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「金魚屋の徒然なる日常 御縁叶冬の邂逅」 第二十六話 御縁叶冬の回想・藤堂叶冬の死

 俺の生まれた藤堂家は、平均的な一般家庭よりも貧しかった。小学生のころに父が事故で死亡し、収入に乏しかったからだ。母は「私が働くから大丈夫よ」と言っていたが、中学に上がったころ、この人では無理だと判断した。
 母は学のない人だった。生家も貧しくて中卒で働き始めたそうだが、学歴がなくとも優秀な人はいる。地頭が悪いのだ。思考能力が低く判断力もない。内向的な性格なので自己主張ができず流されやすい。パソコンが使えず、学ばせても三日坊主で成長しない。仕事に役立つ特技も体力もないので雑用係として利用されて終わる。正社員として雇ってくれる会社はみつからず、良くて派遣、基本的にはアルバイトだった。
 人間的な生活の危機を感じた俺は、アルバイトと、空き時間で動画配信を始めた。スマートフォンを学校で充電し、無料WiーFiが使える場所で配信する。当たれば儲けもん、くらいの気持ちだったが、想像以上の収入になった。
「今日ね、クラスメイトにメイクしてもらったんだよね。どう? 変じゃない?」
 有難いことに、俺の顔は女性にウケが良い。クラスメイトの女子から得たファッションやメイクを語るだけでチャンネル登録者は一週間で千人を超え、動画配信で月二万円はキープできた。イベントをやれば十万円を超える月もある。
 他にも近所の高齢者を中心に家事代行を請け負い、料理や消耗品を分けて貰うことで出費を抑えた。できるだけ外で働けば電気代や水道光熱費も少ない。バイト代と合わせれば家賃を払ってもお釣りがくるようになった。
 母はすぐ仕事をクビになるが、俺の収入だけで生活は安定した。それも母がこの顔に生んでくれたおかげ――と考えることで心のバランスを取っている。
 そうしてカツカツの生活をしていたある日、高校から帰宅して愕然とした。テーブルには二種類のブーケが活けてあった。黄色と赤がテーマカラーで、梱包してあったらしい包装しはつやつやでラメが輝いている。リボンは花のテーマカラーと揃いで、繊細な地模様が施されていた。
 明らかに高い。ゴミ箱にはレシートが捨ててあり、購入明細を見てさらに愕然とした。ブーケ一個五千円が二個と、花瓶が一個一万円。合計二万円だ。
 母は先月仕事をクビになり、来月面接を控えた現無職だ。飾って数日で捨てるだけの花は、息子の収入で生活してる母親が買うべき物なのか。
 俺が電気代を払っているテレビを見ている母に、花瓶ごとブーケを突きつける。
「母さん、これなに?」
 母は気まずそうな顔をして俯いた。俺が無言で圧力をかけると母は活舌のはっきりしない口調で、どんよりとした声を出した。
「駅前にできた新しいお店で買ったの。久美子さんが選んでくれたのよ」
 久美子さんというのは、俺の親友である真野雪人の母親だ。真野家は資産家で、うちとは生活レベルがまったく違う。俺が必死に稼ぐ金額は、真野家にしてみれば雀の涙だ。
「何度も言ってるよね。久美子さんに合わせて金使うのやめろって」
「あ、その……一つは久美子さんが買ってくださって……それで……」
「それで? それで終わればいいじゃん。なんで追加で買うの? 一万五千円ってどういう額かわかってる? 動画配信なら楽ですぐ稼げるとでも思ってる? あれは毎月最低二万円の収入を保てるよう、年間プラン立ててやってんの。臨時収入のためにイベント乱発はブランディングも崩れるし、年間の収入がキープできなくなるんだよ」
「え、っと、ええと、あの……ごめんなさい……」
 俺の話は難しいのだろう。母はスマートフォンの操作すらおぼつかないから、俺の動画配信なんて見てすらいない。せめて「息子がやってるんです」と、同情を誘う広報活動くらいしてほしいが、コミュニケーション能力が欠如しているのでそれすらもできない。
 もうため息もでない。役に立たないなら、せめて足を引っ張らないでほしかった。俺はゴンッとわざと大きな音を立てて花瓶をテーブルに置いた。
「俺とゆきが友達だからって、金使って久美子さんに付き合ったら俺のバイトが増える。ゆきと遊ぶ時間も減るからマイナスだよ。断れないなら顔見た瞬間に逃げて」
