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「金魚屋の徒然なる日常 御縁叶冬の邂逅」 第二十三話 働く金魚屋

 累さんの返答待ちをする間、俺は社会勉強に徹することにした。
 今日の授業は三限で終わりだ。授業が終わったら真っすぐ黒猫喫茶へ向かう。着いたのは十四時半すぎだった。
「累さん、こんにちは。遅くなってすみません」
「あ、きたきた。おいでませ黒猫喫茶。にゃーん」
 累さんは両手を猫の手にして、招き猫のようなポーズをした。まさか客が入店した際の挨拶だろうか。シュークリームやタルトといい、やることなすこと可愛い人だと思う。客はご近所のお年寄りが多いというのも、無邪気さに和むのだろう。
 とはいえ、今日は客がいない。営業再開は俺の適性を見極めてからにするらしい。カウンター席の一番左端に鞄を置いて、一つ隣の席に座って店内を見回した。
「金魚屋っていう特別な雰囲気ないですよね、ここ」
「そう? これとか金魚屋の雰囲気あるでしょ」
 累さんは冷蔵庫からペットボトルを取り出した。シュリンクには『金魚湯』と書いてある。
「単なるお土産品でしょう? 不人気なんですよね」
「違うよ。金魚屋の備品の一つだよ。だから作ったんじゃないの?」
「そうなんですか? 俺は聞いてないです。金魚屋七つ道具の一つですか?」
「うん。金魚屋は魂を癒す術をいくつか持ってるんだけど、金魚湯はその一つ。疑似魂のようなもので、金魚のまま延命できる。水槽は全部金魚湯なんだ」
「へえ。じゃあなんとなく覚えてて、忘れないために商品にしたのかもしれない。でも金魚湯だけじゃ金魚屋っぽくならないですよ。イメージ」
「別にする必要ないし。金魚屋はその扉の奥で、黒猫喫茶自体はただのお店だからね。普通は生者向きの経営はしないんだ。金魚屋は表に出てこない」
「へえ。じゃあ宮村夏生が姿を消したのは、やっぱり金魚屋に入ったからでしょうか」
「だと思うよ。なにか分かったら教えてあげるから、秋葉くんは社会勉強しようね。秋葉くんの業務をなににするか決めるから、就職の方針教えて。就職に役立つことをやろう」
 累さんは会計台に置いてあるタブレット端末を手に取ると、電源を入れてモニターをスイスイっと指先で操作している。
「まず、叶冬さんの会社に入る前提の就活は止めた方がいい。いろいろ見た結果選んだならいいけど、まずは自分の選択肢を知らなきゃ駄目だ。希望はあるの?」
「いいえ。あまり真面目に考えてないんです。でも、ちゃんと選びたいなと思ってます」
「じゃあ黒猫喫茶は賛成できないな。藤堂グループの子会社にするとか言ってたけど、今は御縁家の個人事業だよ」
「個人事業だと駄目なんですか? 普通の会社とは違うんですよね」
「駄目かは秋葉くん次第だね。個人事業主は事業の売上が個人の財産と一体化する。普通の会社は、売上は会社の物で個人は給料を貰う。雇用形態はいろいろだね。アルバイト、契約社員、派遣社員、業務委託。秋葉くんは正社員希望?」
「それぞれのメリットとデメリットも分かってないんですけど、アルバイトと契約社員って違うんですか? どっちも期間限定ですよね」
「雇用期間と業務内容と責任の範囲が違うよ。大企業になれば福利厚生で差が付くかな」
「え、え、ええと、期間と内容ってどう違うんですか」
「雇用期間のはいつまで働くかの目途。アルバイトはシフト制で、辞めたいときはいつでも辞められる。でも契約社員は働く期間が決まってるんだ。たとえば、最初に『一年間働きます』って契約をしたら一年間は絶対に働く。一年経ったら契約更新するか決める」
「業務内容も違うんですよね。法律で基準があるんですか? 企業側が好き決める?」
「企業が好きに、だね。黒猫喫茶は調理と接客、清掃、売上管理、その他事務雑務。バイトに任せるのは接客と清掃だけ。店の存続に関わる業務は任せない」
 累さんはキャリアセンターで聞いた以上の細かい話をしてくれた。企業の選び方というより、働き方を教えてくれている。
「福利厚生は雇用形態で違うんですか? けど、それも企業側が決めますよね」
