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森鴎外著『百物語』読書感想文

「或る傍観者について」

軽い打撲で小さな痣ができた。痣は水彩のように色が混じり合い、その上に赤や青の点々が有る。外側はぼんやり緑がかった黄味を帯びている。なんだろうと思えば、熟しすぎた果実が傷んでいく様に似ている。

(引用はじめ)

なぜ死期の近い病人の体を蝨が離れるように、あの女は離れないだろう。それに今の飾磨屋の性質はどうだ。傍観者ではないか。傍観者は女の好んで択ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜だのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そんなら一体どうしたと云うのだろう。僕の頭には、又病人と看護婦と云う印象が浮んで来た。

(引用終わり)


若く美しい芸者太郎は、傍観者の傍(かたわら)の傍観者である。飾磨屋も恐らくそれを知っている。知っていて側に置くのである。生活やその喜びとは違う、ただ似た性質が二つ並んでいる。

太郎は飾磨屋の目を通して世間を傍観するというより、盛りを過ぎいずれ蝨も去っていく飾磨屋を傍観している。ある意味で二人の間には共犯めいたものがありながらも、それを秘密にした愉悦はない。献身とか愛よりも、太郎は、熟した後少しずつ朽ちていく果実の姿を眺めているのだろう。朽ちていく様と反対に、若い果実が熟していく様を見ることは、いずれそれを食うという生活に結びつく。それでは傍観者ではいられない。眺める対象と生活の喜びとの共存は不可能である。生活の喜びは生活の中の住人が得るものだ。傍観者は果実を食わずに見る。観賞用の切り花の盛りが過ぎても花瓶に差し続ける様に、繁殖もせず枯れていく様を味わう。そこに奥行きを感じるのだろう。

何故、まだ若い彼女が傍観者になったのか。芸に身を置いたことも一つだが、それだけが彼女を傍観者にさせた訳では無いと思う。東京で一番美しい、芸者のように見えない芸者、どこか掴み所のない混じり合わなさはある種の欠落を呼び起こし、傍観者の傍にいることで、眺められる芸者から、彼を眺める傍観者になったのではないだろうか。

百物語で化物の話を聞きに来る男達がいるように、盛りを過ぎた男を見つめる女が居る。その女を傍に置き、今や傍観者となった飾磨屋、それを傍観する生まれながらの傍観者。作者の目線を追ううちに読み手の私は知らぬ間にこの百物語の傍観者となるが、傍観者は少し人を馬鹿にしてはいやしないかと、更に外から眺められ、芝居の幕は下りていく。

(終わり)

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