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短編小説 | うちには大きな亀がいます

 助手の鈴木は、ジャケットに袖を通しはじめた坂根を見ても、いちいち間を置いてゆったりとしゃべった。
「候補地はですねぇ、リッチロイヤルホテルか金閣苑ってところなんですけどねぇ」
 坂根は鏡の前にいるように、ジャケットの襟まできっちり整えた。
「本代込みで1万円でどうでしょう」
「いま何時だ」
 鈴木が腕時計を見やる。「ええっと、5時を回ったところですね」
「帰って犬の散歩に行かなきゃならん」
「犬の散歩は何時までっていう決まりでもあるのですか?」
「うちはある。切実に」
「はあ」
「つづきは明日にしてくれ。さあ、出た出た」
 坂根はコーヒーカップを流しにさげて、洗うのは明日にしようと水にだけ浸けておいた。鈴木をおいたてるようにして研究室を出る。
「先生、ひとつだけ」
「なんだ」
「パーティーには奥さんも来られますよねえ」
 坂根は軽く首をかしげた。「どうだろうな」


 坂根の車は最新型のEV車だった。S中学校の前を通ると下校中の生徒から指をさされた。どうしてボディカラーをイエローなんかにしたのだろう、もっと一般的なブルーやホワイトにすればよかったと坂根は毎日のように後悔する。
 車を降りてからも、道路で遊んでいる子どもたちの眼が気になってしかたがない。飼い犬の姿が庭に見あたらず、あわてて玄関の扉をあけると、犬はすでに三和土にあるベッドの上で休んでいた。下駄箱の下に、かたく口を縛られたレジ袋があった。
 坂根はリビングにすっ飛んでいった。
「つゆ子。ボッチャンの散歩はわたしが行くと言っているだろう」
 キッチンカウンターの奥の、ねずみ色をした甲羅がのっそりと裏返った。甲羅の裏は肌色で、筋肉質な割れた胸板のように、縦に一本、横に数本筋が入っている。甲羅から首を出している妻は野球のアンパイヤみたいだった。手にもったジャガイモは、さながら白球といったところか。
「かめ子です」
「……かめ子。どうして散歩に連れていくんだ」
「スーパーへ買い物に行くついでだったのですよ」
「うちは生協を頼んでいるじゃないか。スーパーへ行く必要なんてないだろう」
「たまたま生姜をきらしていたのですよ」
 舌打ちしながら坂根がリビングのソファーに座ると、肘おきの隅で丸まっていた猫がギャッと鳴いて飛びおりた。
 ドッガッガラガッチャーン!
 物音で坂根は振り返る。台所に妻の姿はない。
 様子を見にいくと、妻はしゃがんで食器の破片を集めており、キッチンカウンターの陰に隠れてしまっただけだった。猫が毛を逆立てて、まわりをうろついている。妻は破片を持ったまま、よたよたと立ちあがった。
「1週間に1枚は割っているんじゃないのか。まったく不注意なやつだな、おまえは」
 妻は流しに破片を置いたあと、再びしゃがみ込んだ。そのまま甲羅のなかへ頭と腕を引っ込めると、ダスンと腹這いになって倒れた。キッチンカウンターから流しまで、巨大な亀の甲羅が占領していた。
「すねているつもりだろうが、足は隠しきれていないぞ。つめが甘いな、おまえは」
 甲羅から返事はなかった。猫が甲羅の開口から、手を入れては後ずさった。


 夕食はカレーだった。
 生姜を買いにいく必要性がどこにあるのだと坂根が問いつめると、カレーは生姜を入れなきゃおいしくない、と妻は答える。その泰然とした態度に腹をたて、近所から《亀おばさん》と噂されているんだぞ、と忠告すると、それがどうしたんです、と言わんばかりに妻は大盛りにすくったカレーを口に入れた。
「来月にはわたしの出版記念パーティーがある」
「……知ってますよ」
「なんだ、のり気じゃないな。いい服を買ってやるから、おまえも出ろ」
「いい服着たって、ほとんど甲羅で隠れちゃうんだけどな」
「なにを言っているんだ? どこの世界にパーティーへ甲羅をかぶっていく女がいる?」
 妻はくすりとほほ笑んだ。その女はここにいますよ、と言いたげであった。4人がけのテーブルに1脚だけ背もたれのない椅子を持ってきて、甲羅をかぶってでも座れるように工夫をしているが、そこまでして執着する理由が坂根にはわからない。車は運転しにくくなったため家にこもりがちになったが、近所であれば歩いていってしまうのだ。
「茶、淹れてくれ」
 妻は椅子から降りると、台所まで四つん這いで歩いた。
「なにをしてるんだ」
「最近、こうやって歩くほうが楽なんですよ」
「そりゃそうだろうな」
 妻は流しの上に手をかけると、よっこらしょ、と言って立ちあがった。「お番茶でいいかしら」
「ああ、なんだっていいよ」
 坂根は深いため息をついた。


