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「金魚屋の徒然なる日常 御縁叶冬の邂逅」 第二十七話 御縁叶冬の回想・金魚になった藤堂叶冬

 次の瞬間、ひやりとした空気に身を震わせて目を覚ました。
 周りはぐるりと巨大な水槽に囲まれていて、その中では数多の金魚が泳いでいる。差し込む光を跳ね返す様はルビーのようだった。眩さに魅了され手を伸ばす。いや、伸ばそうとしたけれどなにも動かない。
(なんだ? 身体が動かな――あれ? 声も出ない。なんで?)
 立ち上がろうとしたけれど脚が動く気配はなく、代わりに動いた物があった。景色がすうっと視界の下に落ちる。まるで建物全体がエスカレーターで階下に移ったように見えたが、そうではなかった。
 建物が沈んだのではない。俺が浮いた。
(……どういうことだ。飛んでる。俺飛んでる)
 一体なんなんだと辺りを見渡すと、水槽のガラスになにかが映っていた。映るのは位置的にも自分の姿のはずだが、映っているのは人間ではない。
(金魚⁉ 金魚だよなこれ。え? 俺金魚になってんの? なんで?)
 なにを考えたらいいのかわからず、とりあえずホバリングしていると、コツンと軽やかな足音がした。
「その様子じゃ知らなかったようだね。未練を持って死んだ魂は金魚になるのさ」
 声の主を振り返ると、着物姿の女が立っていた。おっとりした上品な顔立ちで、今まで見たどの女性よりも美し。この世の物とは思えない美貌に釘付けになったが、それよりも気になったのは女の大きさだ。とても普通の人間の大きさじゃない。目を左右にぐりぐり動かさないと視界に収めることができないほど大きい。
(なんだこの女! デカい――いや、違う。俺が小さいんだ。俺が金魚だから)
 混乱する俺を他所に、女はにこりと微笑んで両手を広げた。
「ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ」
 女はミュージカルのように歓迎を宣言したが、初対面なのに『待っていた』というのは変な話だ。
「君は死んで金魚になった。金魚屋は金魚を弔うのが仕事。君は僕が弔う―――ん?」
 女は手に持っていた赤い手帳をぱらぱらと捲った。捲って、捲って、捲って、最後のページまで捲ってまた最初のページに戻る。また最後まで捲り、また最初へ戻る。そんなことを五回は繰り返すと、女は目の前に迫ってきた。
「金魚帖にいないじゃないか君ぃ。誰の魂でうごいてるんだぃ? 誰を食ってんだぃ?」
 食うとはなんのことだ。さっきまで授業中だったから食事はしていない。
 女は俺を三百六十度、じろじろと嘗め回すようにじっくりと観察してきた。少しすると、女は、うんうんと大きく頷いた。女が赤い手帳で仰ぐようにすると、俺はふよふよと自然に女へ引き寄せられる。
「うん! 君はどうやら弔う価値がない! ようし! 出て行け!」
 目の前まで行くと、女は赤い手帳で俺をスパンと叩いた。一瞬で店の外へ追い出され、俺は浮遊し途方に暮れる。
(俺どうしたらいいの? 家に帰ればいいの? てか、ここどこ?)
 追い出された店を振り返ると、『金魚屋』と黒文字で掘られた木製の古めかしい看板が掲げられていた。近隣では見たことのない店だ。周りは森なのか、鬱蒼としていてヒントになる物もない。
 だが一本道だ。ひとまず道なりに進んでみようと泳ぎ出すと、ゆらりと視界の端が歪む。歪んだのは看板だった。店の外観はなにも起きていないが看板は揺れ、揺れが収まると看板はまったく別物に変わっていた。
(なんだ今の! Cafe Chat Noir……フランス語だよな。黒猫喫茶、かな。でもさっきは金魚屋で……)
 自分が金魚なのも不思議だが、店自体も不思議だ。夢でも見ているのだろうかと疑いたくなる。夢だとしても、今は自我をもって動いている。まずは人のいる場所へ行こうと、俺は一本道をふよふよと泳ぎ始めた。

 一本道を延々と泳ぎ続けた。時計がないので正確な時間はわからないが、体感では一時間くらい経った気がする。普通なら歩き疲れた頃だと思うが、不思議と金魚の体は疲れ知らずのようだ。
(腹減ってきたらどうしよう。てか、そろそろ飽きてきた。目が覚めるか違う景色になるか、知り合いが出てくるかしてくれないかな)
 なにが夢で、なにが現実かもわからなくなりそうだった。なんでもいいから変化を求めると、いよいよ一本道に終わりが見えてきた。森の出口から向こうには行きかう人影が見える。俺は懸命に脚ならぬ尾ひれを動かすと、飛び出た場所は見慣れた建物の前だった。
(俺の家?)
