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『令月のピアニスト』6/13 十日夜(とうかんや)から満月までの5日間

「これじゃ全然わからない。矛盾だらけだしぃ」
 予感は的中し、起爆スイッチが押されていた。クライアントを前に、粕賀が啖呵を切ってしまった。しかも40代後半の管理職にため口である。
「ふざけないでくれたまえ」
 憤怒の爆煙から顔を突き出した管理職は、頬を紅潮させている。

 クライアントはお金も出すが口も出す。多くのクライアントがそうだ。お金は出すが口は出さない神対応のクライアントは今では噂さえ聞くことはなくなった。時代はすでにそのカラーを塗り替えてしまったのだ。
 知っていて口を出すならまだいい。軋轢は、聞きかじり程度の知識で仕様書作成の現場に口を挟まれたときに起きる。するとかきまわされるだけで仕事が遅々として進まなくなる。
 とくに年配者には取扱注意者が多い。業績を認められリーダーに抜擢されても、ご褒美役職では現場の知識に追いつかず問題が起こりやすい。担当責任者の管理職にはメンツもあって、これが往々として事態をこじらせる。
 いいものに仕上げたいならよぶんな口を出さないでほしい現場が反駁すると、もう火に油。リーダー(ぼく)がクッションになるところを、立ち寄りの打ち合わせでオフィスを空けていた際に起こったアクシデント。

「すみません。まだひよっこなので許してやってください。あとできつく叱っておきますから」

 納得にはほど遠い顔をしながら、それでも説得が仕事のひとつだし、ことを荒立ててこじらせるとお互いに困るから、管理職、しぶしぶの顔に変え、わかりました、を口にしてくれた。
 自分のしでかした騒動に反省の色でも浮かべてくれれば可愛げもあるものの、当の粕賀はあっけらかんとしたものだ。プログラミングの専門学校を卒業して入社してきた粕賀は物覚えもよく、JavaもC言語も、おまけにケータイ・アプリにも対応するRubyも書けることからこれまで幾度となく彼女には助けられてきた。その年の卒業生でイチオシと学校から太鼓判を押された実力は認めざるを得ないものだったし、重宝もしていた。
 でも。
「粕賀、ちょっと」
 クライアントを丁重に送り出したあと、粕賀を会議室に呼び出した。部下の教育。これもまたぼくの仕事のひとつである。

「おまえなあ、自分の主張はわかるが、仕事にはお金の流れと人の流れがあって、継続という流れもつくらなきゃならんのだ、わかっているのか?」
「はい、充分に」、にこやかな能天気はこちらの言いたいことが伝わっていない証。臆面の欠如は相変わらずだ。
「あのなあ」
 わからない者にはわかるように。呆れ顔を真顔につくり直し、
「時代はアンタンカクを求めるようになっている」と言うと、
「はあ? 何ですかそれ?」と暖簾に腕押しのレスポンス。
 話の芯はそこじゃない。これからだ。
「プログラマが重宝されていたのは、プログラマが足りなかったころの話。今は時代が変わって競合が増えすぎた。競争に勝つには〝安く〟て〝短期間で納品〟できて〝確実〟な仕事をこなす、そんなプログラマ集団だ。これらを当たり前にこなせたうえで、次につなげる知恵がいる。人とつながっていく工夫、仕事を潤沢にまわす算段、そういったものが必要なわけだ。でないとお金も流れてこない。お金が入ってこないと支払える給料が減りこそすれ上がることはない。給料が上がらないのはたまらんだろう?」
「はい、たまりません!」
 そう言うと粕賀は人差し指を唇にあてて口を尖らせた。
「それにしてもうまいこと言いますね」
 ん? なにがだ?
「アンタンカクですね、覚えておきます!」
 逡巡した結果の最良の教えと思ったが、込めた願いは空まわり。言いたいことはそこじゃない。厚顔にはじかれた思いがした。暖簾に腕押しは撤回、あんぽんたんなこいつは蛙の面に水だった。

 それでも粕賀の天然はときにオフィスの張り詰めた空気の腰をいい意味で折ってくれることがあって助けられることがある。締め切りに追われる日々がつづくと苛立ちが蔓延し、吊り上がる目が一触即発に邁進する。体力も限界、焦りも加わる。「ぼくが締め切りを調整するからいい仕事をしてほしい。確実に仕上げることがいちばん」と安短確の〝確〟を強調しても、納品日に間に合わないと仕事の継続に翳りが出ることを知っているベテラン連中は、「はい」と理解を装うが、仕事の手をゆるめることはない。
 焦燥はいけない。ミスを呼び、結果遅れることはあまたの事例が物語っている。そんなとき。粕賀が「私が体を張ってでも納期を調整します」と胸をたたいたことがあった。
 粕賀がいかに優秀でも熟練たちには敵わない。ひとりで頑張ったって、間に合わないものは間に合わない。仕上げるのに不足する時間は、メンバーそれぞれの労働時間で調整するしかない。残業が自慢だった時代から諸悪の根源になった今、残業してくれとはマネジメントの立場からは言えない。強要できないこともわかっている。それに、安短確を求める世のクライアントたちは、自社の労働環境改善には躍起だが、こと労働時間に関する調整ではたいがいのばあい歪が生じ、そのしわ寄せを業務の下部組織にあたるわれわれが調整していくことになる。つまり解決しようのない構造的問題をわれわれは抱えこんでいるということだ。諸事情を鑑みて納期にバッファを設ければ〝短〟で競合相手と戦えなくなるし、〝確〟を担保できなければクライアントから切り捨てられないとも限らない。安泰なルーティン仕事をこなしているうちはいいが、特殊な歯車で動く仕事も中にはあって、そのときには気も神経も遣えば、心臓に悪い綱渡りをしなければならないこともある。

 絶対にしてはいけないこと、それは、自主的残業の強要だ。違法性の側面もあるが、もっとも危惧すべきは個人の尊厳無視と労働意欲を考慮しない封建的指示組織に、スタッフの働きつづけたいという意欲は宿らない、そう考えているからだった。強要は、モチベーションを間違くなく刮(こそ)ぎ取っていく。すると循環にも歪が出てくる。下手をすれば納期が遅れるだけで済まなくなる。スタッフの結びつきが空中分解してしまっては、もともこもないのだ。
「わーん、終わらないよう」
 粕賀が夜分に入って悔し涙を流し出した。熟練たちの憤懣こもるキーボード音がいっせいにやみ、粕賀に目が集まった。
「終わらせたいよう」
 終電までやってから帰る、誰もがそう思って緊張の糸を神経が攣るほどに張っていた。
 だが、終電で帰っては時間的により窮地に陥ることもわかっていた。
「しょうがねえなあ」
 ぼくより5才年上の年長プログラマが、自分の緊張の糸を切った。顔は苦いが言い方はやさしかった。
「オレはやってく。粕賀にいいとこ持っていかれたくないからなあ」

 他の3人が年長につづくと、鬼気迫る緊張感からほとばしる汗のようなカタカタ音が音色を変え気力に満ち、縁の下から持ち上げられるような安定した響きに変わった。おかげで仮眠をとる夜明け前には、遅れた分をずいぶん取り戻せた。窓のすりガラスに月の青い光が斜めに走っていた。出社時に浮かんでいたのはたしか十日夜(とおかんや)の月だ。満月まであと5日。満月と納品日がたまたま重なっていた。

 満月の納品日。ぼくらスタッフは、満面の笑みを浮かべた。粕賀がいると、苦しいだけの追い込みに充実感が流れこむ、そんな奇跡がときどき起こる。


この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。