付着.21 君の名は。
今回は「な」だ。
産まれたときから今まで、背負ってきた「名前」が今日のテーマである。
誰でも1度は名前との戦いを経験したことがあるのではないだろうか。名前は生きる道しるべにもなるが、ときには大きな壁となることがある。実際、俺もペンネームやらなんやらで何度か名前を変えているが、(今も青かびだし。)本名との戦いはずっと続いているのだ。
自分が一番長く使っていたのは「武居佑斗」という名前だ。もう15年以上の付き合いであり、本名だと思っている人も多い。小学生からの知り合いでもだ。結婚式に参加しても7割はこの表記になっている。が、本名ではない。w
本来は「勇人」が正しい。名前と向き合うことは人生と向き合うことに等しいと昔から考えているのだが、皆さんはどうだろうか。
何度名前を変えても、本名から逃れることができない。やはり産まれて与えられた名前というのは特別なものなのだろう。俺の場合は、勇気のある人、もしくは勇ましい人という字のままの意味でもらったものだ。ただ、「勇気」「勇ましい」と言っても解釈は人それぞれであり、場合によって形も変える。
臆病な自分に勇気を持つことができるだろうか。勇ましく立ち向かう姿勢はあるだろうか。そんなことを学生時代はよく考えていた。強くあることが正しいのかと己に問いかければ、では強さとはなんだという問いが返ってくるだけであり、答えは不明なまま大人になっていく。
危ない橋を渡ることが勇気や強さなのか?チャレンジすること、逃げない気持ちが勇ましく生きるということなのだろうか。疑問はずっと消えずに心の中に潜んでいる。そんなものから逃げ出したくて、色々と名前を変えてみたのだが、疑問が消えることはなかった。
名前の持つ力は強大だ。挫けそうになったとき、俺は勇気ある人なんだと言い聞かせ、助けられたこともなくはない。だが、人生のテーマとして大きな壁になることのほうが多かった。
ようやくこの歳になり、名前との戦いへ折り合いのつけかたを見つけたような気がしている。これまでは勇気を「持つ」ことが使命だと思って生きてきた。人から笑われようと、やりたいことをやる。常識と言われているものにとらわれず、本質的に間違えていると感じるものにはちゃんと疑問を持つ。自分の勇気とはそんなものかなと思って過ごしてきた。
しかし最近では、勇気を「与える」人になれればいいのではないか。そう考えを改めようと思っている。自分に勇気がなくてもいいのだ。プライドを捨てるというのか、別に強くもなくていい。
ただ、限りある時間を使って会ってくれる人。こんな文章を読んでくれる人。支えてくれる友人達。俺との関わりが、明日を少しでもいい1日にしてくれるようなものだったり、知らず知らずに縛られていた鎖や、踏み込んでいたブレーキを外すきっかけになってくれたら嬉しいと感じるようになった。
勇気とは「他人のためにできる何か」を総称する言葉ではないかと思うのだ。
今こうして、なんらかの想いを発信することを勇気と呼ぼう。それが大したことのないものであれ、勇気と呼ぼう。「想い」こそが勇気と呼ぶものではないだろうか。
誰かの幸せを願いながら、認められることのない活動を続けているあなたも。きっと勇気ある人だ。
真剣に仕事に向き合うことで、世界の歯車になることも誰かを救っている。そんなあなたも勇気ある人だ。
あなたはどんな名前を持っていますか?そこにはきっと沢山の人の想いがつまっています。
名前と戦うことってすごく苦しかったりするんだけど、どうか逃げ出さず、あなたなりの答えを見つけて下さいね。
その答えは「想い」であり、あなたの「勇気」に変わる大切なものだと思うのです。
勇気を持って。
明日もいい日にしてください。
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