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クレーンゲームとドレッシング

世界がクレーンゲームみたい。

ゲームセンターから感じられるワクワク感は私たち人間の特権で、無機質なボックスの中に閉じ込められたアイテムの気持ちに寄り添うと身の毛がよだつ。

無作為に捕えられたフィギュア達は、それぞれの主人に引き取られ、それぞれの世界を生きることになる。その場のルールに従わなきゃならないし、その場の常識を捉えなければならない。異国で暮らす自分と重なる。まさにそんな感じ。

ロンドンと東京の人々をランダムに半分ずつ拝借して、新しいTONYON(?)という都市を創るとしたらイデオロギーはどのようになるのだろう。ロンドンは、ダイバーシティであるとか、様々な国籍の人々が入り混じる様をサラダボウルにたとえて表現されるけれど、ドレッシングの姿をしたイデオロギーは全然サラダに絡みついてくれないし、水と油の関係みたいに交わることがない。だから、ロンドンはサラダボウルなんかでは全然なくてサラダビュッフェの方が的を得ているし、それもそれぞれの種類の野菜ごとに整列されているイメージがピンとくるかな。

全ての物事の距離が遠く感じる。腕をめいいっぱい使って手繰り寄せようと思っても、第2言語の英語という縄は、その距離をなかなか縮めてくれない。見た目や背景が全く違う人々は、そもそも見ている世界が違うのでは、と思ってしまう。

大学院では、どうすれば共生的な社会を築けるのかについて、一丁前の講堂で一丁前の講義を行うけれど、ブラックアメリカンの話をアジア人は興味のなさそうな態度で聴いているし、その逆も又然り。

どうしたら誰もが納得する特製ドレッシングを創ることができるのだろう。SNSの投稿でハッシュタグをつけて、私はアクションを起こしています! とかそんなんじゃなくて。素材(本人達の経験の集合体)から出来上がるドレッシング。そんなものは、存在するのかな。





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