見出し画像

ゆるめる

遠くで誰かが笛を吹いている。

その鳥の鳴き声はいつも、低い山の方から聞こえてくる。低い山から途切れ途切れの風に乗って、少し離れた家の中迄、心細気に、切実に、漸くと言った様子で、こちらに届く。

鳴き声は、するりと耳の穴に入ると頭の中で響きわたる。

今夜はひどく耳障りに感じる。

私は一人、灯りもつけず、佇んでいる。


三月の寒波の再来は頭痛の再来だった。

痛みは感覚を過敏にする。蛍光灯は目が開かないほどに明るく、ストーブの匂いに気分が悪くなり、聴こえる鳥の鳴き声は風に乗るどころか、耳の傍で鳴いているのかと思うようである。そして、得た全ての感覚は循環するように痛みに集約されていく。

呻きながら、この痛みは一体何の意味があるのだ…と問いかければ「意味なんてないよ」と返ってくる。

確かに、意味を持たせても、今の痛みの救いにはならない。痛いから痛いというだけである。痛みがとれれば何でも良い。姿勢をかえたり、意識を遠ざけたり、あえて痛みの中に突入したりと、過去に少しでも楽になった方法を試みるが、何も変わらない。

一人佇んで祈っている。どうかこの痛みをとってください。

痛みが永遠に続くことはないし、この痛みで死ぬこともない。苦痛から解放された後も、肉体と私はいつも残っている。普段は痛くないということを思い知るため、時折痛みを与えられているのだろうか。痛みから解放された翌日に、春の風など吹くと、何よりありがたいと思う。

苦痛からの解放が幸せならば苦痛がないときの解放ってどんなものなのだろうとか、苦痛からの解放で肉体が失われるとしたら…等と、痛みがなくなった途端に小難しぶって問い掛けてみれば、あなたは頭で考えすぎるから頭痛になるのだ、調子が良いなら栄養をとって陽に当たる、あとは適度な運動、考えたいならそれをやった上で考えなさい、と言われ、ああその通りだなぁと思いながら何せず、縁側で春の風を浴びている。

どこに行くのかとその人に問い掛ければ、今日は天気がいいから風呂に行くのだ、とその人はさっさと昼風呂に行ってしまった。暖まった石の上でうたた寝をする猫の様だなと思いながら、一人、頭痛のせいで遅れてしまった仕事をはじめる。この仕事が終わったら私も昼風呂に行こうと思っているうちに、辺りは暗くなっている。

仕事を終えてストレッチをして身体を緩めていると、低い山の方から鳥の声が聴こえてくる。ああ、鳴いているなと思う。しかし思う度に、その鳥が鳴いている事を忘れている。昼間に思った暖まった石の上の猫のようなものはすっかり遠ざかり、外側と肉体と中身がバラバラになったままに無機質に身体を動かしている。これではチグハグだと思う。

夜は早く寝た方がいいから続きは明日にしたら、とその人がいう声は、途切れ途切れで半分眠りにかかっている様だ。昼間の猫があくびをしている姿を思うと、一人闇に取り残されるような気がして不安になり、布団に入り灯りを消して目を瞑る。

あの時、あの痛い時、確かに私は祈ったけれど、一体誰に?

誰もいないし、祈ったから痛みが取れたわけではない。痛みがとれたから痛くないだけで、他に何もない。

私は頭の中に絵を描く。

大きく大きくあくびした猫の口の中。

ストンと意識はそこに収まる。小さくなった私は猫の口から体内の深いところへ、奥へ奥へと落ちていく。深く潜り込むたびに、私の身体は小さくなり、そのうちに見えなくなっていく。











文章を書くことに役立てます。