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悦にいる

帰宅したら、庭の門が壊れていた。開き切ったまま閉じない。

仕方がないので身体中の空気を抜くと、案外簡単にペラペラに薄くなった。

ペラペラの身体を壁に沿わせて横向きになると、門と壁のわずかな隙間を通り抜けることができた。嬉しくなって薄い足をパタパタと動かしてペランペランと歩きながら我が家に侵入すれば遠くで知らない犬が吠えている。そう、あれは私宛の鳴き声ではない。全世界が自分宛と錯覚するとろくなことがない。誰も私のことなど気にしていない。
中に入ってしまえば、開き切った壊れた門はまるで己を守る要塞の一部であった。

ネギを小口切り、みょうがも少々、生姜をすりおろし中鉢にたっぷりと用意してから、鰹のサクをきっていく。切った切り身を大皿に並べ、刺身が見えなくなるまで薬味を上に乗せる。
鰹のタタキは魚なんだか薬味なんだかわからなくなりながら食べるのが美味しい。
無事大人になれてよかったと思う瞬間である。

子供時代は退屈であった。巷にある子供向けとされるものは大概馬鹿にされているようで腹立たしかった。お子さまランチというのはその頂点で、メニューを見る間も無く大人の独断であれが運ばれてくると、おまえはまだまだ未熟者だと公共の場で突きつけられているようで恥ずかしかった。たぶん自分のことを子供だと思っていなかったのだと思う。自意識過剰で、そのくせ内向的なので抗議することもできず、黙々とたべる。与え甲斐のない非常に嫌な子供であった。(例の旗は格好悪いので最初に外していた)

鰹はあっという間に皿から消えた。最後は本当に薬味だけ食べていた。一人きりで全部食べ終えた。ああ、おいしかった、ごちそうさま。という声がシンとした空間に響いて滑稽だった。妙に篭った変な声だなと思った。体はすっかり膨らんでいた。鰹のおかげだ。ペラペラよりも縁起が良くなった気がする。

食べたら必ず器をすぐ洗ってしまう。洗うのは適当である。片付いていればなんでもよいし、本当は片付いていなくてもよい。大事なのは、前の晩自分がした様に次の朝もなっているということである。裏返した水呑みは、夜中、食器棚に勝手に戻ることはない。皿も立てられたまま水を切られ続けている。朝になったら同じ佇まいで微動だにせずそこにある。何も変わらない。今、ここに私と物だけ。閉ざされた空間で悦にいっている。

寝て起きたら膨らんだ体は程よく戻っていた。自然の摂理であろう。今日は休みだ。庭先を眺めれば門も壊れたままである。車輪がついているのに動き回る自由を失いすっかり固まっている。昨日のままである。私はなんとなくしめしめという気持ちでそれを見ている。いずれ門を修理するか買い換えるかするのだろう、スムーズな動きをする新しい門は、私の身体と生活に当たり前に馴染み、私は門のことなど一度も考えなくなるのだろう。

身体を薄くしたり膨らませたりすることもなくただ家から出ては家に戻り、それの繰り返しの毎日が続いていく。門を閉じれば門は閉じ、開けば開く。

想像するとそこに新しい門を開け閉めする自分が見えてくるようで妙な気持ちになる。

あんなところで門を開け閉めして、あいつは何をしているのだろうと、いもしない未来の私を遠目に見ていると空恐ろしいような気もする。いつかピタリと私がそこに重なるのだろうと思うとなんのために?という問いかけが頭の中をめぐる。

朝食を作ろう、卵をいつもより多めにとき大きなオムレツを。私は私を忘れて一人でキッチンに立つ。卵と私だけ。そう思い、割った卵には小さな殻が入った。遠くの方で知らない犬の鳴く声が聞こえた。





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