窓から月1

『令月のピアニスト』1/13 無自覚の不覚

 ふだん外飲みしないぼくが、久しぶりに深酒をした。忘れるための酒ではない。カミュは太陽のせいにしたけれど、月がひときわ地球に接近していたことが関係していたかもしれない。月の引力に潮流が引き上げられたことで、我を譲らぬネオンが重なり、浮き足だった繁華街に蠢く雑多な欲望と駆け引きにぼくはまんまと担がれたのだ。
(スーパー・ムーンのせいさ)と路地の奥から声がした。
「月の誘惑。狼男だって、満月に導かれて変身するんだ」
 千鳥足で肩を組むマツがわけのわからないことを叫んでいる。いや、前後不覚はぼくのほうだったかもしれない。嫦娥が月の背中を覗き見て、月女神が獣人を操って狼に変身させる。ムーンなんとかという紫のネオンの手招き、「社長」と絡むガタイのいい黒人男たちの誘いを払いのけ、ふらふらとあてもない。まるで獣人マリオネットに化身して、誰かに操られているように頓着なくあてのないゴールに向かいさすらう。

 操り人形(マリオネット)? だとすれば誰に操られているのか。天空から月光に浮かび上がる輝線を巧みにさばいているのは誰だ?
 天を仰げば、嫦娥の指が手招くようにぼくらを動かしているのが見える。彼女は地に蠢く男どもを操りながら品を定め、どいつを喰らうか舌なめずりしている。
 今日はスーパー・ムーンだと声をあげたのはマツだったかもしれない。
「月探索機と女神をごっちゃにしているんじゃねーよ」
 月フリークのマツがクダを巻いたような気がした。だが問題はそこではない。しこたま飲んだ思考停止の体では、現状維持はおろか、すでに地べたに吐き出すことしかできなくなっていたことだ。

 おぞましい湿気に襲われ飛び起きた。着たままのワイシャツは皺くちゃでぐっしょり汗を含んでいた。
 ここは?
 自室のベッド。
 鍵盤蓋が開いていた。夜中にピアノ、弾いたのか。
 泥の眠りから抜けきれない重い体に鞭打って、今日も仕事、支度の時間が気怠るすぎる。

 出がけに「メタボに気ばかり焦る」が口癖の管理人が鼻息荒く湯気をたて、紅潮させた顔で迫ってきた。彼女を見ると、決まって家政婦を思い出す。体形と話し方がそっくりなせいだ。
 で、なにごと? 
「田所さん、朝から苦情の嵐よ。夜中のピアノ、近所の迷惑を考えてちょうだい」
 よもやとは思ったよ。だって鍵盤蓋が開いていたんだもの。やっちまったんだな、冷や汗が食道を下って胃に届き、背中を寒くした。弾いた記憶はないけれど、状況証拠と証人に犯人はあんただと突きつけられている。
 いやあ申し訳ありませんでした、身の覚えもないのに反省を恐縮に乗せて、頭を下げる。
「ほんっとにもう、たいへんな時期なのはわかりますけど、気をつけてくださいね」
 頭を下げながら、ふざけるなの怒りが脳天を突き抜ける。家政婦のあんたになにがわかる。
 だがこの状況で反論は分が悪い。(忍)の字を思い描いて飲みこんで「はい、反省してます」と苦い照れ笑い、奥歯ともども怒りを噛みしめ「行ってきます」で逃げるように場をあとにした。初夏の爽快な晴天に似つかわしくない1日のはじまりであった。

 妻が出ていって1か月。
「あ、今シャワー中だから」、妻が浴室に鍵をかけたのがはじまりだった。衛星放送の版権管理をしている彼女の、ふだんから遅い帰宅が深夜におよぶようになり、ある日の明け方、雨でもないのに髪を濡らして帰ってきた妻を、夜通し待っていたぼくが問い詰めた。
「明日も早いから」、そう言って自室に急いだ彼女の横顔がうしろめたかった。
 着替えをとってバスルームに向かう刹那もう片方の横顔が見えた。そこには嫌悪と罪悪感が浮かんでいた。何が起こっているのか、察しがつかないことはない。感情に沿って審尋し改心を説くこともできなくはなかったけれども、そんなことをしても閉じた殻を開くことはできない。彼女には彼女の〝生き場〟があって、ぼくはそこからはじかれたのだ。藪をつつけば般若が出てくる。
 ぼくの身に覚えはないけど、彼女の身の覚えは、鬼の形相をもって臨まなければならなくなっている。第三者に侵犯させてはならないものを妻は抱えてしまったのだ。ぼくの大事な一部がぼろりと剥がれ落ちたような気がした。ぼくは妻にとって第三者になった、その事実が肌からじわじわと体の内側に浸透していくようだった。

 認めたくなかった。認めてしまえば、ぼくはひとりになる。理由もわからずいきなり置いていかれるなんて寂しすぎる。
 ぼくに落ち度があった? 叱責を自己反省に置き換え尋ねたことがあった。だけど、うつむく妻の頭は左右に振れるだけだった。
 今は仕事に没頭していたいの。お願い、そっとしておいて。
 ぼくが悪いのなら改めるから、きちんと話してほしい。
 あなたのせいじゃないの。仕事に振りまわされて、少し混乱しただけ。ごめん。
 嘘だった。何日かして届いたメールには「別れてください。理由は訊かないでください」とあった。
 骨をつなぎ留めているボルトが瞬時に溶けてなくなったみたいだった。支えるものを失くした骨格が、ぐしゃりと地面に頽(くずお)れる。それを合図にいっせいデリートをかけたみたいに頭の中が真っ白になった。

 メールをくれて以来妻は家に帰らなくなった。少なくともぼくの在宅時には。そしてぼくの不在を狙って自分の荷物を引き上げていった。3回目で最後の大物、ベッドがなくなると、引き上げ証明書みたいに離婚届が置かれていた。
 離婚届は、妻が残した唯一の気配だった。記入捺印して提出すればすべてが終わる。妻の気配がすべて消え失せる。
 未練がましいのもわかるし、どれだけ懇願しても祈願しても、出ていった妻が帰ってこないだろうことはわかる。だけど、万が一のことでも、妻が新しく選んだ男とうまくいかなくなって心変わりしないとも限らない。
 裏切られたことで湧き出す憤怒も、いなくなったことで広がる荒涼が神妙なヴェールをかけて、揺れる心は戻ってくれることに一縷の望みをつないでいる。
 こんなのじゃいけないことはわかっている。だけど、タガを外された人間にこれ以外のすがれるものなどあるだろうか。
 翌日もその次の日も、妻から連絡はなかった。それから1週間後。望みはとうとう息を切らし、腐敗した希望が臭気を放ちはじめた。
 決着をつけるなんて格好のいいものじゃない。運命に操られるままに、出社前役所に寄って離婚届を提出してきた。満開の桜を瞬時に散らす風が荒れた日で、その季節に似つかわしくない暑い日だった。

この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。