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療養日和

白粥ばかり食べていると顔立ちがぼんやりする。

鏡を見なくても分かる。
薄い粥の中の沈んだ米粒のように、私の顔も曖昧になっているはずだ。
そう思いながら、日向を背中に当てて横になっている。

入院生活は快適だった。
痛いことは多かったが、私は自分の身体が良くなることだけを目指せばよかったし、誰の目も気にせずに、身なりも構わず、まるで子供に戻ったように決められた時間に眠り、もしも少しでも食べて歩くことが出来たら、それは何より喜ばしいことでそれ以上他に望むことは何も無い。
ただ日が昇って暮れていく。
昨日も明日も何も無い。
痛みで身体は思うように動かぬ反面、心は驚くほどに穏やかで安定して、自由で何の制限もなくどこまでも潜っていける。

夜、病院の廊下を歩くと静かな気持ちになる。

何処もかしこもクタクタに皺のよった綿のパジャマに柔らかいカーディガンを羽織り、痛みを庇いながら 長い廊下をゆるゆると歩いている。
遠くの方には私の様な別人がいる。
ゆっくりゆっくり足を擦るようにゆっくり進む。僅かな振動が体に負担なのだ。手すりをの傍らで転ばぬように歩いている。その向こうにぼんやりと何もない壁を眺めている人がいる。車椅子にのった年老いた別人の私である。

ここは壁も天井も真っ白で、見慣れた天井の木目も柱もない。でも私はこの白い壁を何時間でも眺め続けることが出来る。
いつまでも眺めていられることに不思議に思いながら、それが当たり前のような、どこか解放された気持ちになる。
喜んだり笑ったり泣いたり怒ったり寂しくなったり、そんな感情は瑣末なものだ。ただ、痛みを庇いながらヨロヨロと歩き立ち止まってはぼんやりとする今だけが、本当のことなのだ。


廊下の突き当たりには一枚の絵があった。

黒い背景に一匹うずくまった山羊が描かれている。
構図もデッサンもちぐはぐで、画家の書いた物ではない。背景の黒には渦状の地紋のようなものが密度を持って描かれており、渦模様の均一な細かさがその絵の暗さを際立たせている。山羊は妙にくすんだ色で描かれており背景の中に沈みひどく曖昧になっている。
健康な時に見てもどことなく陰鬱な絵、それが病棟の廊下の突き当たりにポツリと一枚飾られている。 
恐らくこの病院の身内の絵であろう。端には荒い筆記体で描き手の名が書かれていたがそれさえも渦に絡め取られ黒の中に沈んでいる。

病室を出てゆっくりと夜の病院を歩いていると、遠くにその絵が掛けられているのが分かる。遠くから見れば白い壁に一枚ただの黒い絵が掛かっているように見える。

あそこまで、あの絵のところまで、そう思い、傷を庇いながらノロノロと歩いていく。
漸くたどり着く。
でもそこにあるのは陰鬱なその絵でしかない。
絵はただそこに有る。
ただ有るということが重要なのだ。
私はそれをじっと見つめると、また病室に戻る。

日を増すごとに、1日の歩数は増え、引きずるような歩き方は治り身体は徐々に回復し、退院した。

自宅には白い壁も天井もない。
黒い渦の山羊の絵もない。
見慣れた柱と木目のある天井、自分の気に入った物だけが自分の機能に合うように並んでいる。
横になる合間に家事や仕事をする。
眠る時間も食べる時間も歩くのも何も決められておらず、体も以前より動き、行動も自由であるが、病棟にいた時の様などこまでも潜っていけるような解き放たれた気持ちはない。

体を休めるために横たわっているのに、頭のどこかでいつも何か考えている。
うつらうつらとしては、元気になったら白粥ばかりでなく、七輪を出して魚を焼いてやろうなどと思っていたりする。
日向を背中に当ててうたた寝をし目覚めた頃に薄暗くなっていると焦燥にかられる。
遠くで鴉が鳴いている。
何度も同じ様に鳴くので馬鹿らしい気持ちになる。
鴉の声は、乾いた空気を斬り裂く様に、ぼんやりとした私の耳迄はっきりと届く。
奴らは何でもよく食べるのだ。

身体は未だ時々痛む。

これ位の事で痛いのだから死ぬのはもっと痛いのだろうね、などと大袈裟に問えばその人は、痛くないよその時はもう死ぬ日だからと答える。
釈然としない。でも少し安堵している。

黒い渦の山羊の絵を思い出す。
此処にはそれは無い。
私は時間をかけて少しずつ忘れていく。








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