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憂世で生きる智慧

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楽しき時は楽しく、楽しからざる時も楽しく(日々是好日) 生きとし生けるものが幸せでありますように。 #憂世で生きる智慧 #仏教 #学び #最近の学び #気づき #日々の気づき #…
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青樹謙慈(アオキケンヂ)自己紹介

Noterのみなさま、こんにちわ。アオキケンヂと申します。 先日(2024年5月初頭)からnoteを始めてみました。 『憂世で生きる智慧(うきよでいきるちえ)』を執筆しています。 自己紹介極めて内向的で人見知りが激しいです。 世渡りが下手で、社会性がないことは自覚しています。 敏感で感受性が強く、いろんなことが気になります。 誰かのちょっとした発言(文章)、言葉づかいにも敏感に反応して、いつももやもやしていました。それで、そのもやもや感を、チラシの裏になぐり書きして言語化し

般若心経02/大乗仏教【仏教の基礎知識16】

霊性を否定したる宗教はありえない カルマに法則はない 神の定義が明確でないと明確に伝えることができない。例えば、天界を統べる存在や、この世界で言うところの大統領や権力持つような高位の神々、絶対者がいる。これらの存在があるからこそ、カルマ(業)の概念が成立するのであって彼らなしではカルマの法則は成り立たない。 カルマ自体は単なる記録であり、それ自体では因果は働かない。裁く者がいるからこそ、カルマが作用する。ちょうど裁判所がなければ法が無意味になるのと同じだ。カルマは、過去

般若心経01/大乗仏教【仏教の基礎知識15】

苦の根源(無明) 私たちは、この世界の外側の価値や地位を追い求め、それによって幸せになれると考えている。しかし、この外的な価値を追求している限り、どれだけ上に行こうが下に行こうが、一度その場所に身を置いたら、内情は同じだ。誰もが自分の置かれた状況の中で、苦しみと戦っているのだ。 そして、とにかく「上」へ上がり、それらの目標に到達さえすれば、幸せになれるのではないかという期待を捨てきれずに、私たちは自分の今までの生き方を続けている。しかし、その期待は常に裏切られるのだ。 ブ

中観派の分裂/大乗仏教【仏教の基礎知識14】

中期中観派と後期中観派ディグナーカ・ダルマキールティ・シャーンタラクシタ 中期中観派は、ナーガールジュナの思想を論理学や認識論を通じて強力に弁護しようとした仏教の学派である。ナーガールジュナの主張は、すべての現象が「空」であり、本質的な実体を持たないというものである。この難解な思想を他者に納得させるため、中期中観派の僧侶たちは高度な論理学と認識論を駆使し、彼の教えを理論的に説明し、正当性を主張した。 しかし、後期中観派になると、論理学と認識論だけではナーガールジュナの思想

中論03:四句否定/大乗仏教【仏教の基礎知識13】

四句否定・テトラレンマ言葉の使い方にはいろいろな問題がある。特に、ナーガールジュナや中観派と呼ばれる仏教徒たちの言葉の使い方は、一般の人には理解しにくいことが多い。その中でも、「四句否定(テトラレンマ)」という概念がある。これは論理学的には意味をなさないが、仏教やインド哲学の本質に関わるもので、これを理解することで言葉の問題の難しさをある程度解明できる。 彼らの言葉の使い方と、数学や物理学のような厳密な論理の世界での言葉の使い方には大きな違いがある。論理の世界では、言葉は

中論02/大乗仏教【仏教の基礎知識12】

最高の真実永遠の本体(自性・スワバーヴァ)=幽体 中観派の基本論理瞑想の深いレベルに達すると、言葉や論理を超越した世界に入るため、学説や命題は成り立たない。中観派の立場からすれば、どんな学説や命題も成立しないのは当然のことだ。 命題というのは、数学的には真か偽かが確定するものだが、文脈によってどちらにもなり得ることが一般の人には理解されていない。 例えば、「火は熱い」という命題は論理的には真だ。しかし、特定の文脈では「火は熱くない」とも言える。例えば、火の画像を見ている