 夕食後、坂根は風呂に入り、それから書斎で著書の最終ゲラチェックをしていた。タイトルは《夏目漱石と明治の女性観》。最後まで朱をいれ終えると、卓上カレンダーを見た。出版記念パーティーは、ちょうど1カ月後の11月3日である。坂根はまたひとつ、ため息をついた。
 妻が甲羅をかぶりはじめて3カ月がたつ。
 坂根が中国への出張から帰ってくると、床の間に巨大な亀の甲羅が飾ってあった。ネットオークションで、130万円で競り落としたという(競争相手がいること自体、謎だったが)。無駄遣いだ、すぐに返品しろ、と怒鳴ると、妻は甲羅をかぶって頭と腕を引っ込めてしまった(そのときも、足は出たままだった)。それから、ほぼ肌身離さず甲羅をかぶるようになった。執筆に必死だったから、あまり考えがまわらなかったが、このまま放ってはおけない。
 妻が甲羅を脱ぐときといえば――、
「風呂だ!」
 坂根は立ちあがり、風呂場へ向かった。

 脱衣所に衣類は脱ぎすててあったが、甲羅は置いていなかった。風呂場のすりガラスの扉越しに、妻が黒いかたまりにシャワーをかけている様子がうかがえる。シャアアアア、ワシュッ、ワシュッとブラシを擦る音もする。
 たしか風呂場に亀の子たわしが置いてあったが、あれで甲羅を磨いているのだろうか。甲羅を奪いとる機会が見当たらなかったが、毎日風呂へも持ち込んでいるのであれば、磨くためにいったんは脱いでいる、ということだ。
 坂根は想像する。
 風呂場へ入った妻が甲羅を磨き終えたあたりで、そう、妻がのんびり湯舟に浸かっているあたりで襲撃する。「あなた、なにするの?」「この甲羅はわたしが預かっておく」と甲羅を風呂場から持ち去る。で、どうしようか。妻は身体もびちゃびちゃなまま追いかけてくるだろう。そのまま焼却炉へ甲羅をポイ、とできれば、めでたしめでたしなのだが、うちにそんな設備があるわけがない。近所にあるとすれば、S中学校だろうか。妻は外へ出る前に一応服は着るだろう。いくらなんでも裸でびちゃびちゃなまま追いかけてはこないだろう。
 ――いや。
《亀おばさん》と近所で噂されようとも平気で、出版記念パーティーにも甲羅を着ていくつもりの女だから、裸でびちゃびちゃはあり得るかもしれない。そんなことは絶対にあってはならない。それならば、まるまる焼却炉へ捨てる作戦ではなく、家のなかで粉砕してしまうほうが得策だ。粉砕してしまえば、妻もあきらめるだろう。外へ捨てにいくのは、たぶんそれからがいい。
「明日、ホームセンターへ行こう!」
 坂根は自らを奮い立たせるようにひとりごちた。


 日付が変わるころ、坂根は先に寝室へ入り、クイーンサイズのベッドの上で読書をしていた。
 おくれて妻が寝室にやってきた。甲羅はパジャマの上からかぶっている。部屋の電気を消すと、坂根がつけていた読書灯の光源のみになった。妻は絨毯の上へ腹這いになり、甲羅をいったん脱ぐと、今度は仰向けになって甲羅にもぐっていった。寝るときだけ、甲羅を前うしろ逆にして、信楽焼の狸が寝ているような格好になるのだ。

「おい、つゆ子」
「かめ子です」
「かめ子。もう10月だぞ。布団もかけずに寝て、寒くはないのか」
「亀なんてこんなもんでしょ。それに、わたしにはこれがあるのよ」
 妻は首の開口部から猫の頭を出してみせた。
「サンシロウ、いつの間に」
「うふふ。この子がいれば、お腹は寒くないもんね」
坂根は読書灯を消し、妻へ背を向けるようにして眠りについた。