 突如として現れたのは、自宅付近の景色だった。だが自宅から一時間以内に森なんてない。それとも金魚の小ささでは見える景色が違ったのだろうか。確かめるように振り向くと、さきほどの森はなく、駅前に続く一本道だった。
(……よし。夢決定。母さんに見つかったらどうしよう。夢にどうもこうもないんだけど)
 俺は家に戻ろうと思ったが、何人もの人が同じ方向へ走って行くのに気が付いた。老若男女が入り混じり、中には近所の人もいる。他はスーツも私服もいて、多種多様だ。
 だが一律で同じ方向へ向かっているようだったので、なんとなく気になり人の流れを追う。五分ほど泳ぐと、着いたのは近所なので当然見覚えのある家だ。
(ゆきの家じゃないか。カメラにマイク。マスコミか? なんだこれ。なんの騒ぎだ?)
 報道陣が群がっているのはゆきの家だった。豪邸ではあるが、特別ピックアップするほどかというとそうでもない。お宅訪問なら芸能人を追うべきだ。
 事情がわからずにいると、ざわざわと後ろの方がうるさくなった。
「雪人くんですね! ちょっとお話いいでしょうか!」
「藤堂さんのお見舞いですか? 怪我はどんな様子でしたか!」
 マスコミが詰め寄った相手はゆきだ。逃がすまいと取り囲み、気の弱いゆきは鞄を抱きしめ俯いている。
(おい! 離れろよお前ら! 離れ――っえ?)
 ゆきを押しつぶしそうなほど接近していた男に体当たりをした。したが、俺はすっと男の体をすり抜けてしまった。ぶつかることができず、ふよっと泳いだだけだった。
(触れないのか。あ、幽霊なんだきっと。誰も俺に驚かないし)
 空飛ぶ金魚なんて一発で見世物だ。なるほどと納得したが、今はゆきだ。触れなければ逃がしてやることもできない。どうしようもなくゆきの傍をくるくると泳ぎ回っていると、ゆきの家の玄関がバンッと音を立てて開いた。中から久美子さんが飛び出して、報道陣をかき分けゆきの肩を抱く。
「真野久美子さんですね! 藤堂さんご一家をいじめていたというのは本当ですか!」
「あなたが殺したのではという声もありますよ!」
 殺した、という発言に驚いて、俺は道陣を振り返った。どいつが言ったのかわからない。わからないくらい、全員が口々に久美子さんを犯人扱いしている。だが、俺が死んだのは久美子さんのせいではない。
(なにが起きてるんだ。どういうことなんだ)
 久美子さんは無言のゆきを抱きしめたまま玄関へ走る。久美子さんとゆきが家の中に飛び込むのと同時に、俺もゆきの家に入った。久美子さんはゆきの腕をぎりぎりと掴んでリビングへ行くと、テーブルをダンッと拳で叩く。
「雪人! どこ行ってたの! 藤堂さんのせいでマスコミが来てるって言ったでしょう!」
 久美子さんはカーテンがきっちり閉められている窓を指さした。外は餌を求める鯉のようにマスコミが暴れている。久美子さんはゆきの両肩を掴んで揺さぶったが、ゆきは久美子さんの手を振り払った。
「マスコミはお母さんのせいじゃないか! 皆言ってるよ! 真野さんは藤堂さんをいじめて楽しんでたって! だから疑われてるんじゃないか! 皆お母さんが嫌いなんだよ! 僕と友達でいてくれてるのは、かなだけだったんだ!」
「雪人! 待ちなさい! 雪人! 雪人!」
 ゆきは久美子さんを突き飛ばし、二階の自室へ飛び込み鍵をかけた。追い付いてきた久美子さんはしばらくドンドンとドアを叩いていたが、一、二分すると静寂が訪れる。ゆきはベッドに寝転がり、枕に顔を埋めた。
(ゆき。どうしたんだよ。なにがあったんだよ)