中論01/大乗仏教【仏教の基礎知識11】

帰敬偈ここでいう、戯論とは言語的多元化・言語的な多様性・概念化という心の働きのこと。 もろもろの戯論を滅す ⇒ 思考が静まり、沈黙している状態。 『中論』を読んで理解できる人はほとんどいない。八千頌般若経も同様で、普通に読んでも理解するのは難しい。これらの経典には、人間の論理では理解しがたいことが書かれている。人間の頭脳は自然に論理的思考をするようにできており、文章を読む際にも自然と論理的に読もうとする。 しかし、八千頌般若経や中論は通常の論理を超えた内容を含んでいるため

金剛般若経02/大乗仏教【仏教の基礎知識10】

基礎論理学:形式論理学/アリストテレスの論理学思考の三原則 神は、契約を絶対に守ることを要求した。だから、成立したか、成立してないかが重要になる。よって、ここから、「矛盾律」が出てくる。そして、そこには、中間があってはならない。どちらかしか認めないのだ。これが「排中律」である。そして、契約は言葉で行なわれる。用語の定義が求められる。ここから、「同一律」が生まれた。 形式論理学は、ギリシャで完成された。 しかし、人間の論理として実施されたのは、絶対的唯一神の存在を確信する宗

金剛般若経01/大乗仏教【仏教の基礎知識09】

「空」の哲学は、大乗仏教の中でも特に深遠で難解なテーマである。 この哲学は言葉で説明するのが難しい。言葉自体が「実体」として捉えられることが多く、その意味を固定化しがちだからだ。大乗仏教では、言葉はあくまで指標であり、真実を直接表現するものではないとされる。言葉の背後にある真理を理解することが重要。 「空」の哲学を理解するには、理論的な学習だけでなく、瞑想や実践を通じて体験的に理解することが求められる。言葉の限界を超えたところに、本当の理解がある。 「空」とは、「無」でも

説一切有部・五位七十五法【仏教の基礎知識08】

色の概念が肉体から物質へ 五位七十五法五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。 無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの 有為法:原因・条件によって生滅する事物 無為法(時空・非五蘊) 虚空無為 物の存在する場としての空間を指す。虚空とは、あらゆる物体や存在の基盤となる空間のことで、変化や条件に依存せず、恒常的であるとされる。 択

浄土経【仏教の基礎知識07】

竹下雅敏説 3万2000人もの大勢の修行僧たちと共に、ラージャグリハの鷲の峰に滞在していたと書いてある。この記述は地球レベルの場所を指しているわけではない。すでにゴータマ・ブッダが亡くなってから200~300年が経っている。したがって、師がここに滞在していたというのは明らかに霊界のことを指している。霊界のある場所に3万2000人もの修行僧たちと一緒に滞在していたということだ。 仏説とは霊界でゴータマ・ブッダが直接弟子に語った内容を指す。それを霊界通信を通じて降ろしてきたもの。

部派仏教から大乗仏教へ【仏教の基礎知識06】

大乗仏教の原点:浄土三部経説 「浄土三部経」ゴータマ・ブッダが霊界で弟子たちを招集して説いた教え説。 ゴータマ・ブッダが直接弟子たちに語り、その教えが教典として降りてきたという説は非常に興味深い。天界での説法が地上に伝えられ、それが浄土三部経としてまとめられたということだ。 浄土三部経はゴータマ・ブッダの教えそのものであり、初期仏教の八正道や四聖諦とは異なる独自の教えを持っている。この教えを信じたのがマイトレーヤー、すなわち弥勒菩薩で、彼が中心となって無数の転生を経て六

過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ。【憂世で生きる智慧】

過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。 未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ。 [大乗本生心地観経] 仏教の教えにある因果の法則を引用すると、「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」となる。この言葉は、私たちの現在の状況が過去の行動や選択の結果であり、未来の結果は現在の行動や選択によって決まるという、非常に深い真理を示している。 例えば、現在の自分の健康状態が過去の生活習慣や食生活に依るものであるように

無疑曰信(むぎわっしん)【仏教】

疑い無きを信と曰う 不疑(=疑わない)と無疑(=1μも疑いは無い)とは天地雲泥の差。 疑いが全く無くなる迄、批判精神を働かせないと無疑にはなれない。 解ってなければ疑いは付いて回る(いつもモヤモヤした信仰) 『不疑』から『無疑』には絶対到達出来ない。 「不疑」は単に疑わないことを意味するが、それはまだ疑念の余地がある状態。例えば、ある事実を信じるが、その背景や証拠に対して完全に納得していない場合、「不疑」の状態にあると言える。これは、まだどこかに「モヤモヤ」が残っている。