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私の日記をリカバリーの物語として読む③ 発症直前

「物語がきれいになりすぎる…」発症時のことを書きながら、そんな難しさを感じていました。実際はもっと混沌としていて、息が苦しくて、毎日吐き気をもよおしていて、涙を滲ませていました。出口が見えないだけでなく、今立っている足元さえも見えず不安で怖かった。
もちろん、どんな物語でも、先を知っている主人公はいません。でも、現実のストーリーでは、神様でさえ次のページを知らないのです。後で振り返るからこそ、筋のある物語に見えるんだよなあ、と思います。

前回は、リカバリーの要素とされている、発病前の私のキャラクターのお話をしました。好きなことを書くのは楽しいです。どんどん詳しく書き進めてしまいそうになりました。でも、今回の趣旨とは違うので、ある程度のところで止めるようにしました。

ここからの数回の記事は、「落ちた」「這い上がった」みたいな話をするので、あまり楽しいものにはならないかもしれません。

今回の連載の肝は、物語としての筋を見出しつつも、本当の葛藤やドロドロをちゃんと語れるか、だと思います。伊藤先生の着眼点の中にあった「声」も、このことを示しているのだと思います。たぶん、黙る、言いよどむそこに、本当の私の姿があるのでしょう。

note上とはいえ、公的な場なので、どこまで話せるのかわかりません。でも、英雄の物語なんか誰も読みたくないでしょうからね、やってみましょう。

1.発症・入院前~入院~退院後2ヵ月の日記

私がnoteでこれまでに公開しているのは、発症直前の日記(図中ア)、入院中の日記(イ)、そして最近まで連載していた退院後2ヵ月目までの日(ウ)です。
この時期の日記だけで、合計するとA4で100ページを超えますが、それでも発病後の生活全体から見ると、ほんの短い期間なのが改めてわかります。
一方で、この短い期間に、私は自分なりのやり方で、どん底から這い上がる方法を手探りしていた様子がうかがえます。
それぞれの谷の時期に、何を手掛かりにして、気持ちを回復させようとしてきたのかを、日記から読んでみたいと思います。

私のリカバリー(気持ちの回復)のイメージ図

2.発症直前の状況(図中アの部分)

🔹 発症前のだいたいの話 🔹

まずは発症の直前の時期です。当時の日記は、上記(ア) 発症前の日記のリンク先にあります。また、別の記事「私が人前に立ち、自らの難病を話す理由<その4>」にも、同じ時期のことが少し詳しく書いてあります。

◍異常なストレス
私は事業所の立て直しのために着任した職場で、自分なりのやり方で闘っていました。
前管理者の誤った運営でやる気を喪失したスタッフたち。そして、今なら「カスタマー・ハラスメント」と言われる、長年の攻撃的なユーザーへの、前任者の誤った対応。攻撃の矢面に立たされているのはスタッフたちでした。彼らが良かれと思って対応すれば、パーソナリティ障害が疑われるそのユーザーに罵倒される、という日々が続いていました。スタッフは、「一番の得策は何もしないことだ」と考えるようになっていました。職場は暗い陰で覆われていて、重苦しい嫌な空気が充満していました。

こんな中に飛び込んだわけで、私にとって初めての管理者としての仕事は、とてもストレスの多いものでした。
ただ、これは「責任者としての業務を正しく全うすれば良いだけのこと」で「避けられがちなユーザーにまっすぐ向き合うという当たり前の仕事にすぎない」と思っていました。それで、気持ちを前向きに保って一年かけて取り組み、課題はかなり改善しつつありました。

状況は何とか前に進んでいましたが、私にとっては初めての管理者だったことを考えれば、完全に許容量を超えたストレスが心身にかかっていたと思います。
難病は「原因がわからない」と言いますが、私の場合は、異常なストレス状態が発病の引き金になった、と考えるのが妥当だと思います。

振り返れば、これまでの仕事では、この時期が一番孤独で辛かったかもしれません。誰にも助けを求めず、求める先もなく、一人で闘っていました。なんとかしなければ皆が共倒れになってしまう、そう思い必死になっていたのです。