 夜中、尿意をもよおし、目が覚めた。
 妻は毛布を足に引っかけ、うがーと気持ちよさそうなイビキをかいている。猫は甲羅のてっぺんで丸くなって寝ていた。
「甲羅甲羅甲羅って、なんなんだいったい」
妻の足をまたいで寝室を出、トイレから戻ってくると、猫はベッドの上に移動していた。坂根は甲羅の横に正座して、妻の寝顔をまじまじと見た。
――これは、わたしに触れさせないようにつけた鎧なのかも知れぬ。
 腕の開口部からそっと右手をいれてみた。妻のパジャマのボタンをはずし、そっと乳房を触ってみる。
「こんなにすべすべなのに、どうしてこうなったんだ?」
 45歳になる妻の肌は、30代のころとちっとも変わらなかった。今度は足のほうへ回ってみる。毛布をとると、妻は足をクの字に開いていた。パジャマズボンをつかみ膝上までずりさげた。もちろん、パンツも一緒に、だ。恥部がひそむ甲羅のなかへ、手を突っ込んでみる。
「おーい、わたしはこれからどうすればいいんだー」


 翌日は1講目の授業がなかったので、坂根は出校前に近所のホームセンターへ立ち寄った。妻が甲羅をかぶりはじめてから、蛍光灯を一度買いにきたきりで、どこになにがあるのかまだ把握できていなかった。ドリルやドライバーなどの工具売場へ行ってみたが、甲羅を砕けそうなものは見あたらない。ぐるりと店内を1周してみた。園芸売場の一画にイメージしていたものはあった。――草刈り鎌、――高枝切り鋏、そして――斧!
 一番頑丈そうな斧を手に取って、革カバーを外してみた。鋼が分厚くて、根元にくさびが打ち込まれて手作り感を醸し出しており、黒く焼きしめられたところに〈570g〉と刻み込まれている。4980円と安くはないが、確実にモノをしとめられなければ、そう多くはないチャンスを逃してしまう。これだ、これしかない、と坂根はその斧をにぎりしめ、レジへ向かった。


 午後の授業を終えてすぐ、坂根の研究室へ鈴木がやってきた。
「先生、パーティーの案内状を出すリストをつくってきました」
 ソファーに向かいあって座ると、鈴木はプリントアウトした紙をローテーブルに差し出した。
「ほかにも招待したい方がいらっしゃれば、リストに加えてください」
「わかった」
 坂根は老眼鏡をかけて、紙を手に取った。
「それから、会場の受付係を2名ほど決めたいんですけどね」
「別に、だれだっていいよ」
「渡辺かほりさん、がやってもいいですって」
「え?」思わず大きな声が漏れてしまった。とっさに咳払いでごまかす。「彼女、卒業生だろ? 忙しいんじゃないのか」
「先日、大学に来ていましたよ。会社辞めたらしいです」
「へえー」
 坂根の頭にぼやっとした彼女の輪郭が浮かんできた。結いあげた髪の下にのぞく白いうなじ。ほどよく脂肪がついていて、彼女の首筋を見ると、いつもいろんな妄想が広がった。あそこには豆乳のようなエキスがつまっていそうだとか、肌ざわりはマシュマロのようでいて歯ごたえはグミキャンディーに近そうだとか。
 鈴木がこまごまとした質問を重ねてきたが、うん、うん、とただうなずくだけになっていた。
「奥さんも来られますよね」
「へっ? ああ、行くだろうとも」
 なんだ、行くだろうともって。鞄からホームセンターの白いレジ袋が見えた。今日買ってきた斧だった。早いうちに甲羅を処分しないとな、と決意は固くなってきた。


 この日も妻は、坂根が帰宅する前に犬の散歩へ出かけてしまっていた。
 理由は生姜を買いに行くついででもなんでもなく、ただ散歩に行きたかったから行ったと言う。坂根は妻を殴りたい衝動にかられた。しかし今朝買ってきた斧の存在が、抑制力となった。
 夕食のあと、坂根は書斎にこもって計画をたてた。買ってきた斧をレジ袋から出して、革カバーも外してみた。はたして、どれくらいの威力があるのだろう。デスクに埃をかぶっていたガラスの灰皿があり、それを床において斧をおもいきり振りおろしてみた。
 ガッ!
 凹んだほうを下にしていたせいか、灰皿は大きくふたつに割れた。こまかい破片も飛び散った。これは結構いけるかもしれない、と坂根は割れた断面を確認した。
 突然、廊下で物音がした。坂根はあわてて斧を抱きかかえる。
 物音はなくなった。猫だろうか? いつ何時妻が入ってくるかわかったものではない。
 犬の散歩用のフリースジャンパーを羽織ってみた。リバーシブルなタイプで、内側にポケットがあり、そこに斧をしのばせてみる。たしか、有名な小説でこんな一場面があったような気がする。そう、ドストエフスキーの『罪と罰』だ。暗い自我をもつ近代小説の主人公と自分は同じなのだ、と坂根は集中力を高めていった。


