見出し画像

エッセイ | ネブラスカの日々

 小説を書くようになる前、わたしは現代美術の作家活動をしていた。一般的に馴染みはないが、サイトスペシフィック・アートと呼ばれる展示場所や環境そのものを変えてしまう作品をつくっていた。生態系の循環に興味があったので、住宅跡地の草を刈り、それを集めて草の家をつくるだとか、ミニチュア・ホースを連れて道端の雑草を食べさせながら街を練り歩き、その馬のウンコで堆肥をつくるだとか、絵的にはほのぼのとしたパフォーマンスをやっていたのだ。
 こういうジャンルは発表の仕方が難しい。同類の作家といっしょに空き家や廃校などを利用し、その地域全体を展覧会場にしてしまうか、制作の過程を写真や映像で記録しておいて、別の会場(画廊や美術館など)で発表するしかない。前者ではプロデュース能力が必要となってくるし、後者では一般的なアート作品よりも説明的になってしまう。ブログやフェイスブックが世の中に登場してからは、手軽な発表手段としてこの手のアーティストは概ね飛びついていた。わたしも一時はそうしたものを積極的に利用したひとりだった。
 記録に重きを置いていたわたしは、働いて得たお金をカメラやビデオやパソコンに惜しみなく注ぎ込み、どれもまあまあの技術を身につけていた。某芸術系大学の技術職員もしていたので、機材と人材が揃った場の恩恵を受けながら活動をつづけていたのだ。しかし、職場結婚をきっかけに大学の仕事を辞めることになった。また自分の表現が、町おこしにアートを活用する一過性のはやりの上にあると気づき、限界を感じるようにもなる。所詮、マイナーな表現形式は、もともと少ない席にそれをはじめた世代が座ってしまえば、あとから来た者はうしろで立っておくしかないのだと。
 アーティスト・イン・レジデンスという世界中の滞在制作施設を転々として活動をつづけられないかと、あちこちにプロポーザルを送ったこともある。実際に、助成金を得ながら渡り鳥のように生きるアーティストは世界に数多く存在している。けれど、夫もいて、毎年契約を更新してくれる仕事もあったせいか、わたしは2回試みただけで断念してしまった。その2回目の、最後の美術活動の地が、アメリカ中西部のネブラスカだった。

 そのレジデンス施設は〈アートファーム〉といい、とうもろこし畑がつづく一画に、ヴィクトリア朝のボロボロの民家を移築してできたもので、常に1〜4人くらいのアーティストが滞在していた。なぜそこを選んだかというと、名前からしてだだっ広い土地に草がいっぱい生えていそうで、自分がパフォーマンスをするにはぴったりと思ったからだ。作品のために草刈りがしたいとメールで問い合わせると、草刈り機のついたトラクターを貸してあげると画像付きで返信が来た。こうして七月上旬から七週間、ネブラスカで過ごすことになったのだ。
 デトロイトやミネアポリスなどハブ空港を三つ経由してたどりついたのは、リンカーンという小さな空港で、アートファームを運営しているエドさんが待ってくれていた。190センチはありそうな長身で、NYヤンキースのくたびれたキャップをかぶり、右親指が第一関節までしかなく、訛りはなかったが声が異常に小さい人だった。昼過ぎだったので「なにか食べていくか」と提案されたが、アメリカの外食が口に合わないことはわかっていたので、アジア系のスーパーで買い物がしたいと言ってみる。しかし、連れていってもらったスーパーはつぶれており、空港でも黒人はおろか有色人種自体が少ないと感じていたので、のっけから不安に陥ってしまった。前年に行ったレジデンスは南部のノースキャロライナで、そこもかなりの田舎だったが、大学の先生や院生が全力でわたしをバックアップしてくれたのだ。今回はとんでもないところに来てしまったと、正直日本へ引き返したくなった。
 普通のスーパーで食材を買い込んだあと、車はすぐハイウェイに入った。真っ平らな土地にトウモロコシ畑や大豆畑がどこまでもつづくという単調な景色。たびたび睡魔に襲われたが、目が醒めると景色がまるで動いてないようで、腕時計も現地時間に合わしそびれていたため、自分がどれだけ車に乗っているのかもわからない。ときどき出現するUFOみたいな白い給水塔を見て、ちゃんと進んでいるとほっとしたものだった。
 ようやくハイウェイをおり、あるトウモロコシ畑の端についた小さな標識の角を曲がって、舗装もされてない農道に突入した。畑以外のところは、バッファローがたたずんでいたりする。やがて木がこんもり生い茂ったなかに屋根が見え、そこに車は入っていった。「はい、着いたよ」とエドさんはエンジンを切ったが、アートファームの看板すらなかった。自力では日本へ帰れない場所に来てしまったのだと、わたしは絶望的な気分になった。
 敷地にはまず映画〈ハウルの動く城〉のような3階建ての大きな建物があって、そこがエドさんの滞在するアートファームの拠点だった。ほかにキッチンと寝室三部屋がある2階建ての家と、ヴィクトリア朝のボロボロのほったて小屋、平屋建ての小屋などが点々とあり、好きなところに寝泊まりしていいと言われた。どこもエアコンはついてない。ネブラスカの夏は日本とは比較にならないほど暑く、昼下がりはオーブントースターの上にいるかのごとく灼熱にさらされる。一番まともに見えたキッチンのある家ですら、2階は部屋に入ることもままならぬほど熱が籠っていた。幸い、1階の一番きれいなベッドルームはその日の朝に別のアーティストが出ていったところで、わたしは迷わずそこを選んだ。もうひとりエリザベスという20代のペインターも滞在していたのだが、あとで聞けば彼女の部屋は鼠が出るらしかった。到着のタイミングが悪ければ、わたしに一番きれいな部屋は充てがわれなかっただろう。
 慣れないキッチンで昼食をつくり腹が満たされると、時差ボケには勝てず死んだように眠りに堕ちた。逆に夜は緊張からか30分に1回の頻度でトイレへ行きたくなり、ギーギーとけたたましい虫の鳴き声も相俟って、まったく眠れない。日本の空港で暇つぶしにと東野圭吾を3冊購入していたが、一晩で1冊読了してしまった。