結局入院して、最後は職場を離れることになりました。中途でいなくなることで、この間の努力はゼロどころかマイナスの評価になりました。私は「途中でいなくなった迷惑な上司」になり、体を壊してまでやっていたことは「無意味な時間」だったことになりました。

入院から後の時間の中では、自分のことで精一杯で前を向くしかなかったので、この頃の出来事は記憶の中にしまって、意識しませんでした。
でも、本当は我慢して気持ちを抑え込んでいたのでしょう。今年の一月、難病ピアサポーターの桃井里美さんに面談して頂いた時に、気持ちがあふれ出しました。私は初めて、「悔しかった…」と言って泣きました。


ここまでで終わらせば、きれいな話です。孤軍奮闘する管理者。体を削って闘った管理者は倒れてしまいました。かわいそうに、倒れてしまった彼の業績を誰も評価してはくれませんでした。ってね。

まだまだ掘り下げられるような気がします。





もう少し、本当のことを書いてみます。
◍理不尽な異動
発症した時の職場は、私にとっては社内異動で四カ所目でした。
二、三カ所目の職場では、私は新規事業の立ち上げを一から行い、事業を軌道に乗せる役割でした。今回の四カ所目は、運営が立ち行かなくなった事業の立て直しのための赴任でした。

二、三番目の職場は、全国に先駆けた事業でした。実績を上げて全国レベルで知られるようになり、公的に承認され、同種事業のモデルとなり、後に法制化されました。
注目度が高かったため、私はこの事業関連の講師、シンポジスト等を多数引き受けていました。公益性の高い事業だったため、自分の取り組みが社会を変える力になり得る、そう感じられた仕事でした。

したがって、今回の四カ所目の職場への異動は、その分野の第一線を外れることを意味していました。キャリア形成の点で、当初私はとても不本意でした。法制化以降の流れが速いことは想像できましたので、一年離れただけで、社会が私の事作った業を追い越していくはずです。私は社外で名前を知られるようになっていた一方で、組織の中枢は私の実績を知らず、私という資産を生かし損ねたと思います。

ただ、いつまでも文句を言っていても仕方がありません。移動先にはスタッフがいて、ユーザーがいます。未練を残したままの赴任は、あまりにも失礼です。それで、気持ちを割り切ることにして、異動を決めました。

◍面倒な異動先
実は、異動を億劫に感じる理由がもう一つありました。異動先には、私が若い頃から良く知っている女性の夫がいたのです。数年前に、その女性をめぐり私は彼に一方的に殴られ、歯と顎の骨を折った過去がありました。明らかにすると傷害事件になるため私は一切口外していませんでしたが、周囲を味方につけようとしたのでしょうか、軽率にも彼自身が既に職場でそれを得意気に話していました。そして「ヤツは女たらしだから、女性スタッフは口を利かない方がいい」ということだったと、後にスタッフから聞きました。だから着任時には、スタッフは私をとても警戒していました。彼は、組織を壊しているのが自身だとは気づかないようでした。
また、本人からは「あんたは俺が気に入らないだろうから、人事では不当に低い評価をつけるのだろうね」とも言われました。業務に私情を差し挟むのはあり得ないことで、私はずい分と安く見積もられているなと思いました。何を話しても伝わっている感がなく、話が通じないのが異様に疲れました。
最終的には、着任前に本人と外で時間をかけて話し、過去を清算する約束をしました。ただ、一度流布してしまった噂は回収できるはずもなく、職場に新たな不穏な緊張感が生まれた中での着任でした。

◍事故死
そんな彼が、私の着任から九ヶ月が経った頃、遠方の外出先で事故で亡くなってしまいました。私は直属の上司だったため、車で数時間かけて現地の警察署に出向き、一日かけて取り調べを受けました。私には、彼と接触できない場所ににいた証拠がありましたが、もし事件性が問われれば、過去の彼との不和をあげつらわれたのかもしれません。

彼が職場の中堅スタッフだったこともあり、職場は心理的に大きく動揺しました。私は具体的に指示を出すだけでなく、「現場に支障を来さないように、私を現場スタッフの頭数に入れていい」と伝え、管理業務に重ねて実務も一人として担っていました。

