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膠原病 入院日記④ 28~36日目


退院を言われ苛烈なリハ、そしてどん底

2008年4月23日(水) 退院宣告とリハの闘い

 月よう日に退院を宣告されて、残りの病院生活と治療についての今後の見通しが変わった。

 つき離されたという感じに近い。多少なりとも良くなった所で出ると思っていたので、「ここまでやって変化ありませんけど、今後変化あるかもしれませんのでまぁ薬は飲み続けていただくと言うことで」、と言われても困る。

 家に戻れば即、マンションの階段がバリアになって外出不能。歩行できないから電車にも乗れず、仕事にも行けない。そして狭い家の中にいたら、ほぼ寝たきりになってしまう。その状態でいつか来るかもしれない可能性を待つのか?ドクターは無責任すぎやしないか?

 病状が変わっていないとしらた、この間の変化は病名がついたのと、服薬を始めた事だけではないか。
 DSMⅢで言うと、インペアメントにわずかな変化(の可能性)、でもディスアビリティとハンディキャップには改善はない訳だから、生活には支障出る。医療の仕事はそこまでというのはあまりにも分断されている。これは、退院を促されたどの患者も言っていること。そして、再発や転倒事故や回復不充分で再入院する。社会的入院を防ぐのはわかるけど、みんな何も解決しないままに追い出されたと感じている。


 自分でも怖いなと思うのは、病院が余りにも保護された環境なので、居心地が良くなってしまうこと。社会復帰できなくなる。ここが生活の場になること。一方でDrが思い描けていないのは、患者の生活の事。歩行困難な者がどれだけの恐怖とバリアを感じるのか。どれだけ世間の人が冷たいか。街中で転ぶ痛みと悔しさ。
でも・・・


 ヒザとわき腹に感覚障害から来る運動マヒがある。(今の私の体では)本来はスクワット動作は力が入らず行えないはずのもの。体にその動きをすり込むしかない。筋肉が記憶し、筋肉で武装する。急な転倒で切れない筋肉、骨を守れる筋肉。揺れない三半規管。眠ること、休むこと、笑うこと、体が欲することをし、体が求めるものを取り入れること。

 ZARDの坂井泉が亡くなった時、自殺が噂された。今、自身がリハビリをしていて、(坂井はスロープの通路でリハ歩行をしていた)、自殺ではないと直感した。

 強い薬の副作用があって精神発作を起こす場合をのぞいては、リハビリ途上というメンタルの状態にある者は、死を選ばない。もしそうであれば、リハビリの努力そのものをしない。リハビリは生のモチベーションに支えられてしか行い得ないものだから。今日、単独でリハをするために、非常階段の鉄のとびらを2枚開けた。窓がなく、誰も通らない日も多い、冷んやりとした空気の非常階段室に入ってみて、その孤独と向き合える自信がなかった。それほどにリハビリは、独りのたたかい。倒れた場合、誰も気づいてくれないことを覚悟しなければならない。

 ナースやドクターが、がんばってますね、と声をかけるが、必死なんじゃ。がんばって下さいとか言うな、と思う。
 あまり必死なのもまずいと思い、夕方は時計の革ベルトを作ろうと思って、革を採寸したりカットしたりしてた。そういう時間って集中できるなぁ、と思った。
                        AM1:00

 


2008年4月24日(木)焦り、そしてあたたかい気持ち

 今朝は、ポストまで手紙を入れに行く元気もなかった。体は入院前みたいに戻ってしまっていた。頭はフラフラし、足元がおぼつかない。昨日午後調子が良く、良くなっている実感があっただけに、その差は大きくて、全身が重いだけじゃなくて、気持ちも沈んだ。体温を計ってみたが平熱。

 これまでも体が重い日はあって、体を動かして温めることで一日持ち直した。ストレッチをするか、眠るか。一度喫煙所まで降りるが頭がボーッとしている。

 昨日の自主リハは相当量だった。まだ負荷をかけるのは早かったか?負荷によって症状が悪化するのかどうか。少しベンチに座って、じっと考えて体が求める事を感じ取ろうとして、眠るという結論に至った。休め、眠れ、ということだろう。

 午前の明るい光の中で眠る。周囲は動いているので浅い眠り。ヘッドフォンをして眠る。眠ろうとしながら泣いていた。涙が出て来た。今は体も気持ちも泣きたいんだな、と思った。少し泣いて、眠った。これまで、辛いとか泣きたいとか思ったことはなかった。入院してからは。

 一度昼食の配膳の時にナースが起こしに来たが、体が重いのでそのまま眠っていた。12時半すぎ、遅い昼食を仕方なく食べ、少し体が楽になっていた。良かった。

 

