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「わたしは撮った⇄撮られた〜アイドルなんかなりたくない〜」ステイトメント

【⚠️展示告知】「わたしは撮った⇔撮られた~アイドルなんかなりたくない~」
Art Lab TOKYO(浅草橋/秋葉原)
2021.8月31日(火)〜9月12日 (日)
15:00-20:00 最終日18:00まで 
6(月)休廊

美術批評家の天乃英彦さんと、元SKE48一期生の高田志織さんに寄稿していただきました!
あおいうに初の写真個展です。
あおいうにが「撮った」写真と「撮られた」写真を一挙公開します。
新作絵画や、おっぱいペインティングも出します!


「アイドルなんかなりたくない。」あおいうに(現代画家)


アイドルとは、不特定多数の人間の業を背負うことだ。

私は被写体や自撮りをする。
承認欲求を満たしたいからだ。
しかし、崇拝されたり搾取されるのが怖いのでアイドルには断じてなりたくない。
「カワイイ」で消費されることによる激しい違和感を覚えるのだ。
写真の奥にいる「河野麻実」という一人の人格を尊重している人はいるのか甚だ疑問である。
金髪の丸刈りにしてピアスを何十個も開けようかと、何度思ったことか。
見た目が変わったって、私は私である。
そんなことで評価を変える人間は私の上っ面しか見ていない。
しかし、「女」という記号として消費・搾取されることには、利益もあるのが事実。
「女」ではなく、「アーティスト」として見てほしいのは確かだ。
でも、容姿もセットで売り出したほうがなにかと楽なのではないか。
「ギャラリーストーカー」や「あおいうにを女として見る層」すら利用したいと思いつつ、それは卑怯なんじゃないかという葛藤もある。

自撮りをあげれば男性からのいいねが大量につく。
作品画像よりも多くつくことすらあるが、これは私だけではなく女性アーティスト全体に言えることで、それを武器にして所謂ギャラリーストーカーに媚びる作家さえ存在する。
容姿を売り物にして、作品を買ってもらおうというのだ。
媚びれば作品は売れるだろう、しかしそれは「作品が評価されている」と本当に言えるだろうか。
「カワイイ」や「女」という記号で消費・搾取されることに彼女たちは違和感をおぼえないのだろうか。
私がどうしても感じてしまう葛藤を、彼女たちはさも存在しないかのように平然とやってのける。

承認欲求と自我とのせめぎあい。
この写真集および展示は「アーティスト・あおいうに」による、現代アート業界におけるジェンダー社会・ホモソーシャルへの挑戦状だ。
私は一生「アーティスト」でありたいと願い続けるだろう。
想いが届きますように。


「GAZE=視線に見る美術としてのアイドル考」天乃英彦(美術評論家)


 I don’t want to be an idol.とは偶然にもK-POPの男性グループVIXXが2013年に出した曲と同じタイトルだ。アイドルであるために普通の恋ができない悲哀を歌っていたが、
テレビの中の自分と現実の自分の間の分裂的状況は、一種の自己同一性への懐疑でもあった。
 あおいうに/河野麻実は、大量の写真、自撮りであったり、他者によって撮影されたものであるにせよ、を撮影していた。写真は状況やニーズに応じて
その目的は様々であったろう。しかし、あおいうに/河野麻実がアーティスト/画家である以上、これらの素材は美術史におけるオーソドックスな自画像/Self-portraitのカテゴリーに属するものとなる。
草間彌生は20代、30代の時の自写像を示しながら、「私の花の時期だから」と見せてくれたことがある。
 ロラン・バルトは写真の本質を「プンクトム」という一種の傷だといったが、それは現実の時空が一切後戻りできぬ性格のもののため、
刻々と写像は過去となり「死のメディア」となるからである。
 あおいうに/河野麻実は、作家としての当事者性と被写体としての自分の間で、人格なのか「女性」なる記号なのかの裂け目で少なからぬ葛藤を持ち、
また思考することとなったが、そこには、撮る/撮られるといった複雑な心理的交通も含まれるのだ。ノーマン・ブライソンは、「GAZE/視線」という概念から、
印象派時代の女流画家が、男性から見られる主題を反転して男性を見るという逆照射される視線論をもって絵画における視線の問題を分析したが、
美術史の文脈においてこの「GAZE」の問題は避けて通れない。
 あおいうに/河野麻実のポートレイトにはいずれ見ているにせよ見られているにせよ、この半世紀続くジェンダーの問題が含まれており、
女性芸術家の視線がいかなるものなのかを垣間見ることも可能である。また、あおいうに/河野麻実が生きた平成から令和という日本の
時代がなんであったのかもするどく含まれているとも感じる。
 これらはおそらくシンディ・シャーマンや森村泰昌のように意図してしくまれたものではないだろう。それだけにキャンディッドで赤裸々な自己というものが
露出しているとも考えられる。アートラボ・トーキョーがこれらを作品集に仕立て展覧会を企画するのも鑑賞者に問いかける実験的な表出であると思う。
これらの記録は10年のち、半世紀のちに重く深い意味を持ちうる。写真というものはそのようなものなのだ。


「アイドルを経験して」高田志織(元SKE48一期生)


 アイドルになったきっかけは、小学生の頃、テレビや雑誌に映る輝いている女の子に憧れて、芸能界に興味を持ち、沢山オーディション受けた結果、合格したのがSKE48でした。
 外から見ていたイメージは、ただただ華やかな世界でしたが、いざ自分がやってみるとダンスに歌に忙しく、短時間で振りを覚えなければならず、寝る暇もない時期もあり、裏ではこんなにもレッスンを重ねていたんだなと体感しました。
 高校時代から始めていたので、同級生よりも少し早めに社会に出た、という感じもありました。
卒業を考えていた当時の私は、とても疲れていたのか自分自身が商品でいる事に自信や期待を持てませんでした。自分自身ではなく、作品が評価されることに尊さや夢を感じ、小さい頃から好きだった物作りに方向転換しようと決意しました。

 大変な事もありましたが、それ以上に貴重な経験だったと感じています。

 あおいうに写真集のことを聞いて、現代アート界は「アイドル」現象を対象化していることを知り、アイドル界からクリエイティブに移行してきた自分とは逆の方向だなと思っています。

高田志織
愛知県・名古屋市出身。SKE48 一期生として活動後、2015年にAccessory Brand「NaAst」を立ち上げ、商業施設、ギャラリーなどでPOP UP SHOPを展開中。

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