◍みんなが職場を辞めたがっていた
私が着任してすぐの春に、中間管理職の妊娠と産休・育休取得が決まりました。また、別の女性スタッフは、プライベートが原因で鬱を発症していました。更に別の2名の年度末での退職希望、さらに1名の妊娠がわかり、新年度に育休、産休に入ることが決まりました。
立て直そうとしても連鎖は止まらず、皆が職場を去りたがっていました。「一抜けた」状態で、辞めるなら早い者勝ち。なぜなら、後になるほど辞めにくくなるからです。

退職届は、私の職場作りの失敗の結果だと思いましたので、私は彼女たちを慰留できませんでした。また同時に、その申し出は、チームを作ろうとしている私への否定的な答えだと受け取りました。

対処に追われ、沈みかけた船から水を掻き出すような日々でした。仕事が終わった後、電車を乗り継いで帰る1時間40分だけが、一日を忘れて気持ちを解放できる時間でした。職場から駅までの線路際の道で、フッと小さい息を吐きながら空を見上げる毎日でした。




🔹 この頃の気持ちの動きと対処 🔹

この時期に、どうして私は極限まで自分を追い詰めてしまったのでしょうか。そこそこ真面目とはいえ、もう少し気持ちの逃げ場を作れる人のはずなのに。今ならもう少し上手な対処法を見つけられそうな気もします。
当時、私の中には、次のような気持ちの動きがあったのではないでしょうか。

〇初めての管理者になって、気負っていた。
〇別のものを失っての着任だからこそ、新たな何かを形にしたかった。
〇自分で何とかしようとしていた。よく言えば責任感が強く、悪く言えば抱え込んでいた。
〇職場の課題を何とかするのが管理者の仕事だと思っていた。
〇ストレスの原因が職場だったため、部外者には相談できなかった。

私は、何とかしようとしていましたし、時間をかければ何とかできる、と思っていました。そして、まさか難病を発症するとは思っていませんでした。




🔴 物語の筋 発症直前まで 🔴


■それまでの努力と、それを認めてもらえない気持ち

〇異動前までの仕事では、成果と手ごたえを感じていた。
〇業績の一つずつは、切り拓いて自分で手に入れてきたものと思っていた。
〇それくらいに、手抜きをせずに努力してきたという自負があった。
〇組織はそれを評価してくれていなかった。
〇新しい職場での課題は、私の力量に期待してのものとは思えず、私は単なる駒だった。
〇「全国の先駆け」から、「前任の尻拭い」「クレーマー対応」「痴話喧嘩の後始末」に成り下がった。その職場には、余りにも下らないレベルの低い議論があった。

今回書いてみて自分で意外だったのは、私が思ったよりもずっと、仕事に価値を置いていたことでした。
私は、いわゆる出世には興味がありませんでした。出世欲は俗っぽいと思っていましたし、仕事上の肩書きが上がることは、重要なこととは思っていませんでした。それは、私が専門職であることと、肩書きではない実績を積むことができていて、成果の手ごたえがあったからでしょう。
また、仕事を他人に認めてもらう手段にしている自分に数年前に気づきました。それぞれが新規事業だったため、帳票様式一枚からすべて作らなければならなかった事情はありますが、以前の残業は月に100時間を超えていました。自分の気持ちに気づいてからは、仕事との距離を置くようにしていました。

今回の文章を読んで思いました。なんだ、やっぱり仕事に価値の比重を置いていたのか、と。
肩書きではありませんでしたが、実績や名声は欲しかったようです。事業が公益性が高いもののため、実績は社会貢献に直結します。事業の性質が、私を仕事に駆り立てた要因の一つなのかもしれません。

だから、それを奪われた私は、一生に関わる大事なものを失ったと直感したのだと思います。
では、なぜ簡単に諦めたのか。組織から、諦めらざるを得ない強い力が働いていたからです。それに加えて、「積み上げたものを簡単に捨てることができる美学」を装ったのかなと思います。実際は、周囲が「捨てたこと」にも気づかない程に、私の実績は社内では知られてはいませんでした。