 いよいよ妻が入浴する時刻になった。
 坂根は足をしのばせながら風呂場へと向かう。廊下まで、妻の鼻歌が聞こえている。警戒している様子はないとみて、坂根は普通に脱衣所の扉を開けた。
 見ると亀の甲羅が、洗濯機と壁のあいだにきっちりと収まって、浴室の前を立ちはだかっていた。甲羅は堂々としており、坂根はその存在感に一瞬たじろいでしまったが、こうして脱衣所に置いてあるなんて、絶好のチャンスだと思い直す。甲羅があるせいで、妻からも自分の姿は見えないだろう。よし、とフリースジャンパーの内側から斧をとり出した。振りあげたとき入口に引っかけないかをシミュレーションした。大丈夫だと確認すると、甲羅の上部に斧を振りおろした。
「せーの!」
 ガイン!
 甲羅はとても硬く、手がしびれて柄を落としそうになった。
「くそっ!」
 がむしゃらに振りおろしてみた。
 甲羅にはうっすらキズがついただけだった。不毛な動作のようにも思えたが、坂根はひと呼吸おくと、つけたキズに斧の刃をあてなおし、じわじわと体重をかけていった。
「なにしてるの?」
 いつの間にか、浴室の扉が開いていた。目と目が合ったあと、妻は坂根の手元を一瞥した。
「なにやってくれてるのよ!」
「悪いが、甲羅は処分することにしたのだ」
「ひどぉい!」
 ドアが開いていくように、甲羅がゆっくりと回転した。
 浴室に髪の毛から足の先までびちゃびちゃな妻が立っていた。たるんだ二の腕からしずくをたらし、お腹もぽっこり出てしまっている。浴室から出てくると、甲羅のキズついた部分をやさしく撫で回した。
 妻はひぃひぃと泣きはじめる。いくら撫でても元へ戻らないと思ったのか、大事な絵画を運ぶように甲羅をもって浴室へ入ってしまった。
 浴室から激しい慟哭が聞こえてくる。しつこく吠えるような泣き声は、反響し、おそらく隣近所にもまる聞こえだった。
「もう知らん!」
 坂根はすべてが嫌になり、いらいらしながら煙草を探した。
 煙草はリビングに置き忘れてあり、見つけると台所の換気扇を回した。斧をまな板の横におき、煙草に火をつけた。
 次の作戦が思い浮かばない。一度失敗してしまったから、妻は警戒し、ますます甲羅を離さなくなるだろう。今後使い道のなさそうな4980円の斧が、ひたすら恨めしかった。
 リビングへ毛を逆立てた猫が入ってきた。
「サンシロウ、どうしたんだ?」
 騒音が気になるのかと煙草を流しでもみ消して、換気扇を止めてみた。が、猫の様子は変わらない。するとかすかに、甲高い女の声が聞こえてきた。
「あなたー」
 声は風呂場からするようだった。近づいてみると、さらにはっきりと聞こえてきた。「助けてー」
 浴室の扉を開けてみた。
 妻は甲羅をかぶったまま、湯舟に浸かっていた。顔だけを坂根に向けて、眉をハの字にさせている。
「なにをやってるんだ?」
「ここから出られなくなっちゃったの」
「どうしてそんなものをかぶって湯舟に浸かろうとするんだ?」
「だって」妻はシャワーヘッドのあたりを見つめた。「肌身離さずつけておかないと、あなたが奪いにくるでしょ」
「自力では出られなくなったのか」
 妻はこくっとうなずいた。
「前に来て、わたしの腕を引いてくださいな」
「やれやれ」
 坂根は靴下を脱いで、妻の前方へまわり浴槽の縁に足をかけた。
「せーの、で腕を引くからな。おまえも浴槽の壁を蹴るんだぞ」
「はい」