 そうは言ったが、一万五千円自体は激怒する金額ではない。俺が耐えかねているのは久美子さんだ。
 ゆきの母親である真野久美子人は曲者だ。ご近所の誰もが「久美子さんとは関わらないほうがいい」というほど、性格と人付き合いに問題のある人だ。本人は気付いていないらしく、ガツンと言わなければ変わらない。
 俺は制服を脱いで、母にはなにも告げずに家を出た。この時間、だいたい久美子さんは大型スーパー前の広場で奥様方とお喋りを楽しんでいる。だがそれも一方的なもので、誰もが会いたくないと願っているらしい。
 スーパー前の広場にいくと、女性が五人で集まりベンチを陣取っていた。全員笑顔なのが恐ろしい。俺は久美子さんの視界に入る場所まで近づいた。
「叶冬くん! お花気に入ってくれた? お部屋が華やかだと、心も豊かになるでしょ」
 用意されていたような美しい言葉だ。花で心が豊かになるなら、花壇の中で生活していただきたい。
「私の友達のお店で、ブーケが素敵なのよ。今度フラワーアレンジメント教室があるんだけど、お母さんと一緒にどう? 皆で行こうって話してるのよ。お金は私が持つわ」
 久美子さんは長方形のチケットを差し出してきた。花の写真がプリントされていて、参加費は一人一万五千円となっている。二人で三万円を出してくれるということか。
 これが久美子さんの人間性のすべてだ。下民に施しを与えてくださる女神のような人――とでも思ってるのだろうか。見えない背後で、歓談していた女性たちが眉間に皺を寄せているとは、露ほども思っていないのだろう。
 久美子さんが自分に酔う姿はあまりにも愚かしくて、俺は鼻で笑った。
「マルチ商法? それとも、お金あげないと誰も一緒にいてくれない?」
「なっ」
 久美子さんは顔をかあっと赤くした。周りの女性陣もぷっと吹き出している。
「叶冬くん、口が悪いんじゃないかしら。失礼でしょう?」
「事実に反するなら失礼ですね。では、どうぞ修正してください。ただし、事実を示す物的証拠を揃えてくださいね。頭悪い人のお気持ち議論は嫌いなんです、時間の無駄だから」
 久美子さんを含め、場の女性は全員目を丸くした。
 これが俺の人間性のすべてだ。俺は本性を表へ出さないことにしている。本性を出すと『顔は綺麗なのに』と言われて引かれ、一気に距離を置かれるからだ。だが今回は距離を置いてほしいので遠慮しない。
 フラワーアレンジメント教室のチケットを、でこぴんするように指一本で弾いた。
「三万程度、動画三十分で稼げるんだよ。人を蔑む快楽は他を当たれ」
 場が冷え込んだ。久美子さんに呆れていた女性陣も固まっている。久美子さんがなにも言い返してこないので、俺は形ばかりの一礼をしてその場を後にした。
 帰宅すると、母は夕飯の支度をしていた。収入を得られない母にできる唯一のことだが、それも俺が家事代行の報酬で貰った料理をレンジで温め盛りつけるだけだ。
 夕飯は絹ばあちゃんの肉じゃがとひじき、分けてくれた白米を食べた。週に三回は依頼をくれる絹ばあちゃんの料理が俺の家庭料理だった。

 翌日、俺はブーケを二つとも持って学校へ行った。どうせなら金銭では得られない価値を作る。
 正門をくぐると、俺はいつもよりゆっくり歩いた。何度もブーケを持ち替えて存在をアピールする。アピールする相手は、もちろん女生徒だ。
「藤堂くんおはよ! それどうしたの? わざわざ買ったの?」
「ちょっとね。良かったら一本いかがですか」
「いいの⁉ でもこれ、駅前のめっちゃ高い花屋だよね。ブーケが何万もする店」
「そう。女の子は好きでしょ。他の人もよければどうぞー。早い者勝ちだよ」
 少しだけ首を傾け周囲に笑顔を振りまいた。すると女生徒が勢いよく群がって、我先にと花を引き抜いていく。花は数秒ですべてなくなり、逃した女生徒は肩を落としていた。
 どんな相手でも、心を掴んでおくにこしたことはない。いつどんな場面で縁が活きるかわからない。花ごときで掴める心が役に立つかは怪しいが。
 無駄でしかない花に、ささやかながら役目を与えたことで母への怒りを消化させた。校舎へ向かって歩き出したとき、つんっと後ろから背中を突かれる。突いてきたのは御縁神社の一人娘、紫音ちゃんだ。
「おはよう。ブーケ、久美子さんに買わされたでしょ。うちにもある。各色一個で計七個。レインボーなんとかって名前なんだってさ。捨てたい」
