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『令月のピアニスト』2/13 去る者とやって来る物

「田所さん、お電話。松元さんという男の人から(♪)。よく電話をくれる方ですね」
 末席の粕賀がいつもの調子で私語のない職場に能天気な声を響かせる。
 カタカタとキーボードでテキストを積み上げては、ツツツーとデリート、打ち直してはゴールに向けて黙々と流れていく時間に無駄口はいらない。とくに今日みたいな日には鬱陶しさに輪がかかる。余計なことは言わんでよろしい。

--仕事中悪い。すぐ済むから少しいいか?
「かまわない」と虚脱したぼくが答える。
 マツは、年の暮れに同棲中の彼女と晴れて戸籍上の夫婦となる。袂を分かつ者あれば結ぶ者あり。当分祝福ムードになれそうにないが、社会人も10年やっていると平静を装っていられるようになる。
--突然で悪いんだが、頼みごとがある。
「なんだ?」
--ピアノ、もらってくれないか?
 現実感がなさすぎたせいで、話がぼくをスルーして誰か違う人に向けられている、そんなふうに聞こえる。
「何を言いだすんだ、やぶからぼうに突拍子もないことを。うちにはピアノ弾きはいないぞ」と、だからぼくも真に受けることなく受け流す。
--籍入れるまでアツコがうちで暮らすことになって、だいぶ断捨離したんだけど収まりきらなくてな。どうしてもピアノは手放せないって言い張るんだ。だけど、知ってる人にならってやっとのことで手を打った。そこでおまえに白羽の矢だ。
「ええっ、本気だったの?」、意外だったが、だとすれば勝手がすぎる。それに、どうしてこういう日に限ってこうも厄介事が集中するんだ? 仕事以外のことを考えたくはなかったし、荷物のめんどうをみる気もなかった。
--アツコがぜひって。置けるだろう?
「そういう問題じゃなく」
--辛い時期だってことはわかるよ、でも、
「その問題でもない!」
 マツとは長いつきあいで、お互いのことはよく知る仲だ。まさか離婚届で決着つけると話したこの日を狙って連絡をよこしたわけではないだろうが、タイミングが悪すぎる。
「考えさせてくれ」とぼくが引き際を伺うと、期待しているよ、とくにアツコが、とマツはぼくの思惑(断りを含んだはぐらかし)を瞬時に察知し、引きとめの楔を打ち込んできた。

 マツの婚約者任子とのつきあいは大学時代にはじまる。つきあいといっても恋人だったわけではない。なんとなくウマがあったのだ。講義のおさらいをし合い、シリコンバレーのにわか知識を聴いてもらったり、ゼミをどうするだとか、ささやかな自分のコミュニティに欠かせない、小気味よく決まるギアみたいにしっくりなじむことばを交わせる異性の友だちだった。彼女に特別な感情を抱いたことはなかったし、任子もぼくを異性として意識することはなく、マツに紹介したら趣味嗜好がやけに合うようで意気投合、そのうちふたりがつき合うようになった。

 あれから12年。

 学生時代はよく3人でつるんでいた。終わってしまった時間、そこにあるのは懐かしさばかりではない。3人で温泉にも出かけた。法師温泉で任子はものおじせずに混浴の浴槽に飛び込んできた。ぼくは目のやり場に困り、湯船に沈められないタオルを呪った。ぼくの困惑顔に小悪魔の顔で肩を寄せてぼくをからかおうとした任子。湯の波に揺れる乳房が目に焼きついて、あのとき初めて任子を異性と意識したことを思い出した。いや違う。任子はあのときも異性を意識することのない友だちで、裸の任子は女の魅力をデフォルメした別個体だった。もうひとりの任子。その女の要素でできた任子を思い出すと、今でも脳髄がどんよりと重みに耐えかね縦に伸び、上も下も熱くなる。
 スキーにもディズニーランドにも南の島にも3人で出かけた。マツと任子の意気投合ぶりは今でも変わらず、尽きない話に感心するくらいだ。
 任子に隠し事があるとはとうてい思えない。今となっては信頼できる相手こそ人生の伴侶としてふさわしかったのだということがよくわかる。
 もし任子がぼくを選んでいたら? ふたつに分かれたふたりの任子は、ぼくの腕の中でひとりに戻ろうとするのだろうか?
 これ以上考えるのはよそう。今や任子は親友のフィアンセだ。

 それでも。逃した魚は大きかったと今さらながら湧き出る悔しい思いが尾を引いた。その任子がぼくを頼っている。
 不幸中だが幸いにもピアノを置く空間はある。いなくなるなんて考えたこともなかった人が消え、親友の彼女(彼女もまた特別に仲のいい友人のひとりなのだが)の想いが込められたモノがやって来る。取引として割が合うような気がしない。そんなことを考えていたら、貧乏くじの連鎖だな、と口にしていた。
--え、なに?
「いや、なんでもない」
 まるで盛夏を先取りしたような陽光が、職場のすりガラスに刃物で切ったようにビルの合間を抜けて斜めにはりついていた。昼をまわりさらに気温が上がったのか、自動調整のエアコンが室外機にはっぱをかけた。

この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。