 せーのと声をかけ、妻の腕を引っぱった。が、甲羅は1ミリも動かず、かわりに坂根が妻へおおいかぶさるように湯舟へ落ちた。
 浴槽から這い出た坂根は、次は妻のうしろへ回った。甲羅を上から押してみたのだが、わずかに動いただけで、そこから微動だにしなくなった。妻はリクライニングシートをさらに倒したような体勢になった。
「ちょっと待ってろ」
 坂根はずぶ濡れになったパジャマを洗濯機に突っ込んで、台所に向かった。斧を手にとると風呂場へ引き返した。
 妻は坂根を見て驚愕した。
「いやあ! わたしを切り刻む気なの?」
「馬鹿言うな。甲羅と浴槽のあいだに隙間をつくるためだ。危ないからちょっと腕をあげていろ」
 妻が頭のうしろに腕を組むと、プチプチと黒いものが腋の下からあらわれた。
「むだ毛処理もしていないのか、おまえは」
「だって朝の情報番組で、むだ毛処理に失敗して化膿した人が紹介されてたんだもの。怖くって」
「エステへ行け、エステに。金は出してやるから」
 甲羅の後部と浴槽のあいだに斧の刃先を押し込んでみたが、数ミリ入っただけで、それからはどうにもできなかった。
 これはもう、レスキュー隊などの特殊部隊を呼ぶしかないと判断したとき、複数の隊員がここへ集まり、妻を救出する絵を想像してみた。身震いがした。この光景は奇怪すぎるだろう。自分はたいていのことでは驚かなくなっているが、この状況をだれが理解できるというのだろう。
 ――いや、それだけではない。
 猫がマンホールの下から救出されるだけでニュースになるようなご時世だ。亀おんな救出作戦は、明日の朝、おもしろおかしく報道されるに違いない。今夜のうちに、この国に巨大隕石でも堕ちてくれれば無視されるかもしれないが、通常ならば地方版くらいには載りそうではないか。
 それよりも、《亀おばさん》の噂はすでに近所で広まりつつある。救急隊員がこの界隈の人間ならば、未来永劫語り継がれることだろう。都市伝説、「亀おばさんは甲羅をつけたまま風呂へはいり、浴槽から出られなくなった」。
 これから電話して、他府県の特殊部隊を呼ぶことはできないだろうか。至急ではないと断りおけば、微妙な注文に応じてはくれないだろうか。ならば、こう返されるかもしれない、「申しわけございません。緊急事態にだけ電話をしてください」。
 いつの間にか浴槽の水位がさがっていた。妻が栓のチェーンを握っている。ごぽぽぽぽん。音をたてて、水はすべて流れていった。
「どうしていま栓を抜く?」
「ん?」妻がとぼけた顔をしている。
「脱出方法が見つかっていないのに、冷えるだけじゃないか」
「んふふ。おしっこしちゃったからお湯を抜いたの。また沸かすから」
 ――おしっこ? 
 そうだった。人間には生理現象がつきまとう。ここで妻が身動きとれなければ、排泄物の処理は場合によっては自分がしなければならない。やはりレスキュー隊を要請しなければならないのか。どんな都市伝説が流布しようとも、ここは妻の命を優先させるべきなのか。
「明日、ホームセンターでバールを買ってくる。《てこの原理》で力を伝えなきゃならんのだろう。それまで待てるか?」
「大丈夫よ。最初はあせったけど、これはこれで居心地いいかも」
「トイレはもう大丈夫なのか」
「ええ、もうすっきりよ」
「わたしはもう寝る。疲れた」
「ごめん、あなた。ここにラジオと文庫本数冊持ってきて」