「捨てるならちょうだい。俺の好感度上げに使うから」
「不屈の根性だよね、かなちゃんって。けどほどほどにしなよ。昨日うちで食事会だったんだけど、ゆきちゃんと久美子さん大ゲンカ。『叶冬くんとは遊んじゃ駄目よ!』だって」
「遊んじゃ駄目って。親が子どもを管理する時代は終わってるっての」
「ホント。ゆきちゃん大変だよね。自分の家にずっと久美子さんがいたら気が狂うよ、私」
「言うね。親戚でしょ、紫音ちゃん。お父さんたち一緒にいるとこ、よく見るよ」
「お父さんたちは従兄弟同士で普通の人だからね。久美子さん、話題が全部悪口って逆に凄いよね。お母さんも久美子さんと食事するの嫌って言ってる。私に悪影響だからって」
「正しいね。しっかし、俺と母さんじゃなくて、ゆきに当たるってのが卑怯だよね。ゆきには謝っておこう」
 あれだけ言えば母さんに近づかないと思ったが、矛先を自分に逆らえない息子へ向けるとは思わなかった。逃げるが勝ちとでもしたのだろうか。
 教室に入ると、ゆきは先に来ていた。ゆきの席は窓際の一番後ろだ。儚げで白いイメージの名前とは反対に、真っ黒な髪と黒めがちの大きな目をしている。小柄で細い肩をしていて、小さな背を丸めて本を読んでいる。
 ゆきはクラスで浮いていた。それもすべて久美子さんが原因だ。
 ここは公立で、同級生は近隣に住んでいる場合が多い。久美子さんのことは誰もが知っていて、皆『真野の母親アレだね』という認識がある。いじめには発展していないが、ゆきが教室で笑っていたのは小学生低学年くらいまでだった。
 俺は家が近かったのもありずっと仲が良い。気を使ってるわけではない。ゆきと一緒に遊ぶのは楽しいからだ。俺は親がどうだろうが気にしないし、多少の嫌味もいやがらせも跳ね返せる。だがゆきは違うだろう。優しくて静かで、母親に逆らうことも、喧嘩したこともなかったのではないだろうか。
 いつになくしょんぼりしていて、俺はゆきに駆け寄った。 
「ゆき! ごめん。俺のせいで久美子さんと喧嘩したって聞いたよ」
 ゆきはなにも言わず俯いていた。俺たちも喧嘩したり怒鳴り合ったりしたことはない。ゆきは腹を立てても、大体は言葉を飲み込みじっとしている。
「本当ごめん。俺と母さんが言われるかもとは思ってたけど、ゆきまで怒られると思ってなくて。考えなしだったよ。なあ、ゆき。ごめんって。ゆ――」
 ゆき、と肩に手を伸ばそうとした。けれど手はゆきに届かず、ぱしっと振り払われる。ゆきに拒絶されたのは初めてだった。
「……ゆき。ごめん。本当に」
「僕こそごめん。僕といるせいなんだよね。もう迷惑かけない。今まで有難う」
「えっ。なにその別れの言葉」
 怒られるか喧嘩になるかを覚悟していたが、突きつけられた言葉は予想とは違っていた。ゆきはぷるぷるとふるえていて、俺はもう一度手を伸ばしたが、手が触れる前にゆきは走って廊下へ出た。
「ゆき⁉ 待ってって! ゆき! ゆき!」
 クラスメイトがうるさそうに、逃げるゆきの背を見つめていた。近所住まいなら、ブーケを買わされた家もあるだろう。その不満が親から子へ、子から子へ、クラス中へ広がったのかもしれない。
 俺はゆきを追って教室を出た。もうすぐ授業が始まるのに、ゆきは走って階段を駆け上がっていく。俺は必死にゆきを追って、三階へ差し掛かったあたりでようやく捕まえた。腕を掴んで足を止める。
「ごめん! 俺ちょっとキレてたんだよ。母さんが勝手に二万も使うから。けど久美子さんに当たることじゃなかった。悪いのは久美子さんじゃない」
「悪いよ! 母さんは昔からずっと! だからもういいんだ! 放してっ!」
「ゆき! ゆ――」
 ゆきは泣きながら俺の手を振り払った。ゆきの腕は細いし、日々仕事で鍛えられている俺に比べれば力は弱い。けど、反射的に振り回された腕を避けて後ろに一歩下がった。
 ここは階段だ。一歩下がれば、そこは下への階段になっている。俺の足は地面を捉えることができず、体ががくんと下に落ちた。
「かな!」
 ゆきが叫ぶ声が聞こえて、俺の体は階段を転げ落ちた。ガシャガシャという音も聞こえて、体中に鋭い痛みが走る。なにが起きたかわからなかった。


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