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私はすこぶる運がよい_博論日記(2023/12/30)

2024年3月31日の学位論文提出(目標)まで、あと90日(この目標については二転三転中)。

明日は大晦日の日曜日。だいたいこのnoteは日曜日に更新してきたので、そのリズムで明日書こうかとも思ったのだが、大晦日はのんびりしたい気持ちになった。
今日のトップ画の書は、12月のはじめに、麩屋町六角近くの和文具屋さん(嵩山堂はし本)の前を通りがかったら、ショーウィンドウに飾ってあった。

嵩山堂はし本 にて

今年1年を振り返ると、暗雲たちこめ稲妻が光るなか、単発飛行艇で不安定に飛行し、不時着し、また浮上し、不時着し、を繰り返していた感じだった。5月にnoteを開始した当初は、2024年2月に口頭試問を受けることが目標だったが、結局そのスケジュールにのせることはできなかった。現在進行形で苦戦している……。

ただ、雲外には蒼天が広がっていることを、折に触れて感じることのできた1年でもあった。もうダメかもと何度も思ったが、いろんな人・もの・ことからいろんな形で助けを得て、不時着しても墜落することはなく、なんとか今も飛行している。この年末、穏やかな気持ちでnoteを書いているのだから、2023年「はなまる」であろう。

去年の大晦日、書き初めならぬ書き締め(かきじめ?)をしたことを思い出し、今年も書き締めをしたため、並べてみた。

鷲田清一 折々のことば 53  2015.5.24 「今年はようお照らしがありまして」

はっきり言って、先ほど書いたように晴れの日ばかりではなかったから、野菜がよく太るような「今年はようお照らしがありまして」とはいかなかった。でも、あらためてここに「でん」と存在している私をまじまじと見るに、生きていくに必要な日差しを充分に浴びたなあと思う。それも最低限ではなく、たっぷり浴びたなあと思う。光の総量は少なかったのかもしれないが、ものすごく質のよい光を折りに触れて浴びたイメージである。
そのことに、心から感謝したい。太陽の恵みを得られるかどうかは、運によるところが多い。ギリギリライフなのに、しっかり光を浴びている。数年前から薄々気がついていたが、私はすこぶる運がよい。助けてくれたいろんな人・もの・こと、そして運に、心から感謝しよう。

今週、相方と遊んでいて、いろいろおもしろい発見があった。
京都文化博物館の「異界へのまなざし あやかしと魔よけの世界」展では、百鬼夜行絵巻のなかに自分そっくりの妖怪を見つけてしまった。
これである。

白布
国際日本文化研究センター『怪異・妖怪データベース』より

白布というらしい。
見たのはこの絵そのものではなくて別バージョンだったのだが、白い布をかぶっていて怪獣のような足がにょきにょき突き出しているのは同じだ。
「こりゃ調子が悪くて布団かぶって寝込んでる時の自分そっくりだな」と思って見入ってしまった。この怪獣のような手で、布団の中にお菓子を引っ張り込んでガツガツ食べているのだ。
妖怪化している、つまり人間じゃなくなっているんだから仕方ないなあ、とか、どことなくユーモラスなのは救いがある、とか考えながら、いかんいかん、この妖怪になるのはまったくもって本意ではない! と気を引き締めた。来年は白布とは縁を切りたい。

また、先週歩いた梅田・堂山を相方と散歩していたらドブネズミを見ることができた。もともとこの散歩も「おもしろい街やったからもう一度行ってみよう」が50%、「イタチのいた神社を相方に見せたい」が50%でスタートしたので、商店街の店先を走り抜けていくドブネズミを見つけて大興奮してしまった。やはりイタチはこのドブネズミを狙っているのだ(今回はイタチを見ることはできなかった)。
たくさんのふしぎ 原啓義 文・写真『街のネズミ』を思い出して、目の前を走り去ったネズミの生活圏の広さを想像し「そうだな、ここは君の街でもあるなー」と嘆息した。