 翌朝、朝食は坂根が用意し、風呂場に運んだ。
 湯がぬるくなったためか、妻は風呂を沸かし直していた。
 朝食の載った盆を湯舟に浮かべると、妻は、これ便利ね、と喜んだ。坂根はバスチェアーにすわって、おなじ朝食を食べた。
「今日は1講目、2講目と授業がある。ホームセンターへは朝から行けない」
「急がなくていいわよ。死ぬわけじゃないんだから」
「わたしは早く解決したい。時間がたてばたつほど、手段がせばめられていく気がする」
 脳裏にレスキュー隊のオレンジ色の制服がよぎった。坂根は打ち消すように首を振った。
「ねえ、あなた」
「なんだ」
「これって、ジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』みたいよね」
「おしゃれなフランス文学といっしょにしないでくれ」
 浴室の鏡に、疲れきった自分の顔が映っていた。無精髭を生やしていたが、剃る気はまったくおこらなかった。この状況で妻は死にはしないだろうが、何日もこんな朝を迎えるわけにはいかなかった。バールだ、バール、と坂根は自分に言い聞かせた。


 2講目の授業終了後、坂根は車を飛ばしてホームセンターへ向かった。大学からおよそ15分。店の駐車場はチェーンで出入口がふさがれており、車は1台も停まっていなかった。
「定休日か。ついてないな」
 ハンドルに額をつけてうなだれながら、カーナビで近くのホームセンターを検索してみる。検索結果では隣町のホームセンターが一番近そうだった。2時から会議が入っていたが、すっぽかしてやろうと移動しはじめた。
 途中、尿意をもよおしてきた。
 2講目の授業中からその気配はあったが、ホームセンターですればいいと先を急いできたのだった。1軒目にいったんはたどりついたせいか、気がゆるみ、我慢できなくなっている。《立ち》ができそうな場所をさがしながら、散漫に運転をつづけた。
 ふと、自分がやろうとしているのは、浴槽に尿を垂れながす妻と同じだと思った。いかんいかん。トイレにちゃんと行こうと思っていると、ある自動車整備工場が目に飛び込んできた。
 そこはガレージふたつ分くらいの、小さな工場だった。坂根はバールとトイレで頭がいっぱいになりながら、道路脇に車を停めた。
「すみませーん」
 声をかけてみると、整備中の車の下から、鼻を黒くした工員が仰向けになって出てきた。
「なんの用だい?」
「車が……、トランクが開かなくなってしまいまして、バールをお借りできないかと」
 工員は気前よくバールをもってきた。尺は60センチほどある。
「これでいけるかい?」
「はい、長さも十分だと思います」
「どの車?」と工員は首をのばし、坂根の車を見た。「ふーん、新車じゃねーか。自分で開けるっつーの?」
「はい。それからあのー、ここのお手洗いをお借りできないでしょうか」「はいはいどうぞ。そこの角を曲がって、裏へ行く途中にあるよ」
「ありがとうございます」
 工員と交渉しているあいだ、いまにも放たれてしまいそうだったが、どうにかトイレには間に合った。
 安堵の吐息をつきながら店の前へ戻ってみると、自分の車が膨らんでいるように見えた。目を細めて近づいてみる。車はトランクが上へ跳ねあがっていた。ぎょっとして駆けつけると、トランクにこじ開けられた痕があった。工員がバールを持って得意そうにしている。黄色の塗装から一部がはげて銀色になっており、小さなく凹みができていた。
「最小限のキズにとどめておいたよ」
「なんてことをしてくれたんだ!」
「これくらいのキズなら、うちがきれいに直してやるって」
「いいえ結構です。あー、あー」坂根は頭を抱えた。「お手洗い、ありがとうございました。あー、あー」
 気持ちの遣り場がないまま、坂根は次のホームセンターへ向かった。ようやくたどりついたその店に、どういうわけかバールだけが売り切れていた。店員に尋ねても、入荷は来週以降になると言われた。
 帰りの車中で、坂根はさめざめと泣いていた。
 いろいろあったなかで、なにが一番悲しいかというと、新車にできたキズなのだった。しかもまだ、バールは入手できていないのだ。あんな鉄の棒一本のために、どれだけ犠牲を払わなければならないのだろう。


 大学へ戻ったとき、2時はとっくに過ぎていた。
 今日は重要な会議だと聞いていたのに、一時の感情でバールを買うことを優先させた自分の行動を悔いていた。空腹だったが、悠長に遅い昼食をとっているところを見られたら、陰でなにを言われるのかわかったものではない。坂根は会議室へ直行した。鞄を持ったままで、外から帰ったばかりなのはまるわかりだったが、急いで来たという誠意だけは見せよう。
 会議室のドアノブに手をかけたとき、なかから学部長のしゃがれた声が聞こえてきた。
「いいんじゃない、彼の意向はわざわざ聞かなくても」
「彼は細かいところがありますから、あとで面倒くさいですよ」
 なかで冷ややかな笑い声がおこっていた。
《彼》とは自分のことだろうか、と坂根は身を固くする。
 ――いや、学部長がわたしのことを悪く言うはずがない。学部長選挙のとき、あれこれ根まわしして劣勢だった彼を盛りたてたのは、このわたしではないか。
 坂根はドアに顔を近づけ、耳をそばだてる。
「だってさぁ、毎日5時前にさっさと帰っちゃうんだもの。彼の年齢だったら、もっと大学のために働いて当然だと思うんだけどね。他人まかせにもほどがあるよ」
「執筆活動に追われていたのでは? 近々、出版されるんでしょう?」
「自分の研究実績あげることだけは熱心なんだよ。利己主義って言うの? そんな人のことまで我々が配慮する必要ないでしょ」
 坂根はその場で静かに膝をついた。確実に自分のことだと判明し、愕然とした。たしかにここ数カ月、出版に向けて準備はしていたが、毎日早々に帰宅していたのはそのためではない。妻が、妻が、亀の甲羅をかぶって犬の散歩へ行ってしまうからではないか! わたしには妻が甲羅をかぶる理由がまったくわからない。そしてあんな格好のまま、外に出ていってしまう神経がわからない。自分がわからないでいるのに、どうやって世間に説明ができよう? その結果がこれだ。《利己主義》。これがわたしの他人からの評価なのだ――。

