寂しさと言語化
昨日の夜に観た映画。感想がどう頑張っても、重い、しか出てこなくて、とても苦しい。この重さ、苦しさを、言葉にする術を持っていないじぶんが虚しい。
そんな映画を観て、どっぷり沈んだ気持ちになって、今日はどうしても起き上がる気になれなくて、ずっと布団の中にいる。
ひとりでいることに慣れなくて、寂しい、と感じる。
でもわたしは知っている。
ひとりでいるから寂しいのではないことを。ひとといても寂しいときは寂しい。
誰の世界にもわたしという存在がいないと思ってしまうことが寂しい。ひとりだ、と感じる。
だからといって、ひとと一緒にいることも好まないのだから、手のつけようがない。
わたしは、ひとりでいたい。
誰かの中に存在していたい、欲を言えば、それを感じられる環境がほしい。こんな願いが叶うわけないのは痛いほどわかっている。
寂しいという感情は、いつでもわたしのこころの中にあって、どう足掻いても解消されない。もうずっとだ。その寂しいという感情が大きくなったり、小さくなったりしながらも消えることはない。
結局うまく言葉にして吐き出すこともできないし、寂しいですと言ってみたところで、相手は返す言葉もないだろう。じゃあ会おうか、なんて言われたら、わたしにとっては地獄でしかない。会いたいとか一緒にいたいとか、そういうこととはやっぱり違う。
この寂しさの波が落ち着いてくれるのを、わたしはただただ耐えて、待つしかないのだ。気を紛らわせるなにかなんて、結局ない。時間が過ぎるのを静かに待つのみなのだ。
ひたすら寝逃げている。得体の知れない寂しさを抱えながら。寝ても覚めても苦しい。
体調が悪くなる前兆かもしれない。
こういう気持ちを持っているとき、わたしはじぶんを傷つけてしまう。寂しくてどうしようもなくひとりだと感じるとき、じぶんを傷つけては安心する。じぶんの寂しさをカタチにする。
こういうときは何をしてもだめだ。
感情に抗うことなく、寂しさの渦の中に埋もれていることしかできないし、それしかできないのであれば、それがいちばん楽だ。
時間が経つのを待つ。自然と浮上してくるのをただ待つ。
これを読んでくださる方がいたら、それは、わたしの救いのひとつだと思う。
何もできないと言いながら、救いを求めて書いていることは否定できない。
苦しい。寂しくて苦しい。悲しいんじゃない、苦しいのだ。
うまく言語化できないことが虚しい。何を書いても何も伝わらないんじゃないかと思うことがもどかしい。
もっともっと言語化の訓練が必要だ。
わたしのためにも。まわりのひとのためにも。
突然、寂しいです、とかそんな言葉を投げるのではなくて、もっと伝わる言葉がほしい。難しいけれど。
もやもやする。なんで?寂しさとこのもやもやは関係ある?また別の感情なの?
寂しいなんて気持ち、きちんと説明もできないくせに、あなたが使っていいの?
わからないことだらけだ。じぶんの感じている気持ちすら表現することができない。もしかしたら、それが苦しいのかもしれないな。
とにかくいまは、時間が経つのを待つしかない。
この大きく膨らんでしまった寂しいという気持ちが落ち着くまで、じぶんに優しくしよう。
読んでくださりありがとうございます。
またね。
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