろう。せいぜいその表現が世間で評価されたと言うことを持ってして満足して死んでいけるのかもしれない。
本当の意味で根本的な改革、つまりそれは革命と言って良いであろうが、そのような次元のことはなされなかったし、たぶん、今後もなされないであろう。
何故か。そんなことを望んでいる人間が現代においてはほとんどいないからである。
革命が起きるのは、絶対的な弾圧か絶対的な不平等差別がある時に限られる。その時既存の秩序を破壊して新しいものを作るとき、どうするかと言う点に可能性があるに過ぎない。
あるいは、以上のような革命案を(それは暴力ではない)公約とする政党を作れば、いつしか、政権を合法的に握ることができるのだろうか?
その可能性は限りなくゼロと見立てた場合、
憂うる青年が歳をとった時、どう満たされるのか。
己を慰めてくれるものを探すのであろう。
それは一般的に回帰と言う形をとる。
つまり社会的関心からの離脱、広く言えば美の世界、母体なるものへの回帰である。
ルサンチマンを抱える者は、まだ社会への執着が残り、反動と言う形となるだろう。

さて、以上を見越したうえで、現代における小利口な生き方とは、以下のようなものであるのかもしれない。すでにある職場、会社をなるべく楽しく渡り歩く、あるいは、会社の中でいやしくも権力を求めていくと言う生き方である。つまり、ゲームをすると言う感覚である。
確かに面白おかしくやっている連中は、資本主義ゲームを楽しんでいる生き方なのだ。
自分のものでない資本をゲームとして使える、これほど自己として楽しい人生はないのかもしれない。ゲームの点数は、収入であり、他社の人生を支配できる力への満足も味わえるというわけだ。

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