 坂根はいまにもへたり込みそうになりながら、とぼとぼと研究室まで歩いていった。文学部国文科の研究室のならびは、どこの窓からも灯りが消えていた。みんな会議に出席中なのだ、あの場にいないのは自分だけなのだ、と坂根はいたたまれない気持ちになっていた。
 鞄から研究室の鍵を探していると、足音が近づいてきた。それは坂根の横で止まった。「坂根先生」と女の声。
 見るとそこには卒業生の渡辺かほりが立っていた。
 彼女は学生のころよりも、ずっと大人びていた。スーツ姿なので、そう見えるのだろうか。巻貝のように髪を結っていて、あいかわらず白いうなじには目がいってしまう。
「どうしたの、大学になにか用事?」
「はい。ここが事務職員の募集をかけていたので応募したんです。採用が決まったので、今日は契約書を貰いに来ました」
「渡辺くんは、いい会社に勤めていたんじゃないの? うちの事務職なんて、給料はたいして出ないでしょうに」

 かほりは菩薩のような笑みを浮かべて黙っている。
「まあいいや。どう? 研究室でコーヒーでも飲んでいく?」
「先生のご迷惑でないのなら」
「迷惑だなんて全然。いまかなり凹んでいたから、きみみたいな美女とお茶ができたら気分も晴れてちょうどいいよ。あ、美女なんて言っちゃまずいのかな。セクハラとか、そういう類いで見られるのかな」
「なにか大変なことでもあったのですか」
「歳をとるとね、いろいろとあるんだよ。まじめに生きているのに、がっくりくるようなことがさ。まあどうぞ、なかへ入って」
 坂根はかほりをなかへ案内し、ソファーにすわらせるとコーヒーメーカーをセットした。冷蔵庫にいただき物のレイズン・ウィッチがあったので、それを差し出すと、かほりは恐縮して立ちあがった。坂根は、まあまあ、と言って、差し向かいに座った。
「で、来年の春から勤務開始なの?」
 かほりは小さく首を振った。「いいえ、10月からです」
「本当? 中途採用なんだ。そいつは嬉しいねぇ」
 坂根は口を滑らせてから、いけないと自分を戒めた。
「ごめん。下心で言っているんじゃないんだよ」
「わたしも嬉しいです。坂根先生といっしょにお仕事できるんですもの」
「おいおい。そんなこと言われたら、おじさんは本気にしてしまうよ」
 かほりが伏し目がちに押し黙るので、坂根は急に心臓がどきどきしてきた。沈黙を打ち破ろうと言葉を探したが、軽くいなすのは違うような気がした。かほりがまっすぐに坂根を見つめる。
「わたしはずっと本気でした」
「え?」
「学生の立場では、先生に想いを伝えても迷惑だと思っていました。でも、これからは、違います」
 坂根は胸と下半身がキュンとしめつけられた。
 彼女は学生のころ、坂根の講義には1日たりとも欠席せず、何度も質問に来てくれた。彼女から熱いまなざしを感じることもなくはなかったが、勘違いだろうと自分を制していたのだ。
「出版記念パーティーのお手伝い、受付以外にもなにかありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
「え? ああ」
「そのことが大変だったのでしょうか」
「いや、そういうわけでは……」
 坂根は首をひねりながら泣きそうになった。無理矢理笑顔をつくってこの場をのり切ろうとしたが、律していたものが瓦解していき、柔らかいものに無性にすがりつきたくなった。
「渡辺くん、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな」
「はい」
 かほりは、覚悟はありますとばかりに呼吸を整えた。
「きみのうなじ、一回吸わせてもらえないだろうか」