 ボーッとベッドの上に座っていると、ナース伊藤が珍しく来て、ベッドの私の隣に座った。私の様子がおかしいと思って、見に来たようだった。「退院の話がそろそろ出ているのではないか」と。

 今まで、ナースと少し話したいと思った事は、最初の頃少しあったが、患者の生の声は重すぎるだろうと思っていたし、受け止められない時の事を思うと、その時の自分は辛いだろうと思っていた。忙しそうに動き回る姿に、この病院のナースのルーティンの仕事の量を見ていた。

 ナース伊藤は、私が来たばかりの頃の夜中に、サイドテーブルに置いた私のスケッチブックを落として拾い上げ、描きかけの絵をじっと見て、ノーコメントでサイドテーブルに置いた人。見るなよ、と思ったし、黙るなよ、とも思った。多分外国人の血が入っていて、背は170はあり、明るいのだがいつも何だかヘンテコなコメントを言うナース。いやなヤツに絵を見られたな、と思っていた。荒い感じが余り好きではなかった。

 一方で、サバサバとした口調で新米の女性ドクターの軽いグチを言って行ったり、職務としてのまじめさからは少しハミ出しているラフな感じもある、中堅のナースだった。


 ベッドのすぐ隣りに座られたのに何か抵抗感があって、私が少し腰を浮かせて距離を取った。それを見て、ナース伊藤はベッドサイドのカベにしゃがみ込んで寄りかかる。

 私は話した。退院について、今思うこと、病院の仕事である治療の範囲と、社会に戻る時の支障、病気の痛みではなくて、社会の中で感じる痛みや悔しさ。ナース伊藤は、それらをちゃんと受け止めて聞いた上で、自分の意見として考えを話してくれた。心情的に受け止めてもらえたことが嬉しかった。そして、苛烈を極めている私のリハビリを焦りと見ていたようだった。

 一人で闘っていると思っていた中で、「がんばって下さい」とか「がんばってますネ」という表面的な声かけでなくて、思いを感じ取ってくれていたことが嬉しかった。「がんばれ」という声かけ。一見優しそうに見える励ましの言葉を、いつも苦々しく思っていた。がんばるというレベルではなく、必死なのだ。それしかやりようがない極限の中で、生きていくためのすべとして、無為に時間を過ごせない。がんばれという言葉に他人事のニュアンスを感じるし、これ以上がんばれるかよ、と思う。


 長く話してしまってごめん、と切り上げるナース伊藤に「ありがとう」と言ったら、涙があふれそうになった。「ごめん、泣きそうだわ」と伝えると、「泣くなよー」「泣くのであれば、カーテンを閉めますねー」と明るく言って、そーっと出て行った。カーテンごしに伝えた。「ほんとに、ありがとうね」。

 一日に二度泣いて体調も元通りになったので、午後はリハ室に行って、PT忙しそうなので、勝手に入念にストレッチ。ストレッチの本を家から持って来ているので、それで覚えたやり方。PTが伸ばさない所を中心に伸ばす。

 今日は初めての屋外歩行。大変調子良く、スロープ等もこなせる。リハ室に戻り、先日頼んだ実戦練習。手すりなしで2本杖での階段昇降を習う。下りの前傾が怖い。階段は5段で床面がカーペットでも怖いのに、とても一人で15段ある非常階段で練習できるとは思えない。これを体に覚え込ませ、難なくこなせるようにならなければならない。

 終わってから喫煙所に行き、ステージ状になっている所の階段4~5段を、50往復位練習する。そこでなごんでいる人たちが、黙る。いつもはバカな話しをしている私が、不安定な足取りで、真剣な顔で努力している。多分、みんなもどうしていいかわからない。転ぶのではないかと、緊張して見ていたのだろう。

 端迷惑なんだよね。ごめんね、今はこうするしかない。落ちたら気づいてもらえる練習場所は、病院内にはここしかないから。

 その後、ここを紹介してくれたDrが来てくれた。かなり前に来て、カルテ類を全部読み込み、担当Drに所見を聞いていたらしい。病棟長よりも更に先輩で偉いらしいことは、他のDrの様子を見ていてわかった。

 今までDrに聞けなかったことを、じっくり1時間位かけて聞いた。わかりやすく、客観的な説明で、今と今後がつかめた。ほとんど初対面に近かったDrがわざわざ足を運んでくれた事が有り難い。私は色々な人に支えられている。感謝をいつもうまく伝えられないな、と思う。

 何だか気持ちが下がった時に、ちゃんと手をさしのべてくれる人が現れた。人に救われた一日。

 予測や予後や将来は、すでに決まってそこにある訳ではない。自分で作るもの。

 考えつく限りのことは思いうかべるけど、それは準備して、今をどう思い描くかの材料。

 結局、私にとっては、今しかない。

 今に何を見出し、どう過ごすのか。
                        AM2:23

 

