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春の夜と、異形の者たち

春がくる。

乾いた冬の空気は、少しずつ湿気を帯びていく。
一雨ごとに春に近づくのが分かる。
雨は、土の匂いを、部屋にいる私まで運んでくれる。
今日は春の匂いがする、そう思うが、何も言わない。

忙しいと口に出す人は仕事ができないと思われるらしい。
2月の私は無言であった。
人生という限られた時間の中での仕事と余暇のバランスは難しい。
すぐに余暇に偏ってしまい仕事の時間が足りなくなる。
うっかり口をひらけば忙しいと言ってしまいそうだ。
黙っているに限る、そう思っていたけど、段々に黙っている理由も忘れてしまった。

思うだけで何も言わない時間が、過ぎていく。

長く無言でいると、何も感じなくなる。
事が起きても、それについて詳しく言葉にする時間が、惜しいので、一人頭の中で反芻しているうちにスルリスルリと時間は流れていき、これまで起きたほとんどの出来事は瑣末なことだと気づく。
かつての私の喜怒哀楽とは、なんと虚しいものだったのだろう。

はたから見ると、そんな風に黙りこくった私の様は、知能が低く見えるらしい。

今や私の頭の中はこんなにも明瞭なのだが、それを伝えることができずに残念だ。
そう思いながら引き続き黙っているうちに、皆呆れてどこかに行ってしまった。

一人ポツリと部屋に取り残されている。
私の中は、すっかり静まり返り、代わりに耳が良くなった。

部屋から聞こえる外の物音が、前より聞こえやすくなり、細かいところまで判別がつく。

外を走る車のエンジン音などは当然聞き分けることができる。
三件隣の山本さんが2台ある車のうちの一台のミニクーパーのエンジン音。
裏の認知症気味のお婆さんの家の前に軽自動車が止まる音。(民生委員のおじさんは声が大きいので車の音でなくても分かる)
宅急便のバンの音はよく分かる。
裏道に行くときには一瞬切り返す必要があるのだが、その人はアクセルの踏み方がやや強く癖がある。

風も、庭木が塀にあたる音でどちらから吹いているのか大体分かる。

今夜は風が強い。

そんな日の夜風は、コンコンと扉を叩くような音を鳴らす。
誰かが来たのかとふと思うけど、こんな夜中に来るはずもない。
深夜一時すぎ、私は一人机に向かって仕事をしながら思い浮かべる。

玄関前に佇む異形の者。
扉を叩いて私が出てくるのを待っている。

無防備に玄関の扉を開ければ、奴らはずっとそこに張り付いていたかのようにぴたりと立って居るはずだ。
扉を開けた私と異形の者が対峙してその間は僅か数十センチ。
異形の者と私、私と異形の者、相手からすれば異形なのは私なのだろう。
今の私は、奴らと対峙してもきっと声を上げない。
じっと相手を見て黙りこめば、奴も呆れて、知らない何処かに行ってしまうのではないか。

現実の私は、扉を開けない。
ああ、あれは風の音だということにして、机に向かって仕事している。本当に奴がいるかどうかは扉を開けてみないとわからない。

二月の中旬に突然冷え込む晩があった。

夜も深まろうという頃、カリカリカリ、と奴は音を立てた。
風の音ではない。
聞き慣れぬ音にハッと身を縮める。
全身が研ぎ澄まされて、あちらも私の気配を感じているのがわかる。
息をひそめ緊張している。
我々は対になった。
身を縮める私と、息を潜める者。

カリカリともう一度音がする。

私はわざと音を立ててペンを置く。
筆皿の上で、それはキンと音を立てる。
相手はもう何も言わない。

戸締りをするだけだ、自分にそう言い聞かせて、玄関に向かい、扉を開ければ、扉の前に張り付いた異形の姿などなく、かわりにガサガサと音を立てて小さな影が飛んでいった。
暗闇の中により一層濃い影が一瞬見えたのだった。

