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私と書くこと

書くことが苦手である。

頭の中と言葉がちぐはぐで、スッキリせずに、気持ちが悪い。言葉を使う時点で、別物だけど似ているものを無理にとってつけたような気がするからだ。

それでも、現実には自分の仕事を言葉にしたり示さなければならないことがある。言葉で説明したくないから言葉以外で表す仕事をしたわけで、と、大家でもないのに不遜にも思っていた。

ある日、書くのも、言い訳するのさえも、面倒になり、初めてそれについて、きちんと考えてみることにした。

なぜ嫌なのか、なぜ書きたくないのか。

単純に、私が私を分かっていないからではないか。

あまりにも抽象的で青い結論に達し、嫌な予感がしたので、深く考える前に訓練してみる必要があると思った。

私は個性という言葉が好きではない。

個は意識で表さずともにじみでる。
むしろ表したくなくても表れてしまうものでもある。個性と言うほど高尚なものではなく単なる未熟の証拠ではないだろうかとさえ思っていた。

学校を出て何年経ったかも覚えていない歳である。私以外の同級生は皆すっかり、大人になっているように見える。

今更、自分を知ろうとするなんて、私は恐らく未熟に違いないだろう。

そう察して、訓練のため、noteで写生文を書くことにした。

写生文にしたのは、誰かに宛てて書きたいことがなかったからである。

書けば、こぼれる。

こぼれる自分を目的に書き、後から眺め、拾っていけば、私の正体がわかるだろう。なるべく正確に丁寧に、最小限で。最小限はTwitterが示してくれているので、140字としよう。何を捉えるかで、何を削るかで、自分が何者かが、読み返せば分かるはずであろうと。

昨年の春から夏、まずは連日で 140字を何十本か書いた。間を空けると構えるし、コツを掴むのが遅くなりそうだったからである。日常に溶け込ませて書く行為を無意識にしようと思った。

その後、期間を開けて少しだけ文章らしきものを書き始めた。それは写生文ではないが、出来るだけ本当にあった事をきっかけに、「本当に思った」ことだけを、写しとるようにスケッチするように書いた。

匿名なのは、未熟な私が本名だと嘘をつく気がしたからである。

特定の、一番身近な人たちに、心の内を知られることを気にして、取り繕ったり格好つけたりするに決まっているからだ。

ほとんどの事は続ければ慣れる。上手くなくても自分と書くことの関係性がつかめてくるし、書けない時は書けない。特に書きたくなくても忙しくても眠くても溢れればスルスルと進む。

訓練の成果有り、文章に対するアレルギーは少し無くなり、ほどよく日常に溶け込んでいった。
ひとつひとつ言葉で説明することに対しても苦痛ではなくなった。もっときちんと説明できれば、コミュニケーションは上手くいくのだろうなと、当たり前のことを考えたりもした。

そして、先日、そろそろどうだろうか、と思い、
初めて自分の文章を一気に読み直してみた。

陰気だなぁと思った。

以前、別の文でも書いたが私は暗いのだ。陰気で非常に抽象的で感覚だけがやたらと過敏である。
それは以前から、薄々感じていた私であり、現実そのものであった。

つまり、私に必要なのは、私が何者なのか知ることではなく、私自体をそのまま受け入れることであった。

でも本当は未だ諦めきれていないのを知っている。匿名という逃げ道を残している、卑怯だなと思うけど、本名で書く気はない。眠れなくなりそうだし眠れないと仕事に支障が出てお金が稼げなくなりそうだからである。歳を取ると言い訳も増える。

今しばらく、卑怯に、諦め悪く書いて、晒して行こう。

そのうちに、気づいていないのは私だけという嫌になるほどの自分が溢れ続けるだろう。身近な知人はそれを気の毒に思い、「青乃」という匿名を出さないようにしている、という赤っ恥になるまで書けばいいと思う。

いつだって、追い詰められての待ったなしの瞬間でしか、勝負は始まらない。勝負が始まらなければ本分は発揮できないのだということを、本当は知っている。



2021年 9月30日 青乃


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