 

2008年4月25日(金)退院後の支障を考える パルス初日

 今は夜の12:00すぎ。携帯でネット上の友人の日記を眺めたりしててこの時間。

 夜消灯してから、今回入院して初めて窓の外の風景の写真を撮った。少し気持ちの余裕の表れ。目線が外に向いたのと、去ることを前提に、残すための写真の意味。気持ちの中では、ここでの生活も終わりに近づいている。

 カーテンを開けたまま、静かな中で書いている。

 今日やったのは大きな作業2つ。ひとつは「今後の生活上の支障について」という一覧表の作成。もう一つは、明日退院する女性への手紙。

 生活上の支障というのは、院内のワーカー(在宅支援室)との話し合いに使う物で、ナース金子からの依頼。退院後支障が出ることについて、解決策を考えるらしい。どういう策を示してくれるのかな?余り期待はしていないけれど、自由に一覧にして作ってみた。

 実は退院を提示された時に、自分の中では猛スピードで考え、思考をすっかり組み替えてしまったので、あんまり相談事項はない。常に自己完結してしまう私。だって来週半ばをメドに明日話すんじゃ、遅いじゃん。だから、リハのピッチもとっくに上げてしまった。退院提示する時に、すぐにワーカーの話もしてほしかったな…。


 突然の退院の話は突き放しに感じたし、その後泣いたりもして自己解決してしまった。私が不安を漏らしたからなのかな、仕事の管理者というのを知ってか、それとも専門職に病院の仕組みを見せておくのが良いと考えたのか?他の患者からは聞かない「支援室」が登場したのはなんでなんだろう?あぁ、この間、紹介してくれたDrと私が話し合いをしてたからか?


 で、私にもプライドもあるので、短時間で細かい表を作った。

 専門職の私が不安とかグチばっかり書いていてもしょうがないので、DSMⅢの分け方で(今は主流はICD10だけど)、①疾病、②障害によりできないこと、③参加制限に分けて書いた。それと、①については、疾病そのものと、治療と、リハ(それぞれの効果と予後と副作用)、②③は場面別に書いた。

 抜けがちなのが、視点が今の障害のみになってしまうこと。将来の合併症の発症や経済状況、家族形態の変化が複合的な要因になって生活困難はやってくる。だから、それを書いておいた。

 生活の中には余暇の場面も書いた。優先順位は低いけど、疾病によって生活の中の何かが失われるかのイメージをナースに知っておいてほしかった。

 今発症によってドミノが倒れた所を、いくつ目かの所にストッパーをかけて止めた。完全に戻らないにしても、一つずつドミノを起こす。次にきっかけがあると止まらない可能性もあり、途中のドミノが倒れ出すことも、何か所からか同時に倒れ始めることもある。そうなる前にどこにどれだけストッパーをかけておくのか。それを考える必要があるんだと思う。


 とりあえず、直近の障害を考えてみると、予想はしていたが、やはり移動が最大の課題のようだ。その次が業務内容。そして生活上の諸動作等。安全に、体に負担なく、いかに移動するか。移動に耐えられる体をいかに作るか。転倒事故は新たな難しさを生む。

 その後出てくるのが合併症、再発、副作用。これが最大のリスクだろう。費用負担と収入減とが重なると、生活は破綻する。これら二つを合わせてみると、まぁ爆弾抱えて平均台の上を歩いているみたいなものかな。平均台まではいかないか。階段降りてる位かな?

 そして、もう一つの今日の仕事が手紙。手紙といってもそんなに親しい訳ではないから、短い物だけど、色鉛筆でていねいに書いた。

 全体に難病や内科疾患が多い中で、同じ下肢障害である事で、彼女には近さを感じていた。元は別の病気から発症したようだったが、今回は股関節にボルトを入れる手術をしたらしい。

 リハビリの内容が重なる所があって、どこでどんな練習を一人でやっているのかを聞いて、「治療への努力」という考え方を知り、私もがんばらなければと思った。そして、少し早いその人の回復を見ながら、自分のプロセスをつかみ、回復を信じようと思えた。

 いろいろ話せたこともあるが、その人の努力の様子が私のリハビリに一番影響していたかもしれない。その人は45歳で4人の子供の母親。そしてその人は、私が以前に住んでいた町に住んでいるのだった。

 その人は、入院前も入院中もずっと泣いたり怒ったりして家族を困らせていたようだけど、喫煙所ではいつも明るく、屈託なく笑っていた。

 他の人もそうなんだけど、病院というほんの狭い世界の中の出来事で、毎日同じような治療やリハビリをしてるのにみんなよく笑うと思う。笑うことを見つけるよね。みんな体は大変なのにさ。人間ってたくましいな、と思うよ。しまいには痛くて笑っちゃうんだからね。