 夢にしてはリアルで、現実にしては非日常だ。マスコミが押しかけてくるなんてまずないし、殺人疑惑をふっかけられるなんて異常事態だろう。報道陣はびったりと張り付いていて、夜になるとようやく何組かは帰ったようだった。それでも数人は残っていて、ゆきの父親、卓也さんが帰ってくるとまた騒ぎ始める。卓也さんは記者連中を相手にせず家に入り、しばらくすると記者はばらばらと解散していった。
(ゆき。奴らだいぶ帰ったぞ。もう大丈夫だ)
 声は出ないが、語り掛けずにはいられない。見つけてはもらえないのに、ぐるぐると必死に泳ぎ回る。なにもできないことがもどかしいが、トントン、とノックの音がするとゆきはビクッと震えた。
「雪人。出て来なさい。今後のことを話そう」
 声は卓也さんだった。ゆきは部屋を飛び出て、顔を隠したまま卓也さんに抱きついた。
「よしよし。大丈夫だ。まずはお母さんと話そう」
「いやだ。お母さんなんてどっか行っちゃえばいいんだ」
「お前が許せない気持ちはわかる。だが一番許せないのは叶冬くんのはずだ。叶冬くんのためにも、私たちがきちんと対応をしなくちゃいけない」
「……うん」
 話がわからなかった。中心にいるのは久美子さんのようだが、俺も関係してるらしい。とにかく俺はゆきの後をついて泳いだ。ゆきは嫌そうにリビングへ入り、久美子さんは立ち上がり駆け寄ってくる。だが、卓也さんがゆきの前に立ちはだかった。
「なによ! 雪人! こっちへいらっしゃい!」
 久美子さんは噛みつきそうな勢いと形相で叫んだが、卓也さんが久美子さんの両肩を掴んで落ち着かせる。
「お前は軽井沢の別宅へ行け。戻れるようになったら呼ぶが、戻れないと思ってくれ」
「は⁉ なんで私が逃げなきゃいけないのよ! なにもしてないわ!」
「だからなんだ。苦しんでる子どもを前に、お前がやるのは意地を張ることか?」
「だって私悪くないもの! なにもしてないのよ!」
「……もういい。裏に車を呼んであるから、最低限の荷物だけ持って軽井沢へ行きなさい。他の私物は後から送る」
「嫌よ! 逃げたら私が悪いみたいじゃない! 絶対に嫌ですからね!」
「なら手ぶらで行け。雪人、誰が来ても玄関は開けるなよ。インターフォンも出るな」
「ちょっと! 放して! 雪人! こっち来なさい雪人!」
 いつも美しく着飾っていた久美子さんの髪はぐちゃぐちゃで化粧も崩れ、暴れる姿は見ていられないほど醜い。卓也さんは力ずくで久美子さんを裏口から連れ出し、少ししたら車が走り去る音が聞こえてきた。車の音が遠くなると、ゆきはふっと笑った。
 卓也さんは一人で裏口から戻り、ゆきの頭をそっと撫でた。
「制服に着替えなさい。彼が引き受けると言ってくれた。今後のことを相談しに行こう」
「うん!」
 ゆきは、ぱあっと笑顔になり、走って部屋に戻ると制服に着替えた。久美子さんから解放されたゆきは、水を得た魚のように生き生きとしている。
 真野一家の家庭環境なんて気にしたことはなかった。久美子さんはうちにとって害悪で、帰ってこなければラッキーだ。卓也さんは語るほどの印象はないが、お手伝いさんが二人いないと掃除が行き届かない豪邸を建てたというだけで凄い。
 だが、夫婦が仲良く並んで歩く姿は、俺の知る限りでは見たことがない。ゆきが両親と楽しく過ごす姿も、俺は一度も見たことがなかった。
 ゆきは制服に着替えて一階に降りると、卓也さんはスーツからスーツに着替えていた。ネクタイとスーツの色は変わったようだったが、なぜ着替えたのかはわからない。
 裏口から道路へ出ると、またも車があった。ゆきの家は車が三台あり、各車ごとに運転手がいる。卓也さんはゆきを連れて車に乗り込むと、運転手に「急いで」とだけ言った。車は颯爽と走り出し、流れる景色を見つめるゆきは、おだやかに微笑んでいた。


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