 この施設でなにができるかをエドさんに教えてもらったあと、2日目から制作を開始した。陶芸に使える粘土を施設内で掘削できるとわかり、わたしのなかでストーリーができあがっていく。まずは敷地内の草を刈り、乾燥させ干し草にする。一方で、取ってきた粘土でタタラ板をつくり、アートファームの象徴であるエドハウス(ハウルの動く城みたいな家のこと)を描いたレリーフを制作する。最終的にそれを干し草で野焼きする。
 お借りした草刈り機はトラクターに巨大な櫛状のカッターをつけ、すこし進んでは一旦停止させてジョキジョキと草を刈る仕組みになっていた。古くて錆ついており、トラクターとのジョイントが何度もはずれ、その度にエンジンを切らなければならなかった。誰もいない広大な土地に、赤いつなぎを着たわたしがトラクターを動かす。エンジン音がうるさいので、iPodを聴きながらというわけにもいかない。雲もほとんどない青空に、ときどき黄色いセスナが飛んでいく。周辺の農場が農薬を散布しているのだ。それ以外なにもなく、制作しているという意識だけで自分を保っていた。昼の12時をまわると日差しがきつくなってくるので、野外の作業は午前中と夕方五時から七時までと決めていた。その間は昼食に時間をかけたり、エドさんやエリザベスといっしょに買い出しに行ったり、ドローイングをしたりして過ごした。持ってきた東野圭吾は数日で全部読んでしまい、母と連絡が取れたとき、日本の小説をいっぱい送ってほしいと頼んでしまった。
 滞在しはじめて1週間後、エリザベスも去っていき、いよいよ本格的に孤独と向き合うことになった。近隣は明らかに人間より野うさぎのほうが多い。言葉にも不自由して、どちらを向いて歩いてもトウモロコシ畑しか見えない世界に自分はひとりでいるのだと、途方もない気持ちになった。朝、ノートパソコンを持ってネットが繋がるエドハウスの2階へ行き、スカイプで夫とおしゃべりする時間が待ち遠しい。夫は盆休み前にアメリカへ来ると言ってくれ、彼との繫がりで心の安定が保てている自分には、これ以上の渡り鳥生活は無理だと実感するのだった。