 歩けなくて転びそうなのも、ギブスで下向けないのも、尿道に管つっこまれたり浣腸されたり、血管引っかけられて血吹いたのも、おかしくってしょうがない。

 糖尿の人がアイスを食べたいがために廊下を歩き回って血糖下げてたり、ギブス用にパジャマの裾を切るのに、ナースに間違って逆足切られた若い男とか、同室のおばあちゃんの独り言とか、手術直後のウンコが小さくて丸だったとか、眠剤でラリってるのを見てみんなで笑ったり。

 タバコ売ってるコンビニまでの小さい冒険とか、前の病院の同室の若者のマスターベーションを皆で禁止した話とか。

 怒ってばかりいる人や文句ばかり、グチばかりの人は、どういう訳か姿が見えなくなる。居心地が悪くなるのか、皆に黙って退院して行っているのか。だんだん皆も距離をおくようになるからな…。


 その人に2冊持っているストレッチの本の内1冊をあげるので、お礼の手紙を書いたという話。あー2時になってしまった。もう寝よう。

 眠れないのでタバコ1本すってこよう。



(金)の夜中 ステロイドパルス療法初日の夜中

 午前0:00前、導眠剤を使うかを迷っている。昨日不眠で今朝5時まで眠れず、3時間眠って、一日眠らずに過ごした。昨日気になることが色々あったからなのか、初めての午後のパルスの影響か、元々言われる覚せいの副作用なのか。今回のパルスは安静を心がけているので、効果も副作用も出やすいかもしれない。

 その上不眠なので、足の違和感や顔のむくみも出ているのかも。この1週間で初めて、ストレッチも筋トレもしなかった。汗かかず、寝不足もあってむくんでいるのか、足に筋肉痛というか、血行悪い時のような違和感が、両ももを中心にある。これは悪化の途上にあったもの。悪化時の状態をさかのぼって良くなるとすれば、プラスのプロセス。悪化の可能性もありうる。寝不足での杖歩行と冷え。


 導眠剤を使うのを迷うのは、考えること、迷うことが色々あるならば、今はそれは受け入れる必要があることなんだろう、と思うから。多分、これをとばしては次に進めない。補助剤であることもよく知っているし、気にするものでもないんだけど、今、痛みを感じて泣かなくていいのかな。感情のレベルで、自分に正直に感じて、受け入れた方がいいのかな、と思う。一方で、それはゆっくりでもいいのかな、今じゃなくてもいいのかな、とも思う。

 元々、体も心も自分でコントロールできるという意識が強いので、薬によってコントロール外になることも嫌ではあるんだけど。


AM0:20



2008年4月29日(火祝) 夜中2:10

治らないのかも、責任を果たせないのかも

 今日から再びパルス人間になった。血管に点滴用のチューブを装着したまんまの様子は、人造人間みたい。そこから必要な薬液を補給する訳。

 ステロイド・パルス療法の「パルス」というのは衝撃波のことで、経口で飲む100~200倍の量を血管に注入して、一気にたたみかける方法。実は危険も伴うものであるらしい。医師や看護スタッフが充分にいる平日にしか行わないのも、ショック状態があったりするかららしい。

 今、私の体に少しの薬の効果が出ているとDr.はみなして、もう一度衝撃を加えたいという意図なんだ。

 
 週末から今日にかけて、大きな出来事が二つあって、今日は夕方から、少し気持ちが沈んでいた。何が予測され、どのように受け止めていいのかわからなくて、次々と思い浮かんできては、想像の範囲をこえて途方に暮れる感じ。
 結局、よくわからないので保留にした。そのへんが、私のいいかげんなところ。
 
 一つは予後。
 この間、今後のことを一覧にして出した。MSW(医療ソーシャル・ワーカー)からは制度面の説明を受けたが、医療面の疑問は保留になっていた。その多くの疑問に答える形で、約一時間、担当Dr.から説明があった。
 一番大きな結論は、歩行障害、感覚障害は完治しない可能性が高いということ。「完全に元通りに戻るとは考えないで下さい」と言われた。宣告だ。すごく誠実な説明の仕方だと思う。
 予想していた事ではあるので、その時は淡々と聞いていた。後で一人で考えてみると、色々捨てたり、切り替えたりしないといけないんだなぁと思った。
 そして多分ステロイド剤の副作用もあって、何だかドーンと沈んでいた夕暮れ。ナース金子が様子を見に来て、少し話をして、二人でドーンと沈んでみたり。
 
