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ゆらゆら

自分の思っていること考えていること悩んでいることが、これが他人には見えないのだとわかる時、もうこれ以上何もしたくないという気分になる。どこまでいっても一人なんだと、世界から隔絶される突き落とされる取り残される。生物が個体であること、それに対する絶望と失望。果てしない渇き。
伝えたい伝わらなさの葛藤。目に見えないもの、耳で聞こえないもの、感覚の損なわれた手触り。それらをどうして伝えたいと思ってしまうのかが謎、人間という生物の謎。
そういった種類の葛藤が、人間のなかに幾つもあるから、常にそれらの間を揺らいでいる。揺らぎ続けていて、その揺らぎの運動エネルギーが生命のエネルギーなのかもしれないと思った。
揺らいで揺らぎ続けるゆらゆら人間に伴って、社会も揺らぎ続けている。スペンサー先輩は、社会は有機体であるというようなことを提言していたから、社会は全ての人間の薄い薄い皮を何層にも重ねてできたひとつの個体。だからずっとゆらゆらゆうきたい。ゆらぐゆらぐゆうきたい。
その中で揺るがないものを見つける必要性があるのやいなや。
キリスト教社会においてはそれはキリストであったのだろうか、でもキリストも三分の一はゆらゆら人間であったのでしょう?
仏教ではそれにあたるのは仏?なにやらよくは分かりませんがとにかく、揺るぎないもの、揺るがないと信じられるものを見つけることができるのはとても素敵なことでしょう。
神や仏を持たない人々が、ゆらゆらの中で揺るがないものを見つけることは果たして可能なのでしょうか。いや、揺るがないものを見つめる自身が揺らいでいるのだから、その対象物も揺らぐ筈なのでは。
私が震える手で撮った写真と同じように、それはゆらゆらしちゃうのでは?

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