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個人の変容と社会の変容は同軸なんじゃないか?という仮説にぞわぞわしています〜立春に際して思うこと〜

先日、深淵を覗いた(垣間見た)ある出来事があって…その瞬間…脳内シナプスの構造変化が起きたかのような、一気に思考が飛躍できて認知できなかったものも見えるようになった(気がする)のでそれをつらつらと書きたいと思っています。

※まとまりないです。仮説が多く含まれるので法螺話だと思ってご覧ください。


【問い】
どうすれば人の可能性を解放できるのか?(個人の変容プロセスの入口)


【解への道筋】
※コンストラクタル法則まで降りてみる
※コンストラクタル法則=川の流れ・葉っぱのカタチ・生物の内蔵に至るまで自然というモザイク全体に及ぶデザインと進化の物理法則

【そこから1階層上がってみる】
自由はデザインにとって善
生命は流れであり動きでありデザインである

【もう1階層上がってみる】
デザインとともに進化が生まれている

【さらに1階層上がってみる】
社会において階層性が支配を揮う理由

どうやらこのあたりに何かがあるように思う。世界を動かす根幹であるコンストラクタル法則から見て。
ミクロの世界からマクロへ飛躍し、マクロから俯瞰してミクロに降りるという観察を繰り返した結果、どうやらこのあたりが鍵だな?と思うのです。

階層性は不平等の象徴とされ評判が悪いが良いデザインにはどうしても欠かせない。階層性は特定の部分に恩恵・不利益を与えるものではなく流動系全体のためになるから自然に現れるものである。


それは道路に例えると分かりやすい。高速道路から小路に至るまで道幅や交通量の違い(階層性)があるのは、流れを行き渡らせる為だ。

ベンチュリー効果にあるように、狭い広いは流動系を加速させたりするのだから非常に興味深い。

世界は少数の大きなものと多数の小さなもので構成されているのだ。


【現代社会における階層性の暴走】
川に例えると、大きな本流である1本の大河と、それを加速させるべく注ぎ込む支流(小さな川)がある。これは相互作用しており、支流は本流を加速させる役割を持っている。コンストラクタル法則の通りなのだ。

しかし、この文脈に資本主義や分業化・工業化社会を当てはめてしまった人がいた…そしてそれが社会通念上の一般常識になってしまった。
(例示)
・大きい川=資本家・社長・搾取する・指示命令する側・上・強い専門家
・小さい川=労働者・搾取される・唯々諾々と従う・下・弱い専門家

これに反発するように現代社会で解放運動が起こっているように観察できる。自律分散型であったりティール組織であったりという萌芽だ。
しかしこれは誤訳であると思う。


【自律分散型やティールという言葉の誤用】
この言葉を発している人(自律分散型に移行すべきだ〜とか、自律分散型が良いよ等)は、大きい川という役割を与えられている人が多いだろう。大きい川という役割に過度にドライブされていないだろうか?

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
という状況。

支流が機械のように働いている(動かされている)、資本主義社会においてそれは確かに事実として存在する。

だが、その人を支流から本流へ移そうとしていないだろうか?特に、無意識に行っていないだろうか?コミュニティ内において、それはお作法という言葉で表現できる。
コミュニティ内に漂う現象、空気のようなものとして立ち現れる。

これをどう扱うか?が
どうすれば人の可能性を解放できるのか?(個人の変容プロセスの入口)
という問いに直結している


【弱い専門性という言葉】
弱い専門性という言葉を大切にしたいと最近感じている。ここにおいて、「弱い」というメタファーはあまり好きではないのだが、今のパラダイムに合わせてわかりやすさ重視で使用している事をご容赦いただきたい。

強い専門性は資格などに代表される「弁護士」「医者」「税理士」などである。それに対して弱い専門性とは「主婦」「絵が得意」「趣味は○○」みたいなものです。
この弱い専門性をどう活かすか?という切り口で見たとき、ティールの誤用から解き放たれると考えている。


弱い専門性を持つ人は、意味があって弱い専門性を持っている訳で
意味があって支流にいるのと同じ文脈なのである。

弱い専門性を持つ人に、意思を持って行動しろ。というのは役割が違うのだ。弱い専門性を持つ人は本流を加速させるような働きを、支流で行う事が自由であるという事なのだ。


【組織の変容・コミュニティの変容】
強い専門性・弱い専門性という例えと類義語で、高い熱量・微小な熱量というものがある。

高い熱量を持つ人だけが組織やコミュニティを変容に導けるのか?という考察をした時に、答えはNOであると言える。

何故なら、本流は本流の役割があり支流は支流の役割があるからだ。
同軸で両者が変容をしはじめる。という現象が起こるだろうと予測している。

階層性が現れるのは、流動系全体のあらゆる構成要素のために良いからだ。大きな構成要素は小さな構成要素を必要とするし、その逆も然り。個が多数を支え、多数が個を支える。
大きな川は河川流域を流れる多くの小川を支え、小川は河川流域に水を提供している。


高い熱量の人は、その圧倒的量で組織やコミュニティをつき動かすだろう。同時に、組織やコミュニティを富営養化(overdose)にしていないだろうか?というか、めっちゃ現実としてそれはある。


それに対し、微小な熱量を保持している人は何をしていくのだろうか?
そこで両者はどのような支えあいが起こるのだろうか?


微小な熱量を保持している人は、無意識を意識する事から始め、組織や社会にフィードバックを起こすのだと思う。

Madness is something rare in individuals — but in groups, parties, peoples, ages it is the rule.

組織から、コミュニティから離れ、個人の意識にフォーカスするのだ。
自分自身の無意識を意識する。

ここで言う無意識とは、その組織やコミュニティにある「お作法」である。
こんな事言ったらダメかも。みたいな「お作法」があるだろう。「お作法」を蹴っ飛ばしてみて自分の心に広がる波紋にフォーカスするのだ。

組織やコミュニティを横断してみるのも良いだろう。違う川に入ってみると無意識を意識するようになる。

これが個人の変容プロセスの入り口であると確信する。
そしてこれは同軸なのだ。

個人の変容と社会の変容は同軸で相互作用なのである。両社の中間点に組織やコミュニティの変容が観察されるのだ。


【結論めいた仮説】
①.川の本流、組織やコミュニティのリーダー、熱量高い人、強い専門性と呼ばれる人 → その組織やコミュニティに対して富栄養化しているという自覚を持つ事から始めませんか?富栄養化をもとに戻す手法として自律分散型やティールが存在している。

②.川の支流、組織やコミュニティのフォロワー、微小な熱量の人、弱い専門性を持つ人 → その組織やコミュニティに蔓延する「お作法」から抜けて考えてみませんか?「お作法」は富栄養化によってもたらされたものなので、非常に居心地良いのです。死に至る病にも似ています。信じもしないが判断も下せない…。「お作法」から抜け出す手法として、組織やコミュニティの横断というものがある。

③.①と②は同軸である(コンストラクタル法則の相互作用より)
そして、この個人の変容の集合体が社会の変容である。よって、個人の変容と社会の変容もまた同軸である。


という思考の展開でした。

社会課題を創造的に解決する。が見えた事に武者震いしています。
個人の変容から社会課題の解決が始まっていく。なんとも予想外の切り口でしたが、私の師匠もそんな事言ってたな〜と妙に腑に落ちる感も。
立春とともに新しい年がはじまりますね。

持続可能な社会はできます。そしてそれが個人から始まるという事に大きな慶びを感じています。

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