 まぁ歩けないことそのものは、「できないことが増えるな」っていう程度で、できる方法を考えたり、新しい何かを見つけたりするから、全部がおしまいで気持ちが真っ暗、というわけでもない。
 
 問題は、もうひとつの出来事、仕事に関する本部局長の意向、というか打診。
 簡単に言うと、降格と配置転換の検討が、具体的に始まろうとしている。理由は、局長の好意的な側面を見ると、治療に専念する条件を整えたい、ということ。もうひとつは、今の職場のユーザーの不安や不満、対外的に責任者不在状態の継続が難しくなりつつあること。復帰のメドが立つのであれば、期限を切って方向性を出すが、未定のままであれば、降格し一般職にして、再起を待つと。
 所属は本部直属で、人件費は本年度ついた新規J事業関係の予算を充てるらしい。居場所はベースを名目上はS事業所とし、実際の勤務場所、業務内容は未定。最大限の配慮だと思う。
 
 今、通勤が何とかなるレベルにまで回復したとする。今までの往復4時間近い通勤は、緊張と疲労で極限状態だろう。その上で業務をこなすこと、ストレスをかけることが可能なのかどうか。その条件で、長期的に見て、体を維持できるのか。そう考えると、受け入れてもいのかもしれない。
 
 今の職場で思い描いたこと、やりたかったこと、たくさんある。時間をかければできたこともたくさんあるはず。でも、それは自分が元気であることが前提だった。もし、今の体で行って、自分が動けず、目の前にいるユーザーや職員を守ることができないのであれば、それこそ悔しいし、不本意な仕事をすることになる。
 それと、自分が、この体で仕事をクリアしようとする時には、体に相当な負荷をかけることになると思うが、そんな中で再発や合併症や副作用が出た時には、とりかえしがつかないことになる。本当に生命をかけることになると思う。今、自分本位に考えれば、色々な人に迷惑をかけるけれど、条件が整うならば、あと数十年生きていくことを考えて、勇気を持って一度撤退しようかと思い始めている。
 
 自分だからこそできる何か、自分に残されている時間の中でできる何かを考えた時、今の事業で、それぞれと一緒に一瞬を大切にしながら生きていくこと、これもかけがえの生き方だと思う。それほどに、彼らが好き。そして、職員のやりがいもいっしょに作っていきたいと思う。でも、私がもう少し長く生きられるなら、もっとたくさんの人に出会えるとも思う。もっとたくさんの人と手をつなげるのではと思う。
 
 前回打診を受けた時には強く拒否した。ユーザーが目の前にいるから仕事が続けられると思ったし、原因が全くわからないのに、歩けなくなっただけで働けないのか、って頭に来た。適切な治療をすれば治るものと思っていたから。
 でも、今、状況が変わってきた。治らないのかも、責任を果たせないのかも。それならば、仕方ないか。何か次の方法を考える時期なのかもしれない。それは、今の法人や今の職業以外にも視野を広げて考え始めた方がいいのかも。
 


 
2008年4月29日(火) タカハシノブコ

 そんなことを抱えつつ、10時半に喫煙所に。珍しく誰もいない。そこにやってきた電動車イスの女性が、タカハシノブコ。病名、全身性エリトマトーデス。病歴31年で、同病では日本最高齢者。この人は副腎が全く機能していないので、ステロイドを体が全く生成できない。だから、ステロイド投与を1.5日止めると死んでしまうらしい。
 寒い中、ステロイドとのつき合い方、病気とのつき合い方、気持ちの持ち方、周囲との関係のとり方や、ストレスとステロイドとの関係、発症期の気持ちの動き、特に、ステロイドに起因するうつ状態と、体内ステロイド量のコントロールについて、約2時間かけて話してくれた。

 私が2度目のステロイドパルスを始めたことや、相当量のステロイドをやっていることは、患者の中にもすでに伝わっているのだと思う。
 そして、ステロイド投与者の感情のアップダウンや、リハビリの持つ危険性、負荷やストレスや睡眠不足が、回復効果をそいだり、下げることがあることを、その人はよく知っていた。
 患者は皆、私のリハビリを、心配して見守っていてくれたようだった。それで、その人は私に話しかけて来たんだと思う。
 
 その人は、ステロイド投与者の自殺を何人も見てきた。ステロイドによるうつの発症率はとても高く、思考が支配されてしまうという。自分を責めたり悲観して亡くなった人や、難病の発症で結婚を反対され、婚約者同士で亡くなった人、薬の副作用による容姿の変化に耐えられなかった女性、家族への経済的負担、介護の負担を思い、服薬せずに薬をトイレに捨て続け、4日目に心停止した女性、この女性は自身に保険金をかけていたという。亡くなる数日前までステージをやって倒れたシャンソン歌手キシヨウコ。
 そんな中で、腎臓、肝臓、スイ臓、心臓、骨に不全がありながら、「どういう訳か生き続けてしまっている」元気なこのおばちゃんは、何だか一生懸命、私に何かを伝えようとしていた。ステロイドというのが奇跡的な効果をもつことも、相当に強くて、Dr.の指示以外では、絶対に変更してはいけないことも、よくわかった。
 