たくさんのふしぎ 2020年7月号 原啓義 文・写真『街のネズミ』

歓楽街の人びとと街のネズミやイタチは、今、どんな関係性にあるのだろう。おそらく絶え間ない攻防があるのだと思う。アーケード街の寄り合いで議題になっているのかもしれない。まず、私はその実情を知らない。今回イタチとネズミを見て、そのあたりのことを知りたいという思いが強くなった。

ここからは見聞きしたことから離れた独り言になる。また、私もそれなりに「清潔」を好む人間なので、自分に対しても問うことがらでもある。

人間以外の生き物の暮らすことのできない街は果たして人間にとってよいものなのだろうか。人間の食べ物のある場所には当然、やはりそれを食べ物とする生き物が寄ってくるのは自然なことだ。ネズミやイタチ、ノラネコ、カラス、ハト、トンビもそうだ。
トンビといえば、おにぎりを食べながら鴨川沿いを歩いていて、空から右手に持ったおにぎり目がけてアタックされた時には心臓が止まるかと思った。降下スピードと爪のあることを考えると、子どもが同じ目にあったら大変危険だと思う。
なのだが、やはり、彼らが街に生活することを排除すべきだ! とは思えない。なんとかかんとか押し引きしながらやっていくしかないのではないかと感じる。
排除を極端に進めると、都会になればなるほど、日常的な生き物との関わりが「(生き物は)動物園・水族館で見るもの」、「ペットとして飼育することを許された生き物だけを身近で愛でればよし」、そして「生き物は管理された保護区内にこそいるべき」という偏狭なものになっていきかねないように思う。
その日常に、世界的なミッションとして「生物多様性の保全」とか「絶滅が危惧される種の保存」という言説が持ち込まれても、それらは虚に響くだけではないか。生き物の排除された都会で生活しながら、文字通り生き物と隣り合わせで生活する人びとのことを想像する力を養っていけるのだろうか。

「人間と他の生き物の共存」と一口に言っても、街のネズミやイタチ、私が研究テーマにしているようなその動物のために保護区が作られるような希少種、今年問題が深刻だったクマなど、いろいろな場合がある。博論ではちゃんとそのあたりのところを考えながら執筆したい。

話が変わるが、これまた相方とシュールレアリスム展に行って一番気に入った絵を紹介する。

浜田浜雄 作の「ユパス」がよかった。著作権の点から粗い画像しか載せられなかったが、幻想的な荒涼とした世界を、子どもたちがどこか楽しそうに歩いている。そのそばには女性の顔をした岩もある。魔女が出てくるようなお人形ごっこをしていて遊んでいたら、不思議なところに迷い込んでしまった、というような絵だなと思った。

浜田浜雄「ユパス」(1939年)
東京国立近代美術館

帰宅して「ところで"ユパス"ってなんだろう」と調べてみると、この絵は私が想像していたよりもっと不穏な絵だったと知った。

「ユパス」とはジャワ島に産する樹木で、毒をもち、この木の上を飛ぶ鳥は即死して落ちると言い伝えられた。画面右よりの岩の上に、このユパスが芽を出している。つまりここでは害悪をもたらすものの誕生が象徴的に描かれているといってよい。泉や子どもたちの存在は平穏な世界を、そしてこのユパスや、ひび割れた大地は、迫り来る危機を表しているようにみえる。シュルレアリスムの画家ダリの影響を強く思わせる作品だが、描かれた当時の社会状況に対する画家の危機感を見落としてはならない。

文化遺産データベースより

「ユパス」とは毒を持った樹木であったか。
私の「物語世界と現実世界の行き来」という解釈にしても、帰れなくなる可能性を孕んだ不穏なものでもあるから、当たらずとも遠からじか、と思いつつ、もう一度見たくなっている。

最後に。
2024年の目標:「博士号取得!!!!!」

<To Do>
・投稿論文1:修正(1月31日〆切 )
・投稿論文2:修正(1月31日〆切)
・システマティック・レビュー:二次チェック中
・博論本文:
 3月31日?(予備審査委員会立ち上げ願い)
  5月予備審査?
  7月口頭試問?

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