小さな影には見覚えがある。見知らぬ異形の者ではない。
いつもの野良猫一味のどれかである。
そう思うと急に寂しい気持ちになる。

湿り気を帯びていた昼間の空気はすっかり乾ききっている。
冷たい風が、冬中着込んだ褞袍から出ている首元を撫でた瞬間、私自身が野良になり、身一つとなれば、一層寒さが増すのだった。

物置に段ボールを取りに行く。
カッターナイフ、ビニール紐、ガムテープ、捨てる予定の古い毛布。潰していない箱のままのものを選び、蓋をガムテープで閉じる。側面に穴を開けて古い毛布を入れビニール紐で括り止め、中に煮干しを入れた。
奴がせっかく頭を突っ込んでも中が空のままでは悪い気がする。
野良への餌は誰のためにも良くないし煮干しは塩分過多なのだがあいにくそれしか家にはない。


戸締りをして仕事をしていた部屋に戻れば、明かりがついている。

夜なのに明るい。
私は首を傾けて、自分の座っていた椅子を見る。
私という主人を失ったその椅子が、部屋の電気に照らされて妙に空々しく、うらぶれた感じがした。
自分は暗闇の中で明かりをつけて一体何をしているのだろう。

すっかり気が削がれてしまう。仕事の時間は足りないけれど、全て明日のことにすれば良い。何も考えず、眠って仕舞えば良いのだ。
もう風の音はしない。


朝目覚め、身繕いをして、しばらくしてから食事を取る。

ポストを覗くため、玄関の扉を開ければ、見慣れぬ穴の空いた段ボールが乱暴に紐で巻かれ中には毛布が固定してある。

段ボールと古い毛布とビニール紐、それらが組み合わさったその物体は、妙に色がくすんでいる。
こういう物体が、玄関先にあると家全体が荒んで見えると瞬間的に思うが、見なかったことにして素通りしてポストを覗く。
郵便物の宛名を見ながら玄関に戻る。
当然、そのくすんだ物体はまだそこにある。

ああ、片付けなければいつまでもこのままだ、そう思い、身を屈めるのも面倒におもいながら段ボールを持ち上げ、ふと思い出してひっくり返すが何も落ちない。中に入れた煮干しは無い。

私は一人想像する。

野良が顔を突っ込んで、そこに入り暖を取り、落ちている煮干しを食う。
それとも私の知らない異形の者がかがみ込んで箱を覗く。こわごわと敷き詰めた古い毛布に触れ、そこにある煮干しを見つければ、物珍しげにつまんで眺める。
つまんだ指を高く上げて見上げる。
頭の上から照らされた玄関の灯りを頼りに、それをしげしげと見つめている。

私は黙り込んでいる。
奴らを思いながら、そのくすんだ物体を、段ボールと毛布とビニール紐という別々の物に戻している。
段ボールは畳んでビニール紐で縛った。
古い毛布はゴミ収集用のビニール袋に入れて袋の口を結んだ。

明るい時間になったら、夜のことなど忘れてしまえ。
言い聞かせるように思う。
私の身体が昨晩に引っ張られて、前に進めなくなってしまうからだ。

片付け終えてから、玄関先を綺麗に掃いた。
キッパリとして、全て元通りだ。

仕事部屋には朝の光が差し込んでいる。
まるで知らない人の部屋みたいだと思う。
私のいないその空間は一晩で冷えてよそよそしくなっている。部屋の真ん中と角、天井と床、全ての空気が斑模様になっている。

ストーブをつける。
炎はボッボッボと音を立てながら少しずつ安定していく。
今日は外の物音がない。
静寂は平らだ。きっともう何も起きないだろう。
ミニも軽自動車もバンも、山からくる風の音も、何も聞こえない。

皆、どこかへ行ってしまった。
ストーブの炎で部屋が暖めるまで扉は開けないことにしている。
だから私は確かめる事ができない。
外のことは何も知らない。

少しずつ空気をいれて炎が青くなるのをながめながら、部屋が整うのを待っている。
冷えて散らばった空気は少しずつ落ち着いて、部屋全体の空気が緩み始める、温度は次第に均一になっていく。

体温が部屋の空気に馴染み始めた頃、私はいつもの椅子に座り仕事をしている。

いつ始まったのかもわからないまま、私はそこにいる。


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