 でも、本当に伝えたかったことは、何かな。くりかえし、「がんばるな」と言っていた。「何もするな、やりたいことだけやって、思い切り笑ってろ」、って。人前では、ヘラヘラしてろと。本人よりも周囲が辛い。それは、努力も克服も、周囲はできないから。苦しんだり泣いたりしてたら、まわりは代わってやれないから、その何十倍も辛いはず。
 克服できる人だからこそ、選ばれてその病気になっている訳だし、とやかく言うヤツがいたら、おまえがなってみろ、と思う。そいつは耐えられないだろう、と。一日でも長く生きる必要があるし、それは誰かのためでもあるし、自分のためだから。だからこそ、がんばるな、と。病気で悩むな。悩んで治すのは医者の仕事。
 「もし入院が長引くなら、そこでやりたかったことができる時間をもらえたー、と思うよ。ほんとうは私は、音楽ガンガン鳴らして高速走るのが一番好きだけどねー」。
 
 通常数mg単位で投与するステロイドを、グラム単位でしょっちゅうパルス投与しているこの人は、(これまでの投与量は10kgを超えているらしい)、ちょっとハイかなぁとも思うんだけど、やっぱり何かを私に伝えようとしてくれていたんだと思う。寒い中、咳こみながらも帰ろうとはしなかったし、じっと私の目を見ていた。「少し気持ちが楽になった。ありがとう」。

 ステロイド(副腎皮質ホルモン)は、体内に残留していると眠れない。そして、眠らないと、翌日に必要なステロイドが生産されない。
 薄々気づいていたが、発症の前に、私は約2週間の睡眠の乱れと、起きられない休日をすごしていた。今、午前の不調は、前日の睡眠と関係があるように思う。そろそろ、薬の力を借りてでも、眠らなきゃいけないのかも。いや、好きなことをしたり、ボーッと努力しないと、眠くなるはずだって。この病院がテレビを制限しないのは、結局つけたまま眠るのが薬になる人がいるからなんだって。
 
 痛みは、正面から感じて乗り越えるべきと思ってた。越えられるし、そういう時期も必要なんだと。
 そういうがんばりもやめてもいいのかもね…。

眠ろうかな。少し外の風に当たりたいな…AM2:10
 
 


2008年4月29日(火) どん底

 外の風に当たりたいと思って、まっくらな中くつひもを結んで、しばらく立ち上がる気持ちになれずベッドに腰かけていたら、Ns.伊藤が巡回で来た。「我慢せずに話せ」という。金子Ns.につぶやいたことも、夕方私がDr.説明を受けたことも全部伝わっている。完全に包囲されて、サポートされているのか。
 
 話したら泣き崩れるし、泣き崩れたら自分自身を完全に見失ってしまって、二度と立ち上がれないのではないか、と思う。私は依存的でもあり、他人の前で泣くこともできない。
    「いっぱいになる前には話すよ」と伝えて、エレベーターで下におりる。
 
    今、一番つらいのかもしれないな、と思ったら涙がポロポロ出てきた。病気のこととか仕事のこととか具体的な何かが悲しいんじゃないんだ。とにかく感情のかたまりがどうしていいのかわかんなくて受け止め切れなくて涙が出てくる。
    多分、いつも頭と気持ちが一致してなくて、頭で心をおさえこんで解釈して理解したり、納得しようとしたりしている。がまんしてる。まわりに色々な人がいるから、人に合わせるから、コントロールしている。
 
    ベンチに座ってとなりのマンションを見ると高い非常階段。目をそらす。
 
    タバコをすって、涙をふいて、フロアにもどってきた。冷たい水が飲みたくて、カップを持って廊下を歩いていると、Ns.伊藤が後ろから、「リハビリするの?」。まさかね…笑ってしまった。
    多分私が目を真っ赤にしてるのも知っててそういうとぼけた事を言っているのだろうから、根っからのプロだなあと思う。暗いフロアのロビーで冷たい水を飲みながら、もう一度思い出して笑ってしまった。
    そんな笑いの中で、あの非常階段、自分は高い所まで昇れないじゃん、と思ったら、バカバカしくてひとりで笑った。
    そう、色々思い出したんだよ。うつになった職員のこと、自ら命を絶った職員。最後に職場で話したのは私だった。次の職場でまたうつを出し、次の職場では理解できない形で職員が亡くなり、そして再びうつの職員。そういう一連のあらがえない流れをせき止めようとずっとしてきた気がする。
    そんな中で、ステロイドの副作用の話。死に向かって視野が狭くなっていくという異常状況。それを自分がコントロールできない怖さ。そんなものが、気持ちの深い所に暗い闇をずっと作っている。理解できなさを押さえ込もうと努力しているのかもしれない。人の死に対して、自らを責める気持ちを外せれば、もう少し楽になれ、自由になれるのかもしれない。


