見出し画像

坂口安吾著「戦争と一人の女」 感想文

「戦争と一人の女と自転車」

カマキリの猥画を女が自転車で盗むところが面白かった。

スカートで自転車に乗っている姿は、カマキリから見ればいやらしい意味で肉体を誇示しているようにも見えるのだろうが(女もある意味ではそうしていると思う)それだけでもなく、単純に、スカート&自転車というやつは風がスカートの布の中に集まって通り抜けていくのでとても心地よい。試したことはないけど多分何も着ていないときの風よりも爽快感があると思う。例えばスカートでなくても布を多めに使ってその中に風が抜けることでシルエットが作られるような某デザイナーズブランドもそんな着心地なので、その感覚は下半身に限ったことでもないのかもしれないが、戦時下でありながら今やモンペではなくスカートというのが戦争の時期や女の性質を表していて冒頭に描かれているのがとても効果的だと思った。このように野暮な感じで長々と書いてしまったが、実際にスカートで自転車に乗らなくてもそれを端的に示せるのが流石作家だなぁと思った。スカート履いたことがあるのかもしれないけど。

女にとっては平和時よりも戦時下の中のみにある心の軽やかさが描かれているように思ったし、そこでのみ存在する煌めきがあったのだとおもった。小説に言わせれば陳腐なのだろうけど、私が思う「煌めき」とは「荒地に取り残されたラジオ、そこから雑音に混じって微かに聞こえるサッチモの音楽」(2022年1/18twitter)である。野村と女の肉体的な交わりや、家の火を消す場面よりも、戦時下で野村と二人で自転車の練習をする場面(多分一作目の方に書かれていた)が印象的だった。

いざとなったらカマキリの家ごと食ってやろうと思っている女は強かで怖いのに、陰鬱な寒々しさよりもどこか愚かで可愛げがあるように描かれていたのが良かった。またカマキリに対してのデブについてはデブ独特のものよりもカマキリの一部みたいな感じで描写が少なくただデブという情報のみが際立っていたのが気になった。いわゆるカマキリ的な存在は特殊な一人ではなくて、グラデーションこそあれ沢山いるという意味なのかなと思った。(※もしデブ独特の正体を見抜いた方がいらっしゃったらご教授頂けますと嬉しいです)

そういえば、若い頃は時々カマキリ的なものに出会ったような気もする。総じてカマキリの話は長いので早く話が終わらないかなぁと思っていたけど、彼らの話を待ったりせずにさっさと彼らのエロ本を自転車で盗めたら良かった。今頃気づく私ではとても無理だけど。


戦争と一人の女(同タイトルで二作有り)

青空文庫↓

戦争と一人の女

戦争と一人の女

朗読↓ 


戦争と一人の女、信州読書会さんの読書会の模様








この記事が参加している募集

読書感想文

文章を書くことに役立てます。