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エッセイのようなもの

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noteを始めた当初に書いていたことや過去の手帳からの抜粋も含めた、エッセイのようなものの詰め合わせです。
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記事一覧

2012/06/08_過去日記

(注意)過去の日記をそのまま書き写した記録ですので、引用文の仮名遣いをはじめとした細部が間違っている可能性があります。引用箇所に関心を持たれた方はぜひ原典に当たってみてください。 * グレゴリー・ベイトソンは、学習Ⅱ(*1)から学習Ⅲ(*2)のレベルに到達した感覚をこの詩に託した。 今西錦司の提唱した自然学にも通ずるだろうか。 *1 学習Ⅱ:自分の性格、価値観、流儀、原則など幼少に端を発する変わりにくい強固なもの。 *2 学習Ⅲ:自分の中の暗黙の前提があらわになっ

研究の雑記 vol.1

「生命の時間」を感じたかった。 わたしはヒトで、あなたは〇〇。どうしても違う。異なることの尊厳。 と同時に、わたしたちはたちは同じ「生命の時間」を生きている。 わたしはそれを感じたくて、ここまでやってきた。 エコツーリズムというパッケージ以前のところ。わたしたちヒトと〇〇とで異なっているのだけど、関わりの「あわい」がある。異なることに敬意を表しながら、関わりの「あわい」にわたしは立ちたかった。 その「あわい」のフレームには、必ず、そこで生きる人々が入っている。 修士課

研究の雑記 vol.3

■2010/02/13 ・旭山動物園HPトップページ 「人を知らんと欲すれば、まず獣を知れ。  もしもこの世に動物がいなければ、私たちは自分をしる手がかりさえ  つかめなかっただろう」  by Gonges Louis Leclenc de Buffon ■2010/04/03 ・赤嶺淳ブログ(2010/03/14) 「幅ひろい解釈が可能な「生物多様性」は、自然保護をうったえる際には、まったく便利なことばではあります。が、その一方で、野生生物を利用してきた人びとの生活をおび

あおみどり vol.2

2010年4月、「おはなし会」の記録(当事者研究) 2月、いい子ちゃん型思い込み症候群と名付けたが、かっこつけ型思い込み症候群だという気がしてきた。 怖くなるとあおみどりに包まれてフリーズしてしまう。過去を振り返れない。 一旦「到着しました」というようなメールもできない。どこまでやって、どこまでやらなかったのかということさえ把握していない。ひとまとめで怖いことになっている。 (2010/04/22)

研究の雑記 vol.2

生きてゆくということの意味がわからないからこそ、世代を越えて連綿と続いてきた人の暮らしに目を向けたい。 生きてゆくということの意味がわからないからこそ、他の生物の生のあり方に目を向けたい。 「生きてゆくということの意味」は、必ずしも言語化されなくともよい。 ただ、目を向けずには捕捉できないなにがしかであることはわかる。 頭の中で理屈をこねくりまわして見出すことのできる性質のものではない。 身の回りに存在する生きているもの(生命体なのか有機物なのか)に注目してみるのもよい

飢えている"ひつじ"のわたし

大学院修士課程課題研究ゼミの原稿審査会にて(2011年11月30日) 。 * 飢えている"ひつじ"のわたし1.結論  今年度は修士論文を提出することができません。提出するには書かなければなりません。書くためには生活しなければなりません。生活とは、螺旋のようにひとつづきのものだと思います。今のわたしの生活はきれぎれで、膨大なエネルギーをつかって息たえだえに飛び移っている状態です。10/6の修論進捗状況発表会以後、「書く」ために与えられた時間を「生活する」基盤をつくるために

あおみどり

2010年2月、「おはなし会」の記録(当事者研究) 自分の困りごとに名前をつけてみる(対象化し、「内なる精神」という見方でなく「自分の中の異文化」として見る)。対象化した「彼」が話し、言葉の通ずるものだとすれば、対話(コミュニケーション)が可能であり、相手を知るフィールドワークができる。それはすなわち、人類学的手法・手順・見方が可能だということだ。 わたしを悩ますものの名は「あおみどり」だ。 あおみどり過去にあったできごとが詰まっている箱(こわいものBOX)を覆うもの。

泣くのは嫌だ、笑っちゃおう_過食だぬきの巻

過食に苛まれて久しい。冷静になると「ほんとなぁにやってんだ、わたし」と、情けなさに涙が出てくる。でも、じめじめとしていて状況が変わるわけでもなし。noteに書くなら笑えるようにアレンジできないものかしら。試みにやってみよう。 ということで、ここに1匹のタヌキを召喚することにする。 ****************************************** このタヌキ、名をティティという。ティティは栄養状態の良いふくふくとしたタヌキである。立派なタヌキを目指して

「わたしのこと」という今日あったことの話

朝5時起床。スーパーの品出しバイトに出発するのは5時半、ギリギリだ。わたしの脳裏には、昨日は持って出そびれたからせめてイヤホンを忘れないようにしよう、なんて些末なことが慌ただしく浮かんでは消え、ドタバタの準備の末、家を飛び出した。わたしは調子の浮き沈みが激しく、今日は典型的なダメな日。調子が良い時は朝4時に起きて、コーヒーをハンドドリップし、納豆卵かけご飯を食べ、新聞を読み、おもむろに出かける。なんという差だろう。この差がわたしの人生を頻繁に混乱させる。 さて、気分を落ち着

座右の詩 茨木のり子 「自分の感受性くらい」、そして「汲むーY・Yにー」

今でもよく覚えている。中学3年生になる前の正月、年初の決意として、わたしは国語便覧で見つけた茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」を、ルーズリーフに書き写した。 当時のわたしは、中学生という狭い世界の中ではあるけれど、それなりに”良い子”と評される自分を努力して作り上げていて、それをアイデンティティとしていた。そして思春期特有の生真面目さで「真の”良い子(良い人間)”とはなんだろう」、「わたしは真に優しく良い子(良い人間)でありたい」なんてことを考えていた。今思うと世界が狭す

おとなになること、変わること 〜ナルニアに行けなくなったスーザンを思って

わたしは児童文学や絵本が好きだ。トップ画はスウェーデンの作家・アストリッド・リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』の表紙だが、これはわたしの大好きな『やかまし村シリーズ』の1冊目だ。7歳の女の子、リーサの視点で、3軒からなる小さなやかまし村の日常が生き生きと描かれている。スウェーデンの暮らしの様子(しかも1947年刊行なので時代的にも隔たりがある)は日本のわたしの生活とはまったく異なっていたが、子どもたちの心の動きはとてもよく理解できて、すんなりとなじんだ。リーサの7歳の