 フロアに戻って来て、泣きたくてもやっぱりおしっこしたくて、便座に座ってもう一度押し殺した声で泣いて、それでベッドに戻った。シェーグレン涙が出ない病気なんて、ウソじゃん。

 入院する前、今が底だなと思った。そんなに簡単ではなくて、今日再び底に落っこった。薬のせいもあるのかな。
    障害受容のプロセスも副作用も、教科書通りになるのもしゃくだな。そしてNs.のテクニックでサポートされているのも何かしゃくだ。
    そういう予定調和みたいなのとか、優しすぎて感情に届いてしまうのって、ちょっと距離をおいてしまう。生身の自分をさらし、触れられるのが怖いし、その後、つきはなされたり閉ざされたりするのも、こわいんだ。

朝まで眠れなさそう…AM4:00
 


 
2008年4月30日(水) 夕暮れの風 一瞬の幸福

 おととい、きのうとパルスの波がドーンと来て、2日連続で睡眠3時間。薬の影響なのか体は重く鈍いし、ももの深い所が不穏な感じで脈打ってた。
    今朝はいいかげん疲れてしまって、午前中に1時間半位眠った。明るい光の中でウトウトするのは気持ち良かった。わずか10センチだけ開く窓のすき間から、涼しい風が入って来た。

 昨日、眠れずに色々と考えてみたりして、結局何が一番気になっているのかな、と思った。
    診断によって、今後断たれてしまう色々な可能性、これは残念なことだ。自分の足で走ったり、バッティングセンターで球を打ったり、自転車で風を切って走ったり、大切な物を全部リュックにつめて夏の道を歩いたり。できないことそのものではなくて、その中で感じることができる感覚、それを味わえないんだ、そう思うととても大きなものを失ったんだっていう気がする。
 それと、もうひとつ気になっているのは、自分が気づかずにとらわれてしまうかもしれないうつ。自分の意思とは違う人格のようになって、狭い視野で死につき進んでしまう病。この薬が、その可能性を充分に持っていること。それが怖いんだと思う。そうやって死んで行った職員を見たから。

 2人の看護師が私を見ていて、彼女らは唯々、私がどうにかなるんじゃないかと心配しているようなので、少しずつ伝えるようにしようと思った。何を迷い、何におびえ、何を悲しんでいるのかを。
    はじめ手紙という形で書いたのだけれど、多分職務上、個人からの手紙をもらうのは困るだろう。そして、内容が申し送り事項なのかの判断も困るし、手紙をどう保管するかも困るだろうな、と考えた。心配してくれている気持ちに対して応えたいだけだから。だから、ノートにした。目立たない場所に置いておいて、書いた時にはメッセージボードに☆印を書いておくので、勝手に読んでいい、ということにした。
    交換日記みたい。話す相手に自分たちを選んでくれたことが嬉しい、とNs.金子は感激していた。でもね、内容がずい分重いので、大丈夫なのかなって思ったりもする。ナース金子は今日、さっそくノートを読みはじめて泣きそうになり、泣いてたら仕事ができないと思ったらしく、夜勤明けてからゆっくり読んだようだった。
    その後、20分位、ベッドサイドに来て、話して帰って行った。人の死に関しては、病院だから日常にも相当シビアな状況があるんだなと思った。そして、病死ではなく自殺は、直前まで看護していたナースには相当こたえるらしい。一月、暗い部屋の中で不自然な姿勢で揺れているその患者を発見したのは彼女だった。
    患者とナースの間に、感情的交流は成り立つのかな?とりあえず吐き出したい私がいて、わからなくて困っているナースがいるのだから、まあいいのか。患者から患者の気持ちを聞く機会は少ないだろうし、繊細さを素質として持っている人たちのようだから、職務の糧にしてもらえればいい。

