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線を引く

年季が入れば医療費がかさむ。

病院に行くにつれ、医学的(生物学的)に私に性別がついていることは、治療の話に道筋が出来て便利だと思う。暮らしの中で、性別の方に私がついている時は厄介が多いがそれも便利のうちなのかもしれない。

示す前に程よく分類されないと(分類されていないという分類を含めて)周りは飲み込みにくく、正体らしきものがハッキリするまでは、遠くまで行き渡らないようである。そうではない何かがあるはずだと思い暮らしているが、考えこんでしまうと感覚的に掴みかけたものは遠ざかっていく。面倒になって布団の中に潜り込むと、ああ足が冷えていると気づく。

深夜、車を走らせていると、どこまで行っても家が建ち並び、妙な気持ちになる。沢山の「私」がチームになってそれぞれの家を構えている。家の壁には小さな窓灯が張り付いて、車の窓ガラスの中を次々と通り過ぎていく。私もそのうちに車を止めて、自分の用意した自分の家に入っては、自分のものだと思っている寝床に入り込み、当然のように眠る。なぜその家?なぜその寝床?なぜそのチーム?可笑しいような寂しいような気持ちになる。

毎晩夢を見る。夢の中では、自分の寝床で見知らぬ人が眠っている。すみませんそこ私の寝床なんです、というと、その人は立ち去るが、知らぬうちにまた寝床に入り込んでいる。ああ他人の匂いがすると思うとその人がいる。目が覚めると私は一人である。あの他人は私なのかと思う。他人と感じたそれは私で一人の寝床の中でも私は存在しない誰かを布団から追い出している。

私を研ぎ澄ましてしていくほどに私というピースは欠けていきそのうちに消滅してしまう気がするが、無闇に私を拡大すれば気付かぬうちに輪郭が曖昧になり行く末が不安になる。

ゆらりと影がうごき離れ離れになる。

心細いような怖いような気持ちになる。

そうではない何かはあるはずだと思う。肉体を動かせばいい。寝床から這い出て身支度をし朝食を食べれば、夢のことなど忘れている。今日は暖かいねなどと、言いながら、新聞を読んで、何も起きていないふりをしている。

私の思う何かはどこにもないが今無いから有るのだと、泣きたくなるほど漠然とした、ひどく曖昧な心持ちに身を任せて、用意した部屋に篭れば、離れた影と私はピタリと重なり、今だけは、許されているかの様に仕事をしている。







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