 チューチュー、ジュパッ。チューチュチュチュー、ジュッパッ!
 1時間近く、かほりは坂根に首筋を吸われたまま、じっとしていた。くすぐったいとも言わなかった。肩を抱かれた状態で、首を右斜め45度にかしげ、ソファーに座っていた。
 坂根は一度うなじに吸いつくと、やめられなくなった。吸ったところで豆乳味のエキスが出るわけでもなかったが、長年の夢が叶えられ、死んでもいい気分になっていた。ときどき、やっていることに対して情けない気持ちが込みあげてきたが、風呂場で待っている妻を想うと、吸わずにはいられなかった。
「先生……」
 かほりが弱々しく声をあげた。
「あっ、ごめん」
 坂根は口から透明な糸を引いた。かほりの首は左うしろが赤く染まっていて、歯形が数カ所重なるようについていた。
「無我夢中になってしまった。すまない」
「すみません。そろそろ別の用事があるので」
 部屋の時計は4時を回っていた。
「どうしよう。首にくっきり歯形がついてしまった」
「大丈夫です」
 かほりが頭のうしろへ手をやると、長い髪の渦がとかれて、まっすぐにおりた。
「先生、またいつでも吸ってください」
「ありがとう。それを心の支えに生きていくよ」
 かほりは一礼すると研究室を出ていった。
 坂根はしばらくひとりで放心したあと、帰ることにした。
 校舎の外へ出るには、会議室の前を通らなければならなかった。
 会議室の扉のスリットから灯りが漏れていて、坂根以外の教員がそのなかで議論を交わしているのが窺えた。だれひとり出てこない雰囲気であるのが、やはりうしろめたい気持ちにさせるのだった。


 家の近所のホームセンターで、バールはようやく購入できた。
 車を自宅の駐車場へ入れると、犬が門越しに顔をのぞかせていた。
 お散歩は? お散歩は? 濡れた瞳で催促してくる。
「ごめんボッチャン、今日は散歩どころじゃないんだ」
 玄関でただいまーと大きな声で言っても、家のなかはしんと静まりかえっていた。
「つゆ子、帰ったぞー。バールも買ってきたぞー」
 風呂場から返事はなかった。いやな予感がした。
 浴室の扉は猫が出入りできるよう10センチほど開けてあったが、なかから物音ひとつしなかった。
「つゆ子」と呼びかけながらはいると、心臓がちぢみあがった。
 妻は浴槽の外へ腕をだらんとおろし、首もがっくり前へ垂れていた。坂根の口のなかは一瞬でからからになった。《溺死》という二文字が頭をよぎる。無理矢理唾液を飲み込み、おそるおそる妻の頬に手を伸ばした。
「つゆ子」
 びくん、と妻が反応した。顔をあげると、垂らしていた涎をずひっと飲んだ。目をぱちぱちさせながら坂根を見た。
「あなた、お帰りなさい」
「死んでいるかと思った……」
「ずっと湯舟に浸かっていたら、眠たくなっちゃうわね」
「買ってきたぞ」
 坂根はバールが半分はみだしたレジ袋を妻に見せた。
「そんなことより、お腹がすいて死にそうなの」
「そうだったな。朝食を食べたきりだもんな。そういえば、わたしも昼を食べ損なった。寿司でもとろうか」
「きゃー、お寿司ぃ! 嬉しい!」
 出前の寿司を待つあいだ、坂根はバールを甲羅と浴槽の隙間に突っ込んで格闘した。
 バールの柄の真ん中あたりを浴槽の縁にあてて、支点をつくってみたのだが、甲羅はびくともしない。場所をいろいろ変えてみた。が、どの位置からも、妻の重心がうしろにかかっているので、前から引く力がなければ負けてしまうとわかった。坂根の心は折れそうになった。
 ピンポーン。
「あっ、お寿司よ。あなた、お寿司が来たわよ」
 バールが機能しないことなど、妻は意に介さないようだった。
 とりあえず届いた寿司を食べることにした。
「これ、ひと桶いくらするの?」
 妻は寿司桶を湯舟に浮かべ、食べる順番を真剣に考えている。暢気だなあと坂根は思う。
「2800円」
「まあ、そんなに豪華なの」
 妻はしゃりを口から見せながら、にっこりと笑った。
「ここにずっといるのも悪くはないわね」
 田舎に移り住んだ家族が山を見ながら言いそうな台詞だった。妻の確信に満ちた表情に、坂根は言葉が出なかった。
 好物の中トロのにぎりをやると、妻はさらに調子にのってきた。
「ねえ、あなた。あがりを、熱いお茶を持ってきて」



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