 午前、3日目の点滴におとなしく縛れられてすごし、最後の一滴まで、「しみ込めよ」と、ゆっくり落として、左手の静脈のラインが抜かれた。やるだけやった、という開放感。努力はしていないんだけどね。あ、でも点滴中にリハも筋トレをしないというのも努力ではあるな。今の状態で、何もしないでいることは、後退みたいに思うからな。
    自由になった左手を少し嬉しそうに振り回しながら、PTにつき添われて建物の外周を散歩した。片手杖で何とか歩けている。今日は陽ざしの強い一日だった。終わってから、ベンチに座って腕に陽を浴びてみる。体が生きているみたいな充実感、心地良い。

 フロアに戻ってから、初めてふつうのシャワー室で、シャワーを浴びた。少し気をつければ大丈夫。嬉しかった。そのシャワーは、空いていればいつでも自由に使えるんだ。1ヶ月たって、初めていつでも入りたいときにシャワーができるようになった。小さいことだけど、シャワー室の中で自由な気持ちを満喫した。
 
    夕方になって、風が涼しくなった。外のベンチに座っていると、体に風が当たって通りすぎていく。一瞬の幸福。
    今まで、自分が動いて風を起こそうとばかりしていたな。静かに、ずっと座っていると、風が動いているんだ。それも悪くないかもしれないな。
    夕暮れの中にそびえる真新しい高層ビルの上の空を見あげながら、そんなことを感じていた。

夜9:50


余暇と心の自由

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 病院には余暇が少ない。病院は通過機関だから、当然と言えば当然か。アミューズメントパークまではいかないにしても、何か工夫はできないものか?定期的に映画を上映するとか、図書館を作るとか、レンタルビデオ店を作るとか。

 院内で生活することを前提にしてはいけない、院内で完結してはいけない、社会に復帰することを目的とした施設である病院。

 それにしても、長期入院患者が多い。病院は、精神的にこんなに貧しくていいのだろうか。病院内の余暇と楽しみ、そして心の自由について考えてみよう。

 多分、病院内にある最大の余暇はテレビだろう。ある程度の制限を設ける為か、有料だ。旅館ほどの料金は取らないが、1分間10円がかかる。

 他、病院の中での楽しみといえば食事か?想像していたよりはまずくなかった。量が少ないのではないかと心配していたが、動かないせいか意外にお腹が空かず、空腹に苦しむようなことはなかった。食べ物が手に入らない状況での空腹は、精神的な飢餓感をあおるのですごく嫌いな感覚だ。ものすごくおいしい訳ではないけれどまずくもない食事は、起床消灯時間とともに一日の中のリズムではある。

 それから自由の余地のあるのは、院内のコンビニと売店での買い物。品揃えは少ないが、一通りの物は揃っている。生活が長くなるにつれ、何だかんだと言っては買い、物がどんどん増えていく。

 コンビニの存在意義として最も大切なのは、本、雑誌の類を売っていることだ。それらは、外とつながり、外に向かって開かれている情報だから。本や雑誌を読むことで、精神的な自由を保てる気がする。外とつながっている風穴みたいなものだ。

 精神的な自由を保つという意味では、タバコと喫煙所の会話がとても大切。すごく望んで会話しているというよりは、行くと誰か居る→話す、のような受動的な感じではあるが。毎日何度も顔を合わせていれば、そうそう話題もない。それでもみんな、小さな話題を見つけては笑っている。

 余暇ではないが、リハビリ。努力することにより成果が得られるという満足度の高い行為。病院内での数少ない能動的行為。
 面会。たまにはいいかもしれない。気持ちの支えになるかも。楽しみな見舞いばかりではないが、見舞い客の対応は病人の責務、ぐらいのつもりでいる。
 外出、外泊。これは生活の中のアクセントだろう。これで闘病生活を支えている人もいるはずだ。
 読書。本屋にさえ行ければ本が選べて読める。消灯後、ベッドの中でもできる数少ない余暇。ベッドでできることは他にヘッドフォンで音楽を聴くというのがあるか。慌てて入院したので、そういう準備はできなかった。
 許可があればロビーでPC。病院内は本当は禁止だけど、メールと携帯電話。携帯電話によってずいぶんと外との壁を取り除き、閉塞感から逃れられているのだと思う。
 院内のレストラン、床屋などの設備。

 入浴。余暇ではない生活の一要素のはずが、制限があることで楽しみのひとつになってしまう。

  看護師、医師と会話、コミュニケーション、観察。

 へたするとトイレ介助とか入浴介助を余暇と考えてしまうくらいに乏しい院内の人間関係。

 

 病院は、患者の気持ちの深い所まで病気にしてしまうかもしれない。

 そんな中で女性の患者が女性を保っているもの。銀のペンダント、マニキュア、白いかわいいソックス、入浴後のブロー、髪を止めるゴム。例え着ているものが寝巻でもスウェットでも。

 そんなささやかなひとつひとつがいとおしい。



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本稿&画像 Ⓒ2008 青海 陽



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