「うん。法律もあるけど、具体的な内容は企業でいろいろ。使っていい独自のサービスが違う場合も多い。社員は家賃を五万円まで負担するって会社もあるよ。働きやすさに影響するから結構大事。業務委託は福利厚生を使えない場合も多いね」
「ええと、業務委託っていうのは、社員ともアルバイトとも違うんですか?」
「業務委託は雇用じゃなくて契約なんだ。特定の仕事だけをやってもらうんだよ。デザイナーとかクリエイター職は多いね。デザイン一つにつき何円、とか」
「へ~……」
 ここまで聞いただけでも、自分は無知な未熟者だとよくわかる。言われた情報のすべてを記憶できたわけでも、身に落とし込めたわけでもない。なるほど、と思いながらも首を傾げてしまった。
「結構違うものなんですね。事業内容以外にも気にすること多そうだな……」
「うん。でも最初はわからないでしょ? だから新卒は二、三年で転職することが多い。自分が求める物はもっとこうだ、って分かってくる。それがコネ入社なんてしちゃうと、できるはずの努力ができなくなる場合もある。必要ないならやめときなよ」
 蠅でも払うように、ペッペッと嫌そうに手を振っている。コネ入社で痛い目をみたのだろうか。
 それにしても、本当にまともな人だ。今聞いた話は現実的でためになり、金魚屋なんて非現実的なことをしてるとは思えない。どんな人生を送ってきたのか気にかかる。
「累さんて二十代ですよね。すごく詳しいですけど、たくさん転職したんですか?」
「そりゃしたよ。俺は明治の生まれだからね。年齢は二十八だけど、生者の時間では百ちょい生きてるんだ」
「……はい?」
 累さんはカウンター後ろの棚から黒猫のクッキーを取り出し、バリンッと音を立てて食べる。視線はタブレット端末に向けられていて、自分の発言が妙だったとはみじんも思っていないようだった。
「今のギャグですか?」
「真剣。金魚屋は時間の流れが緩やかなんだ。社員になると、普通の人の何倍も生きる」
「じゃあ宮村夏生も十代、二十代の外見かもしれないですよね。大学生のまま」
「そうだね。でも社員名簿に宮村夏生ってのはいなかった。偽名かも――って! それは俺がやるから秋葉くんは現実見て! 大学に就職案内所ないの?」
「ありますよ。キャリアセンター。若い男の子の職員がいて――……」
 高校生くらいに見えるのに、話しはしっかりしている子だ。外見と内面が比例しない少年の顔を思い出し、身体がぞわりとする。
 テキパキと、子どもらしからぬ指導をしてくれた少年の顔は、宮村沙耶にそっくりだった。
「あー!」
「えっ、なに?」
 俺は思わず立ち上がった。累さんは驚いて身を引いている。
 今すぐ伝えなければと、スマートフォンを立ち上げて店長へ電話をかける。仕事中なら出ないかもしれない。出てくれ、出てくれと、祈ってスマートフォンを握りしめていると、バァンと出入口の扉が開いた。
「やあアキちゃん! お待たせしましたあ! 僕はここだよ!」
 なにをしていたのか、黒い着物を羽織っている。金魚屋の正装が必要になるなにをしていたのか。だが今はそれどころじゃない。俺は店長の両腕を掴んで揺さぶった。
「宮村夏生いたかもしれない! 多分いました!」
「えっ⁉ 累くん、もう見つけたのかい⁉」
「俺はなにもしてないよ。まさか知り合いだったの?」
「キャリアセンターの職員です! 宮村沙耶とそっくり! だから見覚えあったんだ! 藤堂不動産も勧めてくれました。きっと俺を店長に近づけようとしてたんです! 金魚屋は歳をとらないなら、まだ若いのは当然だ!」
「歳をとらない? そうなのかい、累くん。履歴書通りなら、今二十八だよね」
「うん。明治生まれなんだ。履歴書は嘘。ごめんね」
 店長は初めて聞いたのか、あっけにとられたような顔をした。俺はカウンター席から鞄を引っ手繰るようにして取り、スマートフォンも突っ込むと店の出入り口へ走った。
「累さんすみません! 俺行きます!」
「はいはい。でもちゃんと両立しなさいね。叶冬さんも突っ走らないように」
「分かってるよ。行こう、アキちゃん」
「はいっ!」
 累さんは呆れ顔をしたけれど、ひらひらと手を振り送り出してくれた。俺と店長は、全力で大学へ走った。



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