 そんなわたしを気遣ってか、エドさんはいろんなところへ連れていってくれた。なかでも町のお祭りはアメリカのど田舎でないと体験できないもので、家畜の競売とバザーと移動遊園地が組み合わさっていた。バザーの横には市民発表会みたいな展示場所もあって、日本では習字や絵画が並びそうなところを、鉄の溶接が並べてあったのには驚いた。10ミリくらいの鉄板で、溶接跡の美しさを競っているのだ。アメリカ中西部の人々の美意識は、お稽古ごとや嗜みといったステイタスから来るものではなく、生活にがっちり根付いている。ニューヨークのチェルシーの画廊街では何百万、何千万円もの美術作品が売買されているというのに、おなじアメリカでも――、と田舎と都会の落差を感じずにはいられなかった。
 またエドさんは、ジェニファーというネブラスカ大学の学生さんを、わたしのお手伝いとして呼んでくれた。彼女が来たとき、わたしは粘土でタタラ板を制作中で、作業がはかどるだけでなく、休憩時のおしゃべりがとにかく楽しかった。制作に疲れて、夜バタンキューで眠れるようになったのはそのあたりからだろうか。ジェニファーは脇毛がボウボウのもっさりした田舎の女子大生だったが、わたしが絶対無理だと思っていたヴィクトリア朝のほったて小屋を寝泊まりする場所に使っていた。それぐらいワイルドでないとこういう土地では生きていけないのだと、自分のひ弱さを思い知らされた。

 夫が来てくれてからはレンタカーを借りたので、わたしの行動範囲は日に日にひろがっていった。なんの変哲もない土地でも道がわかるようになり、車で20分程度のところにある小さな町中にも夫とふたりで買い物へ行けるようになった。アートファームの敷地には鉄板やら鉄柱がいっぱい転がっており、アーク溶接の機械もあったので、夫も独自に彫刻を制作しはじめた。
 船と鉄道だけでスイスから何日もかけてやってきた女性アーティストや、キャンピングカーでアメリカを横断している男性アーティストも加わり、日本へ帰る10日前には、来たころには想像もつかないほどの大所帯になっていた。毎晩野外でバーベキューをやるような日々に変わった。世界で一番楽しかった旅はどこですかと訊かれたら、ネブラスカと答えるくらい好きになっていた。
 帰国の前々日、エドさんがアートファームでアートイベントを企画してくれた。わたしはレンガを積みあげ直径10フィートの円の囲いをつくり、そのなかに陶板を敷いて干し草で野焼きするパフォーマンスを披露した。エドさんがメールで知らせた範囲だったが、30人くらい客が集った。エドさんと親しくしている美術に関心のある人たちだろう。
 アメリカ人のいいところは、こういうところだ。知人がなにかやると連絡をくれれば、その日は必ず時間をつくり、車で1時間かかろうと駆けつけてあげる。人種もバラバラ、隣人も遠く離れて住んでいるとなれば、それくらい義理堅くなければ自分たちの文化は育たないという意識でもあるのだろうか。日本のように群れやすい土地柄とはちがい、生きるために必要な技を個々が身につけ精神的には自立しながらも、結束するときは結束する。人間関係の風通しのよさだけは、日本人として羨ましく思う。

 最後のアーティスト・イン・レジデンスと位置づけたのに、文芸という新しいジャンルに飛び込んでからも度々ここでの日々を思い出す。極限の寂しさと素朴な人々との触れ合いを経験できたネブラスカが、いまでもわたしのなかで深く根をおろしている。
 スマホという手のひらサイズの端末を介し、常に誰かと繋がっていられる状況に、最近息苦しさを感じるようになってきた。かつては表現活動のためネットを利用していたにもかかわらず、友人知人を増やさなきゃ、情報から取り残されないようにしなきゃという観念は、果たして正常なのかと疑問に思ってしまう。
 ネブラスカで得た幸福感は、断食したあと一杯の粥の味に感動するようなものだ。家に籠って長篇を書きあげたりすると、似たような快感を味わえるのだが、知らず識らず前述の観念に流されていると、自分に集中する体勢づくりからはじめなければならない。氾濫している情報はほとんど手垢がついているし、個人の表現が目的ならば、他人とおなじものを追いかけても大した収穫にはならないと自分に言い聞かせながら。
 ネブラスカの体験を他人に話したことはほとんどない。草を刈るのがどうしてアートなんですかという質問がまず来るだろうと、話す前から面倒くさかったのだ。極限の寂しさもなかなか捨てたものではないよと書いておきたくなったのは、それが難しい時代になってきたからかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?