1.発症・入院前~入院~退院後2ヵ月の日記
私がnoteでこれまでに公開しているのは、発症直前の日記(図中ア)、入院中の日記(イ)、そして最近まで連載していた退院後2ヵ月目までの日(ウ)です。
この時期の日記だけで、合計するとA4で100ページを超えますが、それでも発病後の生活全体から見ると、ほんの短い期間なのが改めてわかります。
一方で、この短い期間に、私は自分なりのやり方で、どん底から這い上がる方法を手探りしていた様子がうかがえます。
それぞれの谷の時期に、何を手掛かりにして、気持ちを回復させようとしてきたのかを、日記から読んでみたいと思います。
2.発症直前の状況(図中アの部分)
🔹 発症前のだいたいの話 🔹
ここまでで終わらせば、きれいな話です。孤軍奮闘する管理者。体を削って闘った管理者は倒れてしまいました。かわいそうに、倒れてしまった彼の業績を誰も評価してはくれませんでした。ってね。
まだまだ掘り下げられるような気がします。
🔹 この頃の気持ちの動きと対処 🔹
この時期に、どうして私は極限まで自分を追い詰めてしまったのでしょうか。そこそこ真面目とはいえ、もう少し気持ちの逃げ場を作れる人のはずなのに。今ならもう少し上手な対処法を見つけられそうな気もします。
当時、私の中には、次のような気持ちの動きがあったのではないでしょうか。
〇初めての管理者になって、気負っていた。
〇別のものを失っての着任だからこそ、新たな何かを形にしたかった。
〇自分で何とかしようとしていた。よく言えば責任感が強く、悪く言えば抱え込んでいた。
〇職場の課題を何とかするのが管理者の仕事だと思っていた。
〇ストレスの原因が職場だったため、部外者には相談できなかった。
私は、何とかしようとしていましたし、時間をかければ何とかできる、と思っていました。そして、まさか難病を発症するとは思っていませんでした。
🔴 物語の筋 発症直前まで 🔴
■それまでの努力と、それを認めてもらえない気持ち
〇異動前までの仕事では、成果と手ごたえを感じていた。
〇業績の一つずつは、切り拓いて自分で手に入れてきたものと思っていた。
〇それくらいに、手抜きをせずに努力してきたという自負があった。
〇組織はそれを評価してくれていなかった。
〇新しい職場での課題は、私の力量に期待してのものとは思えず、私は単なる駒だった。
〇「全国の先駆け」から、「前任の尻拭い」「クレーマー対応」「痴話喧嘩の後始末」に成り下がった。その職場には、余りにも下らないレベルの低い議論があった。
今回書いてみて自分で意外だったのは、私が思ったよりもずっと、仕事に価値を置いていたことでした。
私は、いわゆる出世には興味がありませんでした。出世欲は俗っぽいと思っていましたし、仕事上の肩書きが上がることは、重要なこととは思っていませんでした。それは、私が専門職であることと、肩書きではない実績を積むことができていて、成果の手ごたえがあったからでしょう。
また、仕事を他人に認めてもらう手段にしている自分に数年前に気づきました。それぞれが新規事業だったため、帳票様式一枚からすべて作らなければならなかった事情はありますが、以前の残業は月に100時間を超えていました。自分の気持ちに気づいてからは、仕事との距離を置くようにしていました。
今回の文章を読んで思いました。なんだ、やっぱり仕事に価値の比重を置いていたのか、と。
肩書きではありませんでしたが、実績や名声は欲しかったようです。事業が公益性が高いもののため、実績は社会貢献に直結します。事業の性質が、私を仕事に駆り立てた要因の一つなのかもしれません。
だから、それを奪われた私は、一生に関わる大事なものを失ったと直感したのだと思います。
では、なぜ簡単に諦めたのか。組織から、諦めらざるを得ない強い力が働いていたからです。それに加えて、「積み上げたものを簡単に捨てることができる美学」を装ったのかなと思います。実際は、周囲が「捨てたこと」にも気づかない程に、私の実績は社内では知られてはいませんでした。
■ストレスフルな職場状況
〇前任者の運営の不具合で職場は荒れていた。
〇個人的にも難しい条件の職場に入ることになった。
〇私はもともと専門職だが、与えられた職場はほとんどが管理業務だった。
〇ユーザーからは「訴える」という類のクレームを受けていた。
〇管理者(雇用者側の立場)として、スタッフからの労働環境や労働条件に関するクレームを受けた。
〇状況を改善するために協力を依頼しようとしても労働条件が枷になる。
〇職場の皆が知っている古くからの関係者が亡くなり通夜に行く人を募ったところ、時間外手当を求められた(任意とし業務扱いとしてはいなかった)。
〇専門職の職場であったが、そこでなされている業務は専門職とは程遠いレベルの低いものだった。
〇責任感が強いため自分で取組み、徐々に改善しつつあった。
〇それが仕事だと思っていたため、誰にも相談できずにいた。
〇作りたかったのはチームだった。それでもスタッフは去って行こうとしていた。
私が大切なものを放棄してこの職場に来たつもりでも、得られたのはこんな結果であり、むなしい気持ちになったと思います。真剣に取り組んでも、自分が原因ではない悪循環に陥っていきます。それでも、気持ちを前向きにしてやりがいを見出そうとしていました。
■対処方法
〇書いていた。帰ってから夜中に書いて確認し、自分を取り戻そうとしていた。
〇事業経営に関する本を読む等して、正面から解決しようとしていた。
■発症
〇そして、原因不明の足のしびれが始まった。
🔷 モチーフ 🔷
ここで、私の物語のモチーフの一つが、かすかに見えてきたかもしれません。この間の私の中には、①仕方がないという「諦め」と、②本当は~という「我慢」と、③自分で意識していない「抑圧」があるのかもしれません。
①諦め
仕事では諦めが多いのは、社会一般でも同じ傾向だと思います。仕事をしていると理不尽なことがたくさんあります。
②我慢
その上で、私は小さいころから我慢する癖があるので、本心を表現せずに我慢してしまうことが多いのかもしれません。
③抑圧
そして更に、今回書いてみて気づいたのですが、私には、気持ちの深い所に抑え込んでしまい、本心があることさえも気づいていない「抑圧」があるようなのです。
仕事については「諦め」がありました。仕事のためにはプライベートの感情を「我慢」しようと思いました。
そして、もっと深い所に「抑圧」が、その女性が彼との生活を選んだことに納得できない感情が、あったのだと思います。
多分、この後に続く時間である未治療期間にも「我慢」や「諦め」があり、入院後も「我慢」が見え隠れするのではないでしょうか。
これらの感情をどう自覚し、表現し、自分の中で折り合いをつけていくかが、私の物語の底にずっと流れる主題なのかもしれません。
(つづく)
文・写真:©青海 陽2023
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