■ストレスフルな職場状況

〇前任者の運営の不具合で職場は荒れていた。
〇個人的にも難しい条件の職場に入ることになった。
〇私はもともと専門職だが、与えられた職場はほとんどが管理業務だった。
〇ユーザーからは「訴える」という類のクレームを受けていた。
〇管理者(雇用者側の立場)として、スタッフからの労働環境や労働条件に関するクレームを受けた。
〇状況を改善するために協力を依頼しようとしても労働条件が枷になる。
〇職場の皆が知っている古くからの関係者が亡くなり通夜に行く人を募ったところ、時間外手当を求められた(任意とし業務扱いとしてはいなかった)。
〇専門職の職場であったが、そこでなされている業務は専門職とは程遠いレベルの低いものだった。
〇責任感が強いため自分で取組み、徐々に改善しつつあった。
〇それが仕事だと思っていたため、誰にも相談できずにいた。
〇作りたかったのはチームだった。それでもスタッフは去って行こうとしていた。

私が大切なものを放棄してこの職場に来たつもりでも、得られたのはこんな結果であり、むなしい気持ちになったと思います。真剣に取り組んでも、自分が原因ではない悪循環に陥っていきます。それでも、気持ちを前向きにしてやりがいを見出そうとしていました。

■対処方法
〇書いていた。帰ってから夜中に書いて確認し、自分を取り戻そうとしていた。
〇事業経営に関する本を読む等して、正面から解決しようとしていた。

■発症
〇そして、原因不明の足のしびれが始まった。



🔷 モチーフ 🔷


ここで、私の物語のモチーフの一つが、かすかに見えてきたかもしれません。この間の私の中には、①仕方がないという「諦め」と、②本当は~という「我慢」と、③自分で意識していない「抑圧」があるのかもしれません。

①諦め
仕事では諦めが多いのは、社会一般でも同じ傾向だと思います。仕事をしていると理不尽なことがたくさんあります。
②我慢
その上で、私は小さいころから我慢する癖があるので、本心を表現せずに我慢してしまうことが多いのかもしれません。
③抑圧
そして更に、今回書いてみて気づいたのですが、私には、気持ちの深い所に抑え込んでしまい、本心があることさえも気づいていない「抑圧」があるようなのです。

仕事については「諦め」がありました。仕事のためにはプライベートの感情を「我慢」しようと思いました。
そして、もっと深い所に「抑圧」が、その女性が彼との生活を選んだことに納得できない感情が、あったのだと思います。

多分、この後に続く時間である未治療期間にも「我慢」や「諦め」があり、入院後も「我慢」が見え隠れするのではないでしょうか。
これらの感情をどう自覚し、表現し、自分の中で折り合いをつけていくかが、私の物語の底にずっと流れる主題なのかもしれません。

(つづく)


公開する前に何度も書き足していたところ、10,000文字を超えてしまったため、分割して半分を次回にしました。

今回の記事は、今までの中で一番書くのが辛かったかもしれません。
嫌な記憶を思い出す作業なのはもちろんです。この時期のことは、ある程度までしか言葉にしたことがありませんでした。より詳しく書いていくのは、辛い作業でした。
そして、それよりも辛かったのは、自分を深堀りする作業でした。どこまで掘れるのかがわからない中で、一人で自分の無意識にまで目を向け続ける作業に、今までない難しさを感じました。
深く深く自分の中に潜っていき、その後、何かが見えるまで遠く遠く下がり自分を俯瞰するような感じです。これもまた、何かが見えるのかさえわからずにやるのが辛いのです。

ただ、予め筋がわかっている物語、展開の想像がつく物語は、読んでもつまらないでしょう。それは、書いている私にとっても同じです。新しいことに気づくから、広く視界が開けるから、高い次元に上がる感じがするから、感じるものがあるから、面白いのでしょう。そんな文章を書きたいと、ずっと思ってきました。今回初めて、少しだけ、目指すものに近づく手がかりを見つけた気がします。

長い文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


文・写真:©青海 陽2023

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